+体温+
46 誤算。
それは、瞬きの間に見逃してしまうような、ささいな変化で。
昨今付けていたような、わかりやすい、すぐに消えてしまうようなものとは違って、もっと巧妙で、確実なものだった。
この教室の中にいるどれほどがそれに気づいたのかは定かではなかった。
みんながみんなして自分のようなマニアなわけではない。気づかなくても別に恥じることはなかった。
赤井は、廊下側の一番後ろの席から、すうっと目を細めた。
切れた糸の先を見つけようとして。
英語の授業中だった。
文系でも理系でも何系でも、外国語を疎かにして社会で生きていくことは厳しいらしい。
生徒会長という立場にいるものの、将来についての不安は等しく、同世代と共有しているつもりだった。
長い人生、描き損ねた未来の前に立ち尽くし、途方に暮れることもあるだろう。
けれど、目の前にある採択権を先に託したりはしたくなかった。
それを逃してしまったら、きっと生きている意味などないから。
授業は、長文和訳の途中で時間切れとなった。
チャイムをBGMにしながら、英語教師が次回の授業の範囲を述べている。
起立と礼を済ませた途端、彼女は立ち上がりそそくさと教室を出て行った。
それを追いかけるように彼も立ち上がり、昼休みの教室を後にした。
うーむ、赤井は腕組みをする。
一瞬、自分も続こうかと考えて、廊下に目をやると、遠目にもわかる体躯がゆっくりとこちらに向かってくるのが見えた。
廊下側の窓を開け放ち、ぶんぶんと手を振る。
「あっくーん」
ぎょっと視線が集中する。その中を、呼ばれた本人は悠々と歩いてきた。
顔はいつもの不機嫌模様で。
「あいつは?」
「柳原さんなら、さっき教室出て行っちゃったけど?」
「そうか……」
篤郎はそれでも諦めきれないのか、開いた窓から覗き込むように教室内を確認している。
赤井はほんの少し先回りを試みた。
「灰谷くんなら、そのあとを追いかけて行っちゃったけど?」
そうか、と呟いた篤郎の顔に、特別な変化は見つけられなかった。
赤井は腹の底の好奇心をくすぐられて、窓から身を乗り出すようにして尋ねる。
「いいの?」
「何がだ?」
問いかけに即問いかけで応酬された。
バスケットボールは緩急が大切なスポーツだったな、なんてことを思う。
「何か用事があったんでは?」
「……あいつの母親に頼まれて、忘れた弁当を届けに来ただけだ」
よく見ると、篤郎の手の先にはぴんく色のハンカチで包まれた、小さな物体がぶら下がっていた。ちぐはぐな取り合わせはなんとも微笑ましい。
「よかったら俺が預かりましょうか。……と言っても、昼休みの間に帰ってくるかは微妙だけど」
しばらく廊下の向こうに目をやっていた篤郎は、やがて、いやいい、と一言呟いた。
そうですか、と赤井が肩をすくめると、用を成したはずの体躯はいつまでもそこから動き出そうとせずに。
不機嫌な顔は、いつのまにかこちらを見下ろしていた。
「……お前は?」
「はい?」
「お前は、これでいいのか」
ぱちぱち、と瞬きを余分にした。
大きな身体は少し居心地の悪そうに、顔はますます不機嫌さを増して。
廊下を通り過ぎる生徒が怖がって、次々と遠回りをしていく。赤井は軽く笑った。
「……篤郎くんは?」
めげないところ。
少し前に、どこかの誰かさんにも認定してもらった長所を活かして、問い返す。
高い位置から、大きなため息が漏れた。しょうがない、という感じの。
そして、どこかの誰かさんと同じように、ゆっくりと言葉を選び始める。
何やってんだろうな、とふと思う。
廊下と教室の雑音に挟まれて、大の男が二人して。
「俺は、お前らとは違う」
ら、と普通に数えられている自分が不思議だった。まるで他人事のよう。
「どれだけ一緒にいると思ってるんだ。今さらどうにかしたりはしない。慣れてる」
強がりとも言い訳とも解釈できる。
けれど、この人物が思いを口にすることなんて恐らく滅多にないことで。
つむぎ出される一言一言に、重みが宿っている。
普段の行いから生まれる差では、今さら挽回がきかない。分が悪かった。
仕方なくて、笑った。
何やってんだろうな、と思いながら。
「俺はさ、もしかしたら、自分が思ってるよりもずっと好きだったのかもしれない」
それは、数字で割り切れない、誤算だった。
いつも適当にしているからこういう罰が当たるのだ。痛みに鈍感になる。自分のにも他人のにも。
どうしよう、と情けなくしかめた顔を、深いため息が慰める。
難儀だな、と呟いた顔は予想を裏切らない無表情だったけれど。
「なあ、うさぎの頭はいつ返せばいい?」
去ろうとする大きな背中に声を掛けてみる。
「やる」
たったの二音。
赤井はぽかんとして受け取った。どうやらまた、フラれたらしい。
思いに見合うだけの思いを返したり、もらったりするのにはどうすればいいのだろう。
近くからああいう二人の動向を観戦していたせいか、基本に立ち返ってしまう自分がいた。
廊下の真ん中を十戒のモーゼのように歩いていく背中を、赤井は苦笑しながら見送る。
敬礼でもしたい気分だった。
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