+体温+
47 理由。
何やってんだろうな、と思う。
自分の教室に戻らずに、人の流れに逆らって、特別校舎のほうへと向かっている。
篤郎は、体育館へと別れる渡り廊下の途中で立ち止まった。手に、ぴんく色の物体をぶら下げたまま。
特別何を考えていたわけではなく、足の自由にさせていたらこんなところに来てしまった。
ここまでなら購買部が体育館前にあるので人通りもあるが、昼休みの特別校舎内はひっそりとしている。
ここから先に足を踏み入れるのには、確かな理由が必要だった。
何をやっている。篤郎は誰に悟られることもない高い位置でため息をつく。
たぶんこれの届け先はわかる。おそらくあの辺りだとなんとなくわかる。
けれど、これはさっき教室であのおしゃべりな男に託すのが一番正しかったのだということもまた、よくわかっていた。
廊下の真ん中に立っている篤郎の横を、女子の集団が避けるように通り過ぎていく。
手から溢れそうなパンを抱えた女子生徒が、一人遅れて走ってきた。
「待ってよー」
高い声が耳に入るのと同時に、細長いパンの端っこが篤郎の腕に引っ掛かっかって落ちた。
あ、という声を上に聞きながら、篤郎が普段からすれば考えられないような早さで拾い上げた。
「ありがとー」
満面の笑みを感謝に代えて。
パンを受け取ろうとした途中で、あ、という表情に固まる。
女子の集団が遠ざかっていく。構わずに、女子生徒はその場にとどまっていた。
その意志の強そうな目が、篤郎の記憶の中で繋がった。
イトコの、よく隣にいる少女だ。
依子、という名前だったろうか。上の名前は思い出せない。知らなかった。
「神崎くんも購買に行くの?」
「……いや」
人懐っこく会話を繰り出されて、少し戸惑う。
この人物の頭の中には普通に自分の情報が組み込まれているのだ。
それはなんだか不思議なことで。
「これ」
パンで溢れた腕の中に、ぴんく色の物体を押し付ける。
「悪いけど、あいつに届けてやってくれないか」
「……あいつって、理実に? 別にいいけど」
女子生徒は後ろにそらしていた首の反動を活かして、大きく頷いた。
首が痛そうだった。自分と話す人物を見ているといつも思う。
パンの山の中に、ぴんく色の弁当箱を付け足す。
よいしょ、と女子生徒は器用にあごを使って、全体のバランスを整えた。
「あ、平気だよ。これくらい余裕の依子ちゃん」
篤郎の視線に気がつくと、にっこりと微笑んで見せた。
軽く礼を言うと、彼女は元気よく身を翻し、女子の集団を追いかけていった。
教室にはいなかった、という情報を伝えるのを忘れた。
篤郎が思い当たったときにはすでに角を曲がり終えたところで。
行けばわかるし、あのおしゃべりな男がお節介をしてくれるだろうが。
篤郎は一歩を踏み出し、一度だけ、しんと静まり返った校舎を振り返った。
(これでいいのか)
問い掛けた言葉はそのまま自分へと跳ね返り、一瞬だけ、頭を埋め尽くす。
もう何度目になるだろう。理由を、自分から手離すのは。
けれど、ここから先に足を踏み入れようという気持ちには不思議とならない。
二年に進級してから、イトコの表情が毎日曇っていくのに気がついていないわけではなかった。
状況も推察できたし、大変だろうと思いやることもできた。
と言って、クラスも違う自分にはどうしてやることもできなくて。
ほんの一言でもいい、励ましの声を掛けてやるだけでもよかったのだと、今ならわかるけれど。
篤郎は、本人が望む以上のことを進んで与えることができなかった。
幼い頃から、自分の気持ちをうまく言葉にすることができなくて。
優しい人に囲まれていたから、主張するまでもなく、居心地のいい場所が用意されていた。
だから、あがいたりもがいたり、そういう経験が自分には絶対的に足りていないのだと思う。
理実は、いつもそんな篤郎の代わりに、親たちにワガママを言う役割をしてくれていた。
そして、その理実が弱っていたときに手を貸した彼もまた同じ種類の人間なのだろうと思う。
相手のために動くことを、自分のためにできるような。
それならばきっと、後悔する理由はないのだろう。
このどこか淋しいと感じる気持ちとも、長く付き合っていけばいい。
あがいたり、もがいたりしながら。
Copyright (c) 2001-2006 kanada All rights reserved.