+体温+
49 ありがとう。
お弁当を忘れてきた。
それに気づいたのは四時間目の英語の授業が始まる直前で。
しょうがない、パンか何か買って来よう。
チャイムが鳴るのと同時に、そう思って教室を出たはずだった。昼休みの購買は混むから早めに行かないと、と考えて。
でも、気がついたらこんなところにいる。
習慣とは、恐ろしいものだった。
図書室はもちろん、昼休みも開放している。利用者は本当にたまにしか訪れないけれど。
そのたまにの利用者のために、いつも扉を開いて待っている。
今日の当番は理実だった。
基本的に室内は飲食禁止なのだけれど、昼休みの当番に関してだけは、例外が認められている。
と言っても、今手の中にあるのは小銭入れだけで、お金は使わなければ食べられるものにならなくて。
当たり前のことを確認したら、ため息が出た。
おなかは空いたような空かないような。
なんとなく落ち着かない感じを味わいながら、理実は、いつもの定位置、カウンターの中にある椅子に座って、利用者を待つことにした。
小銭入れから床へ、お金がこぼれ落ちたのはそんなときで。
慌てて拾おうとしゃがみこむと、図書室の扉が開く気配がした。
待ちに待った利用者。
理実はさらに慌てて、体勢を整えようとした。図書委員としての構えを。
ためらいがちに呼ばれたのは、私、だった。
だから、ちょうど図書委員をやろうとしていたところだったから、反応が遅れて。立ち上がるタイミングを逃して。
理実は図書室の床にしゃがみこんだまま。
「昨日、ごめん」
謝られてしまった。
自意識過剰だったと思う。
最初は、クラス割りを見てもそんなに実感が沸いてこなかった。去年の担任からもある程度は脅されていたから。
でも、見るのとやるのじゃ大違いというか。甘かったのだ、考えが。
クラスメイトはみんな明るくて、親切だった。嫌な人なんて一人もいないように思えた。
でも話しかけたら、微妙な苦笑いと一緒に、眉が下がった。
なんとなく、自分の存在が持て余されているのがわかった。
どうしよう、困らせている。いるだけで気を遣わせて、迷惑をかけてしまっている。
どうしよう。どうしよう。どうしたらいいんだろう。
考え出すとどんどん落ち込んで一歩も動けなくなるような気がして。
だから、そうなる前に動かないと、と思った。
きっとそのうち普通に慣れるだろう。そう、考えて。
すぐ隣から聞こえてくる笑い声が遠い。
だんだん、教室にいるのがつらくなった。図書室によく逃げ込むようになった。
なんとなく学校に行きたくない日が増えた。
おなかが痛い。どうして私は女なんだろう、どうしようもないことを考えるようになった。
痛みに弱くてすぐ泣いて、どうして私はダメなんだろう。
こんなこと、みんなは考えたりしないのかな。
どうして、私だけがこんなにもダメなんだろう。
意識がすべて自分を向いて、自分だけ自分だけ、狭い世界に閉じこもるようになっていた。
一人ぼっちは嫌だった。怖いし、みじめで、頭も、おなかも痛い。
堪え切れない涙があふれてくる。
もう嫌になった。もう頑張りたくない。もういやだ。いやだ。いやだ。
「―― 柳原?」
名前、ちゃんと覚えてくれてるんだ。
最初に呼ばれたとき、そんなことに感動した。確か、ほとんどしゃべったこともなかったのに。
でも、理実もきちんと知っていた。灰谷亨、くん。今年初めて同じクラスになった。
特別目立つほうではないけれど、生徒会長の赤井くんと仲がいいから目に入る機会も多い。
いつも自然と人の輪の中にいるような印象があって。
言葉や態度や仕種のバランスがいい、男の子だった。
そんな人がどうしてここにいるんだろう。理実は首をかしげる。
どうして、そんなに心配そうな顔をして自分を見下ろしているのか。
ちっともわからなくて。
ただのクラスメイトに手を貸し出すって、どれだけ特別なことだったのか。
わかっていなかった。
弱りすぎた涙腺を、貸してもらったハンカチでなだめていると、背もたれにしていたカウンターから、こつん、という振動が伝わってきた。
理実は、床に膝をついて、こっそりと上の様子を伺った。
カウンターに上半身ごと乗っかるようにして、灰谷が顔を伏せていた。
声よりも先に、手が届きそうな距離だった。なんだか不思議だった。
少し前までは、名前くらいしか知らない男の子だったのに。
ゆっくりと顔が持ち上がる。
盗み見をしていた理実を映した目が、穏やかな色を増した。
嬉しかったの。
脈絡もなく、前後も飛ばして、理実は言いたくなった。
手を貸してくれて、すごく嬉しかったって。
言っても言っても足りないような気がして。
私がどんなに嬉しかったのか。
どうやったら伝えられるんだろう。
灰谷はカウンターの上から少し、上体を起こした。
そのまま、腕で這うようにして少し前に進む。
引かれるように理実も、カウンターに身を寄せた。
今までで一番そばに来て。
手や声よりも先に息を感じて、そっと唇が触れた。
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