+体温+
48 ごめん。
教室の中に違う形の制服が一人。
そんな異常な状態が日常になるまで、あまり時間はかからなかったように思う。
気になったのは最初だけで、気にならなくなったのはすぐで。
それは彼女の努力のたまもので、自分の、神経の足りなさだった。
だから、気分の悪そうな顔をして教室を出て行くのを見ても、本当のところはわかっていなかった。
追いかけて、廊下でしゃがみこんでいるのを見つけたときには、驚いた。
泣いている気配がして少し、ためらった。
だって、泣かせているのはたぶん、オレだ。
オレとその他大勢と。彼女を傷つけているもの、自身なのに。
結局は、ためらったまま声を掛けて、保健室まで一緒に行った。
後悔をしている。
灰谷は特別校舎へと続く廊下を渡りながら、ぐっと拳を握った。
学校の中で一番、遠くにある場所。
入学してからほとんど縁のなかった場所が、今は少しだけ特別に変わっていた。
「……柳原?」
あのときと同じように、呼んでみた。ためらいを後悔に変えて。
室内のひんやりとした空気が答えただけで、返事らしいものは聞こえない。
あんなに騒がしかった昼休み特有の雑音さえ、今は遠かった。
追いかけるようにして教室を出てきた。途中から行き先に検討がついて、歩調をゆるめた。
あんまり具体的に考えていたわけではなかった。
話をしないと、と思って。
朝から何度も思っていたのだけれど、きっかけを探していたら昼休みになっていた。
でも、教室よりは、ここが相応しい場所のように思えたから。
本棚の間の通路にも、机やイスの上にも、自分以外の気配を見つけられない。広い室内の中で一人、途方に暮れる。
でも、確信に似た気持ちもどこかして。
本の気配に混じって、じっと耳をすましてくれているように思えた。
だから、そこから勇気だけもらう。
灰谷は空っぽの貸し出しカウンターの前に立って、白く息を吐き出した。
「そのまんまでいいから、聞いて」
あたりに視線をめぐらしながら。
部屋の隅まで届くかどうか、声量を気にして。座標をどこに指定していいのか、わからないから。
「昨日、ごめん」
深い沈黙が、肩に落ちてきた。
跳ね除けるようにもう少しボリュームを上げる。
「ごめんオレ、一番やっちゃいけなかったのに」
後悔を、口にする。
「せっかく柳原、オレのこと信頼してくれてたのに、裏切るようなことしてごめん」
最初は、同情だった。泣いているのがかわいそうで、だから。
助けてやりたい、だなんて、何がしてあげられるわけでもないのに、手を貸した。
それでも、柳原はほんの少しずつだけれど元気を取り戻していったように見えた。
やっぱり笑っていてくれるほうがいい。そう思ったのに嘘はなかったけれど。
彼女の苦痛が少しでもやわらいだならそれでいい。それで十分だったはずなのに。
灰谷は下唇を噛む。
それがどうして、いつのまにかこんな、どうしようもないことになってしまったんだろう。
返してくれた信頼を、あんなふうに中途半端に、自分の身勝手に巻き込んでしまったら、最低だった。
ずっとわかっていたのに。
柳原を苦しめて、泣かせているのはオレ自身だってこと。きちんとわかっていたはずだったのに。
「怖がらせて、ごめん」
「違う」
真下から声が響いた。
驚いて灰谷が一歩下がると、カウンターの机の端っこにぴんく色の爪が光っているのを見つけた。
小さな指は声を掛けたことをためらうように、微かに震える。
「灰谷くんが、謝らないで」
恐る恐る、灰谷はカウンターに上半身を乗っけるようにして、下を覗き込んだ。
こんなところにいた。
床にしゃがみ込んでいる頭のてっぺんのつむじが見える。
こんなに近くにいたんだ。手を伸ばせば届く距離に。
灰谷はなんだかほっとして、汗をかいた手のひらをぎゅうと握り直した。
触れるのはごく簡単なことだった。抱きしめることさえ、自分の思いどおりになる。
それが証明された今、ためらわずにはいられなかった。
底の方に隠しておいたもの。
いつまでも、それに気づかないフリをしてはいられない。
「また、オレ、泣かせた?」
涙に濡れたままの目が上を向く。
言い訳できずに困った顔をする。
罪悪感でどうにかなってしまいそうだった。
このままどこかに消えていなくなってしまったほうがいいのかもしれない。
ごそごそと音がして、慌てて、涙をぬぐう気配がする。
ポケットからハンカチを取り出して渡す。三秒くらい遅れて、ありがとう、という言葉が伝わってきた。
灰谷は視線をそらして、カウンターにこつんと額を打ちつけた。
きつく目を閉じて、叱る。今朝使った体温計を疑う。本当にもう熱はないんだろうか。
(じゃあ、どうして)
どうしてこんなに満ち足りた気持ちになるんだろう。
Copyright (c) 2001-2006 kanada All rights reserved.