「―― くんって、かっこいいよねー」

 すれ違いざま、耳に入った言葉を真に受けて、目をやった先に偶然、彼がいた。
 部活動に向かう途中なのだろうか、首に赤いタオルが巻きついている。
 集団の一角に、こっそりと彼は存在していた。
 パンジーの花壇に紛れ込んでしまった、チューリップみたいに。
 そのとき、どうして彼をその「かっこいい」彼として認識したのか、何度も目の、網膜あたりに問いただしてみたけれどいまだ返答はない。
 通りすがりの誰かの言葉が、はたしてあの集団の中の誰のことを差していたのか、今さら確認する方法はない。
 第一、そんな意気地もない。 

 

 

   歌に聞く恋。

 

 

 入学式が終わり、新しい生活が始まってすぐ。
 友達を作るよりも先に彼を知ってしまった。
 それは、私の十五年間の人生の中に深く刻みこまれる。



 一年が三階、二年が二階、三年が一階、という、後輩は先輩よりも早く登校すべしという信念に基づいて建てられた校舎。
 窓際の席からは、グラウンドが一望できた。
 彼らしき姿を追いかける。ここからでは棒人間と大差ないのですぐに見失ってしまう。
 また見つける。繰り返す。少しずつ目が鍛えられて、棒の微妙な違いまで見極められるようになる。
 体育の時間と、放課後のわずかな時間だけ。
 日直とか委員会とか、ちゃんとした理由があるときだけ。
 限られた環境の中で、私は彼を見る。

 サッカー部だということ。
 ポジションは、背が低いのにゴールキーパーだということ。
 どうやら同じ学年らしいということ。
 少しずつ、彼に近づいていく。

 あるとき、その視線の行方をたどって彼にたどり着いたツワモノがいた。
 二回目の席替えで、一個前の席になった長谷川さん。

「―― くんが好きなの?」

 ぱちぱちと瞬きをして、目の表面が乾いているのに気づいた。
 そんなにじっと見つめていたのだろうか。
 長谷川さんの顔はにこにこ、楽しそうだった。

(―― はじめて、名前を知りました)

 

 浜井健くん。はまい、たけるくん。
 長谷川さんの口は、蛇口を開く側に限界までひねっているように言葉をつむぐ。
 誕生日、血液型、出身中学、得意な教科は体育、苦手な教科は音楽、好きな芸能人とその傾向と対策、そして彼女の有無まで。
 長谷川さんの所有する情報タンクは底なしのようだった。

「彼女、現在絶賛募集中だって。よかったねー」
 うん、と曖昧に頷いておく。
 日々もたらされる情報は膨大で、処理する前に耳を通り抜けていく有様だった。
 急激に形になっていく彼に戸惑っていた。
 そして、長谷川さんの役職はなんとサッカー部のマネージャーだった。
 大変、困ったことに。

「だから、紹介してあげようって言ってるのに」
 可愛らしくとんがった唇に見とれそうになって、あわてて首を横に振った。
 とんでもない。
「照れなくても大丈夫だよ?」
「ううん、いいのっ!」
 ちょっと強い調子で言い返してしまった。
 もうすぐ授業が始まる、クラス中から多少の注目を浴びた気配を感じた。
 次はなんだっけ、黒板に目をやると古典だとわかった。先生がもう来ていて、板書を始めている。
 そういえば、今日は和歌をやるぞって先生が張り切っていたのを思い出した。
 五、七、五、七、七。たったそれだけの音で自分の気持ちを伝えるってすごいことだ。
 では、この恋心をなんとあらわしたものか。
 授業早く始まってくれないかな。そう思いながら、私は言葉にしてみる。
 
「……見てるのがいいというより」
 見てるのだけがいいの、という。

 長谷川さんは古典の授業中に急に英語で話しかけられた、みたいな顔をした。



 なんだか知らない人みたい。
 長谷川さんのほうがよく彼のことを知っているはずなのに、彼女の話を聞いていると、ときどきそう思う。
 世界中の誰より彼のことを知っている、そんな高慢な思想を抱いているつもりはない。
 でも、私の中で作り上げた彼と、実際の彼がうまく重ならないのだ。
 理想が高いのか、経験値が足りないのか、両方か。
 長谷川さんはそんな私を見捨てずに、浜井くんの話題を振ってくれる。
 「彼」という認識が、「浜井くん」に変わったのはどのラインからだったろう。夏服に衣替えをした頃だったと思う。
 浜井くんが広いグラウンドの中で一際黒く見えた。
 日焼け対策したほうがいいよ。と、女子高校生としては助言したくなるような黒さだ。
 それから周りを囲うサッカーゴールが一回りほど小さくなった、ように見えた。
 中学で成長期を終えた私にとってはうらやましい変化だった。

「浜井、男っぽくなったよねえ」
 やみちゃんがオレンジ色の野菜ジュースをすする音が響く。 
 長谷川さんのことを、やみちゃんと呼ぶようになった。
 長谷川矢美子さん。サッカー部のマネージャーで、元私の前の席。
 再びの席替えで離れても、お昼休みには机をくっつけて座る。
 古典の授業中、どうしても睡魔に勝てないやみちゃんは今、私のノートを書き写していた。
「なんだか、知らない人みたいだねえ」
 やみちゃんは軽快に走らせていたシャーペンを止めて、そう呟いた私を見た。

 やっぱり、浜井くんへの感情を言葉にするのはむつかしい。
 いや、本当はとても簡単なのかもしれない。三十一音も必要あるだろうか。

 ここにあるのは、勘違い、思い込み、十五の私。以下くりかえし。
 それでも欠けるものなく満ち足りていた、はずだったのに。





 ただ、情報を伝えるアナウンサーに徹していた声が、いつのまにか映画のヒロインのような音色を帯びていた。
 もっと早く気づいてあげればよかった。
 まるで歌うように、「はまい」から「たける」と、呼ぶ名前が変わったことを。

「ごめんね」
 古典の授業が終わったあとの、昼休み。
 私が下敷きで起こしていた風に吹き飛ばされそうな、小さな声だった。
 やみちゃんらしくない弱々しい音だった。
「応援してあげられなくなっちゃった」
 彼女の目はいつもより潤い過多気味だった。
 私のほうの目は反対に潤いが足りなくて、風が当たるとひりひりと痛んだ。
「いつのまにか、私も好きになってしまった」
 ごめんなさい。深々と頭を下げる。
 すると、やみちゃんの体を覆うようにして、黒い髪が流れる。さらさらと、引力にしたがって。
 はじめて会ったときには、こんなに長くなかった。
 この髪が伸びた分だけ、募った思いがあるのだ。
 そう思うと重いというか尊いというか。
「結果として、あなたの恋に便乗したみたいになって、ごめんなさい」
 聞いていたら見ていたら話していたら、いつのまにか、好きになってしまった。
 自分が今どんな顔をしているのか、自信がなかった。
 とてもまずいことに、そういう解釈でいいならば、水が土に染みこむように私にもわかってしまうのだ。

「やみちゃん、頭をあげて? 私、大丈夫だから」
 黒髪を押しのけてあらわれた、やみちゃんの表情はけわしい。
 般若のように恐ろしく、女神のように美しい。
 私の目はスローモーション処理をほどこされたように、赤い唇の動きを追いかけた。

 ねえ、私は攻撃に出てしまうよ?
 ずるくて卑怯な手を使って、近づいてしまうよ、強引に。

 その誘いはとても甘美な響きを持っていた。
 官能の、と言ってもいい。
 感情と言葉と行動が連結される感覚。
 近づきたい、くっつきたい、混ざり合いたい。ひとつになる感覚。
 でも、それはひどくおそろしいことで。

「私はこのまま、ここにいるよ」

 この席に座って、この窓から、二人が校門をくぐるところを見ている。
 そこまで覚悟を決めて、言ったつもりだった。
 けれどやみちゃんは泣きそうに顔をゆがめて、開きかけの口を閉じた。
 きゅ、と音がしそうなくらいきつく。
 だから、聞こえたはずはない。そんな気がしたとすれば、勘違いだ。
 下敷きによって送られる風のように、私が自分で作り出したもの。

「―― いくじなし」

 


 どうしてだろう、私はただ不思議だった。
 だってこんなに満ち足りているのに。
 見ているだけでいいのに。それ以上はいらない。
 過剰であり、蛇足であり、字余りである。
 はたして、こんなものを本物と歌ってしまっていいのか。
 ノー、だと十五年分蓄積されてきた私は答える。
 この恋の八割は勘違いでできている。
  そもそもが、通りすがりの誰かの言葉が暗示をかけたことに始まる。
 運命だ。勝手にそう思って、おまじないのように繰り返して大事にしてきただけ。
 戻れるはず、本物になる手前でUターンできるはず、もっとぞんざいに扱えばいいだけのこと。
「大丈夫、大丈夫」
 鼻歌にしてしまおうじゃないか、それがいい。
 今、目を閉じて耳をふさいでしまえば、大丈夫。
 ふと思いついて、私は実際に目を閉じ、手のひらで耳をふさごうと試みてみた。
 落ち着かなければいけない。
 その隙間をついて、教室の後ろの扉が勢いよく開いた。

「あれ?」

 首に赤いタオルが巻きついている。
 半そでの体操服の上から蛍光色のゼッケンをかぶっている。部活の途中だろうか。
 肌が、まるで蒸気機関車の煙をもろに浴びてしまったように、黒い。
 出入り口を窮屈そうにくぐり抜けて、きょろきょろと高いところから室内を見回した。

「あのさ、うちのマネージャー……えっと、長谷川を、知らない?」

 放課後の教室の中で、声を発することができる対象は、私だけだった。
 なのに私は沈黙した。それが返答となった。

 首をかしげ、近づいてくる気配がした。
 私は立ち上がった。ここから、一刻も早く去らなければ。一歩でも遠くへ。
 うつむいたままでは、ごく一部しか把握できない。
 気づいたのは、どうすることもできずに距離が近づいたあとだった。
 限られた視界の中で見えるのは主に腕だった。
 少し前までの認識では、ただの棒だったもの。
 一言で黒いと言っても、ムラがある。ポッキーというほどの差はないけれど、濃いところと薄いところで線引きができる。
 白くひび割れた箇所があって、その下から一段階ほど明るい色の肌がのぞいている。
 めくったら痛そう。
 思わず顔をしかめた。

「―― さん」

 十五年分の私が勝手に反応した。
 見上げた。彼が見下ろしていたから、一直線に結ばれた。

「背、縮んだ?」
「……たぶん、浜井くんのほうが大きくなったんだと思うよ」

 言い返すと、彼は少し驚いてから小さく笑った。そっか、そうだよなと、照れくさそうに頭をかいた。
 じゃあと手を上げて、教室を出て行く。私は軽く手を振り返した。
 一人取り残されて、着席した。
 しばらくしてグラウンドに目をやると、校舎から走り出す後ろ姿が見えた。
 もう見間違えられない、棒人間。
 今の今までここにいたのにもうあそこにたどり着いている、その脚力に感動する。
 頬杖をつくと、自然とため息が出た。失敗した、そう思った。
 

 この気持ちはなんだろう。
 昔の歌人ならなんと詠んだだろう。
 三十一音ではとても足りない。
 けれど、本物には程遠い。
 私は私に問いかけてみる。
 答えは、ない。
 


 

 

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