+体温+
50 体温。
やわらかい、あたたかい。
一度触れて、二度触れて。
力の均衡がうまくとれずに理実が後ろに退くと、追いかけるようにして三度。
唇に優しい熱が灯る。
暖房をつけていないから、今日も図書室は氷点下で、ひんやりとしていて。
かかった吐息の熱さに、びっくりした。
理実がまぶたをゆっくりと開くと、瞬きを忘れた目と目が合った。
深い夜の闇の色に似ている。
いつもの穏やな光の中に、見覚えのないものが混じっているような気がして、理実は不思議に思う。
知るたびに知らないことが増えていくような。
「灰谷、くん?」
理実の呼びかけに、灰谷ははっとしたように瞬きをした。
やがて、ふい、と視線が落とされる。
理実も俯いて、カウンター机の木目を数えた。
まだ、このカウンターに隔たれている距離分だけは、他人事だった。実感は後ろからやってくる。
「そっち、行ってもいい?」
そっち、というのは、図書委員としての定位置を指していた。
理実は、こくりと一つ頷いた。
カウンターを背もたれ代わりにして、二人並んで床に座った。
今、待ちに待った利用者が来ても、図書委員が見つけられなくて困るだろうな。
そんな心配をしながら、理実は一向に開く気配のない扉を見やる。
灰谷も同じように、入り口のほうを見つめていた。
ぐー、と地を這うような音が響いた。
理実は慌てて、膝を抱え込むようにぎゅうと自分を抱え込んだ。
でも時すでに遅し、というか、隣からの押し殺した笑い声にあっけなく止めを刺される。
理実はどうにかしてこの場から消え去れるように願ったけれど、うまくいかなかった。
代わりに、隣から差し出された手のひらの上に、水色のアメを見つけた。
「ミント、嫌いじゃなかったら」
「……ありがとう」
灰谷くんのポケットはドラえもんの四次元ポケットみたいだ。
理実のほしいと思うものがみんな詰まっている。
透明の袋をやぶいて、水色のアメを口の中に放り込む。
おなかのふくらむような味ではなかったけれど、口の淋しさは埋めてくれる。
淋しいんだ。
実感した。
こんなに近くにいるのに物足りないような、贅沢な気持ち。
話さなきゃいけないことも、話したいことも、聞きたいことも、あった。
なのにもう、全部通り越してしまっていて。
「ほんとに」
隣の、すぐそばからの声に理実は反応する。
ひんやりとした空気が振動して、皮膚から伝わるような感じがした。
「ほんとにオレ、柳原に謝らないでいいの?」
灰谷に謝られるようなことをされた記憶がなかった。
謝りたいのはむしろ理実のほうだった。何度謝っても足りないくらい。
でも言葉にすると、灰谷はいつものように困ったような顔をするから。
代わりに、理実は頷く。
「じゃあ、謝らないで済むようにしても……いいの?」
それは、どういうことだろう。
理実が隣を見やると、灰谷もこちらを見ていて。
また、瞬きを忘れそうになる。眼球が乾いて、涙が出そうになる。
でもこれ以上みっともないところを見せたくないから我慢して。
「灰谷くんのしたいようにしていいよ」
理実は精一杯の本音を呟いた。
灰谷は少し目を見張ってから、床に伸ばしっぱなしにしていた足を、同じように抱え込んだ。自分を抱きしめるように。
たぶん、自分の存在を確かめて、励まして。そういう気持ちはわかる気がした。
穏やかな夜の色をした目は、もう一度理実に向かう。
「オレは、柳原をうんと大事にしたい」
「……私?」
「うん。でもどうしたらそれができるのかわからないから、柳原のしたいようにしていいよ」
にこりと笑む。
理実は急に自分に主導権を渡されて、どうしたらいいのかわからずに固まった。
悪戯が成功した子どものように、灰谷は楽しそうに眺める。
なんとなく理実は悔しくなって。
灰谷のことを少しずるく思いながら、自分に問い掛けた。
自分で、っていつも思っていることだった。誰にも頼らずに自分でなんとかしたい。
だからよく考える。私のしたいことってなんだろう。
灰谷くんのしたいことってなんだろう。
重なるものを思い浮かべる。
「……手」
「て?」
「手、貸してくれないかな?」
灰谷は意外そうな顔をして、自分の利き手を持ち上げて、この手? と聞いた。
理実は頷く。
「ダメだった?」
「ううん、ダメじゃないけど。手ぐらい貸し出すけど……柳原になら、いくらでも」
差し出された手を、恐る恐る理実は握る。
アーチを架けるような握手をして、理実はあれ、と思う。
想像した感じとまだどこか少し違っていた。
キーンコーンカーン、というチャイムが二人の頭上で鳴り響いた。
授業が始まってしまったらしい。時計を見ると本鈴のチャイムで、いつのまに予鈴が鳴ったのか、気づけずに。
あ、と呟いて理実が立ち上がると、手が引かれる形になって灰谷が床に膝をついた。
「あ、ごめん」
理実がは慌ててしゃがみこむと、繋がった手から振動が伝わってくるのに気づいた。
肩が小刻みに震えている。
「あの、灰谷くん?」
「……うん。あのさ、柳原」
「うん?」
「オレ、おなかすいた。ご飯食べに行かない?」
思い出して、ぐーとまた訴えてきそうになるおなかを理実はなだめる。
頷きかけて、授業はどうしよう、と続けて考える。
顔に出てしまったのか、灰谷が先回りしようと口を動かすのがわかった。
だから理実は勢いよく立ち上がって、灰谷を引っぱって立たせた。
「……行きたい」
授業をサボるのなんて初めてかもしれない。
理実が呟くと、灰谷は少し考えて、オレも、と同意した。
教室では今はたぶん、数学の授業中のはずだった。
二人とも教室にいなくて、みんな何か思っているだろうか。
赤井あたりには後からうるさく聞かれそうだな、と考えて。
なんて答えたらいいのかな、と理実は思う。
「柳原」
そう言って、差し出された手に、自分の手を重ねたら、想像どおりの温度に包まれた。
冷えた爪、摩擦で温かくなる皮膚、やわらかな手のひらの感触。
ためらうように握る手を、理実はきゅと握り返した。
灰谷は少し驚いた顔をして、困ったように笑った。
理実もほっとして笑い返した。
手と手が重なって、心と心が重なって。
触れて、確かめて、すがって、励まして、離して、触れて。
そのたびに、私はあなたの体温を知る。
おしまい
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