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〜ボトムズ覚え書き〜 ロスタイムライフ編

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2009.02.11 再開のご挨拶

7年3ヶ月(爆)のごぶさたです(^^;;)。
この間に、スニーカー文庫のノベライズとか、DVDボックス発売とか、「アフター『赫奕』設定の小説もどき」とか、色々ネタを振られても、既にある意味では気持ちが涸れ果てていたので、更新意欲が湧かなかったのですが、2007年からの「まさか」の新作OVAシリーズ『ペールゼン・ファイルズ』(以下PF)リリース、更に「マジかよ」のPF劇場版公開&ノベライズ発売……と、足かけ2年に渡る立て続けの爆撃についに何かが目覚めたようです(笑)。
 というわけで、PFに触発されての覚書をちょこちょこと書き溜めていく所存……

 

2009.02.12 ロスタイムライフ

 PFの結末を見届けたことで、それ以前まで自分が抱いていたキリコ像や、キリコとフィアナの関係性が、更に明確になったような印象があります。
 たとえば、キリコについて

「生き延びること」には長けているけど、
「生きること」を知らない人

だとは常々思っていました。 対するフィアナは

(基本的に)常に「生きること」を求める人

だと。
 だけど、PF全12話(劇場版の約120分)を締めくくるキリコのモノローグ「俺にも与えてくれ。永い眠りを…」に、キリコ自身は必ずしも、好きで「生き延びている」わけではいないんだなぁ……と、思ったわけです。
 前々から、そうではないかな?とは思っていたので、件のモノローグもそれほど意外ではなかったのですが、ただ、そうしてみると上記の彼の定義について、「長けている」けど「知らない」と、外側から観た印象だけで語ってしまうのは可哀想だな……と思ってしまったり(^^;;)。

 なので、二人の性質の比較をちょっとこんな風に替えてみました。

キリコ:「終着点」を見ている人
フィアナ:「終着点に至るまでの過程」を見ている人

 ちょうど、だまし絵の「女の顔と花瓶」のように、一つの現象について、見事に別々の見方をしている二人なのかな……という思いを強くしたのです。

 この世に生きるすべての者には、いつか「終わり」がやってくる。キリコは基本的には「終わり」を先延ばしにすること(=生き延びること)が最優先なんだけど、時々無性に「終わり」に惹き寄せられることがある。PFのラストは勿論だけど、前回更新時に話題にした「俺と一緒に戦って死ぬ か?」も、PFの後だと、いっそう胸に迫るセリフに思えてきます。
 避けようとするにせよ、自ら求めるにせよ、いずれにせよ、キリコが意識しているのは常に「終わり」=「死」なんですよね。 「生き延びた」のは結果としてで、実の所は「死を遠ざけることに成功した」と言った方が正確かもしれない。

 「最後まで諦めずに生き延びる道を探す(そして見つけだす)」 というのは、TVシリーズ当時(そしてPFにおいても)の、キリコの最大の魅力でしたが、ひょっとすると「生き延びる道」というのは、彼にとっては「生を獲得するための突破口」ではなく「死の恐怖からの一時避難所」に過ぎないのかもしれない……なんてことを、PF(小説版も含む)の後では思ったりもします。
 普通の人間なら、危機的状況に陥ったとき、死の恐怖に怯え、手をこまねいている(或いは無謀な行動に出る)うちにタイムアップ試合終了……となってしまうけれど、キリコにはそれがない。恐怖に怯えるロスタイムが永遠に続く、あるいは、終わった(死んだ)と思ったら、再びフィールドに引き戻されて延長戦……って、これはキツイ。
 死がどんなに恐ろしいものであっても、普通の人間がそれを味わうのは「一度きり」だし、「いよいよ死に至る痛みや恐怖を感じる時間」も、(少なくともキリコ以外のバーコフ分隊の面子は)それほど長いものではないし、いずれにしても、本当に死んでしまえば恐怖も痛みも感じなくなる。
 だけどキリコは、「自分自身で切り抜ける」以外、「死の恐怖や痛み」から逃れる術がないっていうのは……これはもう「死からすら見捨てられた存在」と言った方がいいかもしれない。

「異能生存体」の設定が、「絶体絶命の窮地を機転と行動力で切り抜けるキリコ」というTVシリーズでのキャラクター像を損ねている……という意見は、筆者も含む長年のfanの間ではしばしば言われることですが、 筆者に限って言えば、今回のPFで「死というタイムアップが来ないからこそ、自力であがき続けなくてはならない」のがキリコなんだな……という風に、折り合いがつきつつあります。

 と、キリコのことだけ書いてたら時間切れになっちゃったので(^^;;)、フィアナについてはまた今度〜〜

2009.02.15 彼女のロスタイム

 前回更新後に、改めて古いファイルの中身を読み返してたら……まったく同じ内容の繰り返しだったことに脱力(^^;;)。つまり、それだけワタシの中では鉄板な見方だということで……材料は同じでも、調理法とか見た目が違っているのが大事なのよ……たぶん(^^;;)。

 っつーわけで、気を取り直してフィアナの場合。
 私見では、キリコが「永遠にホイッスルの鳴らない(だから自力でフィールド*を脱するしかない)ロスタイムの中に閉じこめられている人」であるとすると、対するフィアナは「ロスタイムの達人」という気がします。
 いよいよ自分の命が危ないって土壇場に追い込まれると、「死ぬ前にせめてこれだけは言って/やっておきたい!」ってのをドカンとキリコにぶつけてくる感じ。
 ちょっとした話題のネタで、「自分の命が残り××(←期限)だとしたら、何をしたい?」って質問ありますよね。彼女の場合、シャレでなく「そういう状況」に直面 する機会がたびたびあったわけですが、その都度、躊躇せず「やりたいこと/言いたいこと」をスパっと出してきたような印象があります。

 具体例ならいくつか候補はありますが、もっとも象徴的なところでは、39話「恩讐」。フィアナが初めてキリコに直接**「愛しているわ」って言ったシーン。
 そこへ至るまでの細かい状況をおさらいしますと……
 この少し前、ゾフィーに最後の予備ボンベをあげちゃって(数秒迷うキリコに、「(あの人に)あげて…ちょうだい…」と頼んだのはフィアナの方)、自分たちの酸素が尽きるのは時間の問題。諦めずに歩き続けるキリコに、「休ませて」と懇願するフィアナ。キリコの背から下ろされ、苦しい息の下で彼の目を見つめながら

「愛しているわ……。ずっと…ここにいましょう…」

…と。
 実のところ、本放送当時、「休ませて」のセリフは、いよいよ身体が辛くなって、振動が耐えられなかったのかな……なんて、言葉通りに受け取っていたです(^^;;)。中学生だったし〜。
 十数年前にビデオ(96年春から5ヶ月かけてリリースされたTVシリーズ全話版。DVD普及前は、こちらがTSUTAYAに並んでいました)で再見時になって、ようやく「休ませて」ってのは方便で、いよいよ迫ってきた「死」を前に、せめて最後に「愛してる」って伝えたかったのかな……ということに思い至りました。
 んで、また最近になって更にちょっと解釈が変わって、「死を目前にして、最後にせめて…」までは同じにしても、「愛してるわ」って言葉さえ実はオマケで、本当に望んでいたのは「彼の腕の中で、彼の顔を見ながら…」……なのかな、と。
 だって、黙っていると、キリコちゃん、最期の一瞬まで諦めずに歩き続けて前のめりに倒れそうだしね(^^;;)。「愛しているわ」と伝えるだけなら、最悪、背負われたままでもできるけど、前のめりに倒れた彼の上で背中合わせで死ぬのがイヤだったんじゃないか……と。
 つまりフィアナは「フィニッシュは相手の顔を見ながら 派」ということで(爆)。いや、冗談ではなく、結構大事なポイントかと(^^;;)。
 自分の人生の残り時間は一時間足らず、最愛の相手とは、共にいながら愛し合うどころかキスすら出来ない状況で、それでも、残り時間を最後の一瞬まで、自分の「生」を感じられる状態で過ごしたい……って貪欲さは、「ロスタイムの達人」とお呼びして讃えたい。

 もっとも、この時突破口を開いたのは、フィアナを抱きしめる一瞬目を閉じはしても、それでも前方を見ることを止めなかった(結果、墓標の列から戦場跡の酸素ボンベを発見した)、キリコの「生き延びる(或いは「死」を先延ばしにする)ことへの執着」だったわけですから、フィアナとキリコの「スタイル」のどちらが優れてるとか、正しいとか言えるようなことではないと思います。
 凡人としては、フィアナの「今を生きる」貪欲さも、キリコの「未来を引き寄せる」悪あがき…もとい、努力も到底マネはできませんので(^^;;)、両者をほどほどに見習うのがよろしかろうかと……。

 フィアナの「ロスタイムの達人」ぶりについては、もうちょっと書きたかったのですが、今夜も時間切れなので、まずはここまで……

*:field には「競技場」「コート」以外にも、「戦場」という意味もあるそうです。
**:「キリコに向かって」でない「最初」は、言うまでもなく、28話「できるわ、彼を愛しているから!」 ……イプシロンに対してです。この辺りについても、思うところはイロイロあるのですが、それはまた後日に……

2009.02.21 ふたりのロスタイム

 前々回の更新の後で気づいたのですが、TVシリーズ最終話、コールドスリープ直前のふたりの会話って、まさに

キリコ:「終着点」を見ている人
フィアナ:「終着点に至るまでの過程」を見ている人

 ですね。

キリコ:「あと二十分で眠りに入る」
フィアナ:「それまで宇宙を見ていたいわ。開けて」

 本放送当時からつい最近まで、「阿吽の呼吸でわかりあっているふたり」の典型例の一つのように感じていたこのやりとりですが、今になって振り返ると「ぜんぜん違う…っつーか、むしろ逆なんじゃねーの?」って気がヒシヒシと感じられます(^^;;)。

 まず、この短いセリフの中でも、フィアナはしっかり自分の「希望」を言ってますね。それも「〜しましょう」って「お誘い」の形ではなく、「私は〜したい」って、かなりハッキリしたニュアンスで。
 ここからして、まさしく「フィアナっぽい」セリフだな……と思います。

 『赫奕』で明かされたアレコレはいったん忘れて、TVシリーズでの「遠い未来のいつか、戦争のない世界で目覚めて…」という「建前」を当人達が(ある程度*)信じていたと解釈するにせよ「宇宙を漂う状態でいつ目覚めるかわからない眠りにつく」というのは、ゴウト達の反応からしても相当思い切った決断だと思われます。
 人生に「大きな決断」というのは色々ありますが、「現世を離れて眠りにつく」=「現在の状態からのリタイヤ」というのは、わたし達凡人のレベルで言うと、「退職」とか「引退」とかが一番近いでしょうか。人生における活動量や熱量が低い方への変化というか。
 で、その種の「ローカロリー移行系の大きな決断」をした後の人間って、少なくとも自分自身に置き換えて考えてみると、「後の些末時はどうでもいい」という気分になって、特段何かの「希望」を口にすることもなくなると思うんですよね。
 勿論、皆が皆そうというわけではなく、そしてフィアナも間違いなく「そうではない」方のタイプだったと言うだけのことかもしれません。でも、この土壇場で「〜したい」って言えるってかなり精神的にタフだよな(^^;;)とか、最後の最後に自分の視界に入るのが「キリコだけ」じゃ不満なのか?とか、よくよく考えるほどに、色々と思うところが……
 それに、どちらかというと、キリコちゃんは所恐怖症**気味じゃありませんでしたっけ?(^^;;) 宇宙編前半じゃ宇宙空間を漂う死体にリドの自分を思い出したりしてるし、基本的に、狭いコクピットにいるときが一番リラックスできるってタイプだし……。ひょっとして、あの「カプセルのシールド全開」状態は、キリコちゃんにとっては無茶苦茶怖かったんじゃなかろうか……(^^;;)。***
 あるいはフィアナの方も、それを知っていたから「宇宙を見ましょう」じゃなくて「(わたしが)宇宙を見ていたいわ」だったのか?(爆) いや、「この世の見納め」なんだから、多少のワガママは言っても許されるとは思いますが。でも、キリコが正真正銘「フィアナ以外には何もいらない」って思ってる程には、フィアナの方は「キリコだけでいい」わけではなく、現世(シャバ)への未練が大いにあった……ということなのか。

 ……といったことを考えると、『赫奕』で描かれた「カプセル内での破局」は、大いにありうることだな……と思えてしまいます(ため息)。

*:本放送当時も「あれは心中だ」って意見は当然あったと思いますが、「たとえ二度と目覚めることがなくとも、また誰かに利用され引き裂かれるくらいなら、二人一緒に……」というのも、ある種の「前向きさ」だと、わたしは肯定的に受け止めておりました。

**:SF作品だと「事故で宇宙空間に長時間放り出された宇宙飛行士の後遺症」のような形でよく登場しますが、実際にそういう症例ってあるんでしょうかね? 同音の「高所恐怖症」や逆の「閉所恐怖症」は、日常生活でも時々目や耳にすることがございますが。

***:昨年末公開された『K-20』で主演の金城武くんが、プログラム掲載のインタビューの中で、「自分は高所恐怖症なんで、ワイヤーで吊り上げられるシーンはキツかったけど、(ヒロインの)松(たか子)さんを抱えて吊られる時だけは、『守ってあげなきゃ』って気持ちの方が強くて怖くなかった」ってなことを語っているので、案外キリコちゃんもそうだったのかもしれません(笑)。
2/22追記:『K-20』プログラムの発掘(^^;;)に成功しましたので、原文に忠実に引用いたします。
──ワイヤーアクションのシーンはいかがでしたか?
「僕は、高いところが苦手なんです。ワイヤーで吊り上げられるのも怖いんですけど、松さんが横にいるときだけはなぜか怖くないんです(笑)。ふわっと落ちた瞬間に、彼女がびっくりしてキャッって言うと、『大丈夫だよ』って守ってあげたい気持ちになって(笑)。男ってこうなのかなって、動物の本能的なものを感じました(笑)。でも一人でやるときはやっぱり怖かったです(笑)。」

『K-20 怪人二十面相・伝』 プログラムより引用

2009.02.22 ロスタイムの彼女

 ここ数回に渡って、「人生のロスタイムにおけるフィアナの行動」についてアレコレ振り返っているうちに気づいたのですが……フィアナって、通 常言われるのとは違う意味で

極限状態でも「希望」を持てる人間

かもしれない、と思い至りました。
 上記のような表現で通常使われる「希望」っていうのは「現在の苦境から抜け出せる(はずだ)」って「信仰」のようなものですが、フィアナの「希望」ってのは、そういった実現の確率の低いものではなく、「その気になりさえすれば、その場で即実行できる」レベルのささやかなものなんですよね。36話での「ずっと…ここにいましょう」然り。52話での「それまで宇宙を見ていたいわ。開けて」しかり。ちょっと遡って、クメンでのおさんどん&キリコに手料理の感想をねだる……なんてのも、これに含まれるかもしれない。
 ただ「ささやか」とは言え、フツーの人間は「極限状態」の方に目が行っちゃってて、到底「その気」になんてなれないわけで……。実際、フィアナの「希望」は、実現したところで、「極限状態」を脱することには何の役にも立ちませんしね(^^;;)。
 でも、キリコちゃんのように、「圧倒的に絶望的な極限状態を乗り切る」ことなんて、凡人にはそうそうできるもんじゃないし、そもそもキリコちゃんの「極限を切り抜ける強さ」は半ば「本人の意思の及ばない、強制的な呪い」みたいなところもあるし……。

 そんなことを思うと、フィアナの「避けようのない死を前にしてもなお、『実現可能なささやかな望み』を持てること」の方が、より「ボトムズ(=底辺の人々)的」な「強さ」なのかもしれない、なんて気がします。
 あの世界で一番…とは言わないまでも、少なくともキリコよりはフィアナの方が、精神的な「自由」や「強さ」を持ち合わせているんだろうな……と。

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