うわぁ、前回から3ヶ月半も間が空いてしまいました。この間、まったく忘れていたわけではなく、何度か書きかけてはみたものの、上手くまとまらずに中断……ということを繰り返しておりました(^^;;)。HDの中には、この100日余り書きかけては投げ出したボツ原稿の屍が累々と積み重なってます。
……というわけで、とりあえず、前回のネタは棚の上に置いといて〜。折しも秋のブライダルシーズンということで、ひさ〜〜〜〜しぶりに、ちょっとキリコとフィアナのラブラブ関連ネタなぞを。LD引っ張り出すのがめんどくさいので、記憶に頼って書きます。
#だから、「雑文」じゃなくって、「覚え書き」なの(^^;;)。
32話でのキリコのセリフ、「おれと一緒に戦って死ぬか?」を「プロポーズ」だと解釈していらっしゃる方は結構多いのかな? わたしとしましても、確かに、あのくだりは、物語全体でもふたりの恋のクライマックスの一つ、文句なしの「名シーン」「名セリフ」だとは思う。あのシーンのキリコって、珍しくも(^^;;)確かにフィアナに対して積極的…というか、クメンでふたりが合流して以来初めて「彼女のことだけ見つめている」感じだし。
ただ、あのセリフを「プロポーズ」と言ってしまうのには、いささか抵抗を覚えるのです……。まぁ、「プロポーズ」──和訳すれば「求婚」かな──という言葉の定義、ひいては「婚姻」という言葉をどう定義するのか、にもよるのでしょうが……。
わたしの場合、婚姻とはごくごく世俗的に「富めるときも貧しきときも、健やかなるときも病めるときも……」というか、要は「けっして美しいばかりではない人生の、良いことも悪いことも、互いに分けあって、時に相手に背負わせたり、背負わされたりしながら、共に生きてゆきましょう」ってなところです。そういう意味では、キリコのセリフに対するフィアナの応答「キリコと一緒なら戦い抜いて生きるわ!」が、まさに「プロポーズ」なんですよ。
対して、あの場でキリコが持ち出した「死」という言葉は何か? いわゆる「死がふたりを分かつまで」、山アリ谷アリ楽ありゃ苦〜もあるさ〜〜♪な人生をえっちらおっちら歩んでいった先に訪れる「終着点」……というのとは、だいぶ違う気がする。彼が持ちかけているのは、「今、この場での死」だから。……これって、何よ?
……ワタクシ的答えを言ってしまうと、キリコがフィアナに「一緒に」と持ちかけた「死」とは、すなわち「永遠に変わらないもの」だろうと。
「戦い」という、(おそらくキリコ側に限ってみれば)最高に昂揚した脳内麻薬出まくり状態の中で、「ふたりの絆を永遠不変にしよう…」と、ちょっとロマンチックな言い方をすれば、「この恋の一番美しい状態のときに、ふたりの時を止めてしまおうとする」(こう書くと、『ブギーポップ』@上遠野浩平みたいね)心理。もっと下世話な言い方をすれば、(ちょっと古いけど)『失楽園』@ナベジュン……。……ったく、普段はどーしようもなくトロいくせに、いざとなったらあ、なんて誘い方をするんだ、あの男わ〜〜(-_-;;)。
……つまり、わたしがみるところ、このカップルって、お互いにこの上なく求め合って、「この相手しかいない」って思い定めているのに、その表現方法が正反対なんですよね(苦笑)。
「愛してる」→「だから、今ここで死んでもいい」
「愛してる」→「だから、なにがあっても生きていきましょう」
「愛のかたち」としては、どちらが「本当」で「正しい」のかなんて、たぶん誰にもわからない。そもそもエロス(生・性・愛)とタナトス(死)は表裏一体とも申しますし、大抵の人間はその両者の間で揺れ動くものなのでしょうし……。
ただ、キリコの場合、サンサにたどり着いた頃には、見事にタナトス方向に傾いちゃってますな(^^;;)。一応、フィアナと知り合って間もない頃には「彼女と共に生きのびたい」みたいな前向きさも多少はあったのですが……。対して、フィアナの方も、ウドやクメンではイマイチ煮え切らなかったし、クメンを脱出するときには、「生きのびる値打ちがわたしにあるの?」なんて弱音吐いたりもしていますが、このころには、ずいぶんとタフになっちゃってまぁ……。
人間の「性質」…性格・パーソナリティ・キャラクター……等々の名で呼ばれるものを決めるのは、もって生まれたものもあるでしょうが、周囲の環境やつきあっている相手によって作られるという部分も大きいと思う。32話のセリフの応酬の少し後、ゾフィーを交えての砂漠の逃避行では、奇しくもキリコとフィアナの立場が「逆」になったようにも見えるのですが……なんとなく、わたしの中では、あれは一時的に上辺の役割を交換しただけであって(根底の部分で、それぞれが向いている方向は変わっていない)、基本的な性質としては32話のように、
フィアナ:エロス側 キリコ:タナトス側
というようなイメージが出来上がっています
おお、今コーナー開始以来、最短の更新間隔だ……って、開設していきなり100日以上放置プレイしておいて、これ以上間空けられるわけなかろーが!>自分
……というツッコミはさておきまして〜〜(^^;;;)。
前回、キリコとフィアナって、共に相手に対して「プロポーズ(求婚)」めいた言葉を告げながら、その内容が対照的である、という話をしましたが……「対照的」になってしまう理由を、ふたりの「人生観」とか「生き方」なんてものの違いと見るのも、また面白いんじゃないかと思うのです。
まずは前回に続き、言葉の定義…というか、「プロポーズ」という言葉の意味するものを、今現在この場に限って暫定的に決めることから始めましょうか。
「プロポーズ」という概念を、「相手に対する言葉」に具体的に変換するとしたら……まぁ、本編中でキリコとフィアナが使ってたセリフでもいいんですが、もうちょっと応用範囲の広い言い回しにするなら、たとえば「愛している。ずっと一緒にいよう」ってなところでどうでしょう? 現実にこんなセリフ使用する人間がどれだけいるか非常にアヤシイですが(^^;;)、とりあえず、聞く側が「あ、これって『プロポーズ』だな」と理解できる必要十分条件「前提となる感情(=愛している)」「双方の状態(=一緒に)」「期間(=ずっと)」を簡潔に満たしているわかりやすい表現だと思いません? というわけで、今回は
「プロポーズ」=「愛している。ずっと一緒にいよう」
──と定義いたします。
さて、お約束を決めたところで、おもむろに32話のキリコとフィアナの例に戻りますが……このふたりの場合「一緒に」については、問題なく一致している。相手に対する「愛している」(←これも、厳密に定義を始めるととんでもなくややこしい言葉なんですが、今回はスルーします)という感情も、お互いに持ち合わせてはいる。ただ、「ずっと」という時間的概念に対する部分で、双方の間に大きなギャップがあるように感じられます。
フィアナにとっての「ずっと」は、「生涯」。今この場を切り抜ければ手に入る(はずの)、自分の命が尽きるまでの何年か何十年…あるいは、何ヶ月か何日間の時間。対して、キリコの「ずっと」は……「永遠」と言えば聞こえはよいですが、ごくごく即物的な計り方をすれば、「この戦いが終わるまで」の数十分か数時間でしかないんですよね。仮に、この場を切り抜けたとしても、「その後」の時間については、たぶんキリコの意識の中には存在しない。彼が彼女と共にしたいと願っているのは「戦って死ぬ」という「結末」だけ。
まぁ、「終わりよければすべてよし」という諺もあることですし、ロマンチックな考え方では「永遠へと連なる一瞬」というものは存在するかもしれない。場合によっては、フィアナも「その先の人生」を生き長らえるよりも「この一瞬(数十分か数時間)」で燃え尽きる方を選ぶかもしれない。でも、少なくとも、このときのフィアナにとってあの状況は、キリコにとってそうであるような「永遠へと連なる一瞬」にはなり得なかった。
この差はどこから来ると思います? わたしはそこで、ふたりの「人生観」──「己の人生をどう捉えているのか」「己の人生に何を求めるのか」──の違いが見えるんじゃないかと考えるのです。
まずキリコ側について。細かい説明をはしょって乱暴な言い方をしちゃえば、キリコにとって「死」=「終わり」って、ある意味では「救い」や「祝福」でもあるんじゃないかと思うんですよ。TVシリーズのこのころには、まだ「異能生存体」どころか「異能者」の設定も出てはいませんでしたが、そういう設定上の理屈を抜きにしても、わたしの中のキリコって「精神の深い部分で、生に倦んでいる人」というイメージが根強くあります。
物心ついたときから兵士やってて、常に一瞬先には死を警戒し続ける状況下に置かれ続けて、さりとて自分からは「次の一瞬を生きのびる努力」を放棄することもできないまま生き残ってきた(+超常現象的な力に無理矢理生かされた)18歳。「楽しいこと」とか「心地よいこと」とか、つまりは「生きててよかった」って実感できるようなことは、たぶん何一つも知らなくて、当然、未来への希望なんてものもなくて……。そんな人生送ってきたら、心のどこかに「もう、充分だ。いい加減に終わらせてくれ」って気持ちを飼ってしまったとしても、まぁ、無理はない(^^;;)。
そんな彼が生まれて初めて出逢った「大切なひと」に対して、「共に分かち合おう」と持ちかけたものが「この先の人生」ではなく、「人生の終わり」であるというのは……なんか、納得できてしまうんです。そりゃ、フィアナびいきのわたしとしては、後ろ向きな方向にばかり積極的なキリコのそういうところが歯がゆくはあるんですけどね(^^;;)。それでも、このときのキリコが「彼女と一緒に死ねる」ということに、それまでの人生のマイナスの埋め合わせがつくほどの「幸福」を見いだしていたとしたならば……ヤツにも「幸せになりたい」という人並みの気持ちが(たとえ「幸せ」の基準がフィアナや視聴者一般からはいかにズレたものだったとはしても)あったということだけは、認めてやってもいいかな…と思ったり。
対して、フィアナの望みというかフィアナ流の「幸せ」は、「キリコと一緒に生きること」。これは、前述のキリコの望みに比べたら、一般的に理解しやすい……かな? 昔、フィアナが好きでないという人から「フィアナは何がしたいのかよくわからん(だから好きになれない)」みたいなことを言われた経験があるもので、ここでも彼女の言動がボトムズfan一般の共感を得られるかどうかちと自信がない(^^;;)。
確かに、フィアナの「キリコと一緒に生きる」には、その人生において何をしたい、というような明確な「目的」のようなものはたぶんなかったんだろうな〜とはわたしも思いますし(^^;;)。私見では、彼女がしたかったことって、食べて、寝て、キリコとお喋りしたりその他イロイロ(^^;;)したり、たまにケンカしたり……と、言ってみれば「無為」な、いっそ「動物的」とさえ言えるような時間を【できる限り長く】過ごせればそれでいいという程度だったんじゃないかと。
でも、わたしは、そういう「生きることそれ自体を喜びとするような人生」を選ぼうとするフィアナが大好きなんですよ。フィアナにとっては、そういう「何の意味も目的もないような時間」を過ごし、楽しむことこそが、自分に強いられた運命に対する「反抗」なんじゃないかと思うのです。
なぜなら彼女は、「過剰な目的意識を背負わされて誕生した命」、別の言い方をすれば、「誰かの役に立つためだけに作られた存在」だから。
よく「生まれてきた理由」とか「生きる意味」と言うし、それを求めるのは一般的には「善いこと」であるとされているけれど、それって、本当に「善いこと」ばかりなのかな?…って、近年ちょっと疑問に思うんですよ。確かに、天命を知るというか、「自分はこのために生まれてきたんだ」と感じる瞬間というのは、人間として大いなる幸せの一つとは思いますが……でも、それって、基本的に「その場限りの主観」に過ぎないんじゃないでしょうか? いや、それがイケナイというわけではないのですが、ただ、「自分はこのために生を享けた」と感じるような明確な「理由」「意味」「目的」なんて、基本的にそうそうあるものではないということを前提にしておかないと、とんでもなく危険なことになるんじゃないかなぁ……と思うのです。でないと、明確な「目的」がない、まったりと生きている状態が、「無価値」ということになっちゃいません? それって、なにか違うんじゃないかと……
フィアナの場合、既に誕生の瞬間から、逃げようがないほど明確に「理由」や「目的」をイヤというほど与えられている。これは、裏返せば「その目的や理由から外れた生き方は一切許されない」、ひいては「その目的から外れてしまったら生きている価値がない」ということになると思うんですよ。そういう状態に対する「反抗」って何だと思います? 当初に強いられた「目的」とは別種の「目的」に生きること? たとえば、「キリコとの愛(苦笑)」とか? でも、それすらも、実は「別の誰かによって仕組まれた目的」であることが後に明らかになりますよね? 結局、フィアナが「誰かに利用されるお人形」であることには変わりはない。
自分の人生を「誰かのため」「何かのため」に利用される状況から脱するにはどうすればよいか? その答えの一つが、「目的」それ自体を放棄すること……ではないかと。「誰の、何の役に立たなくても、ただ、生きていたいから生きる。生きることそれ自体が幸せ。」だと、もしも言い切ることができたなら……そのときこそ、フィアナは己をこの世に生み出した存在に対して「勝利」を得たと言えるのではないでしょうか? 宇宙〜サンサ編というのは、わたしにとっては「フィアナ、静かなる反逆編」なのですが、32話での「キリコと一緒なら戦い抜いて生きるわ!」の台詞は、その最初の烽火、戦闘開始の鬨の声という風に見ることもできるかな……と。
してみると、キリコの「一緒に戦って死ぬか?」も、フィアナ「一緒なら戦いぬいて生きるわ!」も、相手の存在を足場にして「己の運命」に対する反逆の叫びであるという点では、実は同じなんですよね。
ただ、わたしの目には、フィアナフリークの欲目か、フィアナの「反逆」の方が、より強靱で鮮やかなものに感じられる……というより、むしろ、ここでフィアナの方を「カッコイイ」と思ってしまうから、わたしはフィアナフリークなんでしょうね(^^;;)。