ROSE HIPS
〜ボトムズ覚え書き〜 幻影棚卸し編

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2010.05.02 ただのイリュージョンと人は言うけど……

 1年2ヶ月ちょっとのご無沙汰です……というか、正直、前回の「7年3ヶ月ぶり」に比べたら、「たった 1年あまり」なんて「定期便」レベルのブランク、本人としてはそんなに「ご無沙汰」な気がしてなかったり……(^^;;)。<ダメじゃん
 PF劇場版公開前夜祭でほのめかされたソンバカトリオ登場の新作が、三月よりリリース開始のOVA「幻影編」としていよいよ姿を現しました。フタを開けてみれば、日経エンタテインメント!連載の『孤影再び』の更に後の話、2話のポタリアに続き、3話以降もまさかの懐かしキャラも続々登場予定、3話からはキリコ本人も登場……と、行く末に大いなる不安を漂わせつつも、否応なしに先が気になる展開が続いています……今のところは(^^;;)。

 当初流れた情報では、これをもって「キリコのボトムズ」完結という話ですが、あと4話でホンマに風呂敷たためるんか?(^^;;)と非常に疑いは持たれるところです(爆)。
 とは言え、ここへ来て「完結」の言葉」が出てくるだけでも、7〜8年ほど前(まだPFどころか『孤影』すら影も形もなかった頃)に比べたら、格段の変化と申せましょう。まぁ全6話で風呂敷が無事にたためようと、やっぱり失敗しようと、いずれにせよ『赫奕』ショックを引きずり続けている筆者のような一視聴者にとっては「ひとくぎり」ないし「年貢の納め時」がいよいよ近づいていることは確かなようです。

 というわけで、『幻影編』各話感想にからめて、今まで書く機会を逸していた過去話のあれこれなんぞを棚卸ししてみようか思う所存……

2010.05.04 夫婦バトル発リアルバトル行き 〜1話「ウド」

 初見時の感想は日記にも書いたように

 ノスタルジー最強。
「想いで」に勝てる人間なんていない……

 ……ダメだ、文句やツッコミどころもそれなりにあるけれど、「同窓会」の感慨の前にはすべてが吹き飛ぶ。ズルイ。卑怯。わたし含めた本放送当時視聴者と同じだけの歳月を共有したソンバカトリオって設定だけで、ある程度予想できてたことなのに、実際に目の前にしたら……もう、何も言えない……

  に尽きるのですが、正確に言うとこれ、「見終わった後の感想」でして、正真正銘の「第一印象」は、「ナレーションうざっ!」……だったり(^^;;)。
 いや、長年のボトヲタとして万丈節自体には文句のあろうはずがございませんが、内容がね〜。あいも変わらぬ「キリコ原理主義」っつーか「キリコ天動説」っつーか、名調子でうっかりごまかされちゃいそうになるけど、中身は「アストラギウス銀河はキリコ中心に回っているの。み〜んなキリコに夢中なの、ミャハ☆」って、「主人公(ないし自分のご贔屓キャラ)総受」ネタに浮かれるそのスジのお嬢さん方みたい……
 #っつーか、少なくとも20年前〜10年前(このサイトを立ち上げた頃)くらいまでは、その手の「男性fan(もちろんご当人達はその自覚はまったくなかったでしょうが)」の声が結構デカかったのが『ボトムズ』のオソロシイところである……

 あれが「ロッチナ爺の述懐」ってのなら、別にいいんですよ。『赫奕』以降の彼は、作中最大の「キリコオタキャラ」になってますから、「彼個人の視点」としてなら、さもあらん、と、別に文句はない。
 ただ、万丈ナレーションってのは、予告編なんかがその最たるものですが、「制作公式」「神の視点」の役割も担ってますから、「それ」が「そういう感覚」でいるのはいただけない(-_-;;)。

 まぁ、「主人公至上主義」ってのは、「ある程度」までは悪いモンじゃないですけどね。でも、主人公の「スペシャル(超人性とか、悲劇性とか)」を強調するために、他のキャラクターをないがしろにするようになっちゃ、「ある程度」のラインは越えちゃってると思うのです。
 もっとも、「他のキャラクターないがしろ」と受け手が感じるレベルも個人差はあるでしょうが、わたしの場合、『赫奕』のフィアナ、『孤影』のテイタニアの扱いで既に許容ライン250%越えになっております。 PFでちょっとは持ち直したかと思ったんですけどね……あちらは「女」じゃないから、ちゃんと「キリコとは独立した人格(キャラクター)」として扱っていただけただけ、のことだったのか。

 ……ってなわけで、OPの間は眉間にしわ寄せてましたが、本編が始まり、冒頭のココナとバニラの夫婦ゲンカに、とりあえず気を取り直す。
 理屈も道理もすっとばして「とにかくあたいはキリコの味方だ!」ってストレートに主張するココナと、「オレだってヤツのことは心配だけど、そんなになんでもかんでも面倒みきれるわけねーだろ!」って感じの、重すぎるものを背負った友をあえて放っておく友情と、自分たちの保身も忘れない小市民感覚の絶妙なブレンドが透けて見えるバニラの掛け合いは、本放送当時と変わらなくて……「ああ、さすがにこの二人のことは、まだ大事にしてくれているのね……」って、少しだけ安堵。
 #いえ、『孤影』の連載版じゃ、その辺りもかなりアヤしくて、「あの三人組までキリコ持ち上げ要員に使う気か!」って憤っていたもので……

 ところで、しょーもないツッコミなんですが、ここのシーンのBGM、本放送ではヘリに吊られて移動するATとか、ビーラーゲリラとの戦闘シーンとかで使われてたやつじゃないですか?(^^;;)
 なにも「夫婦ゲンカ」をそこまで不穏に盛り上げなくても……(^^;;;)。
 更に些細なツッコミですが、「結婚二十五周年」ってことは、二人が式をあげたのは、「流星」の五年くらい後ってこと?(後のシーンで再会したシャッコには「三十年ぶり」って言ってるし……)
 『孤影』を読んだ時の記憶では、「長男」は三十前後(今回のキャラデザも口髭生やしてたりで、結構歳いってそうな感じ)の印象があったんで、あの後まもなく一緒になったものだと思っていたのですが……
 こちらの世界にもたまにあるように、「事実婚」ないし「入籍だけ(あの世界にそういうシステムがあるのかどうかは別として)」状態がしばらく続いた後、ウエディングドレス着るような式を挙げたのがようやく五年後(既に一人目〜二人目くらいは生まれている)だった、って経緯でももちろん構いませんが(^^;;)。

2010.05.05 想いでは真空パックで 〜1話「ウド」つづき

 これを言ったら、このエピソード丸ごと成立しなくなっちゃうんで禁句かもしれませんが、本放送当時からのfanなら、内心誰もが絶対思っていることでしょう……ウドって、13話で壊滅したんじゃなかったけ?(^^;;)
#私見では、あの巨大なクレーターがまるごと埋まっちゃうくらいの崩壊かと思ってました……
 いや、空襲や天災で焼け野原になった都市が年月を経て復興した例は現代日本でも実際にありますから、今でも「ウド」が残っているのは別にかまわないのですが、「斜めになった戦艦」やバニラの塒(ねぐら)、ゴウトの事務所までもが丸っと残ってたりってーのは、いくらなんでもムチャでしょう(笑)。
 まぁ、百歩譲って、「メルキア軍の介入によるウド崩壊」が、わたしが長年そうと信じていたほどの大規模なものではなく、せいぜい宇宙港近辺限定のものだったとしても、3人+キリコの「想いでスポット」の完璧な保存っぷりはねーべ(^^;;)。あれじゃ、「30年」じゃなくて、せいぜい「3年」ですよ。
 特にバニラの塒は、10話冒頭でブロック単位で掃討かけられて、蒸し焼きになった(それでキリコ&3人組は穴掘って外壁伝いに逃げるハメになったんじゃなかったっけ?)はずだから、万一「箱」は残っていたとしても、壁は真っ黒にすすけ、タイヤはドロンドロンに溶けているのではないかと……(^^;;)。そこに30年の歳月を足したら、もうどんなことになるのか想像もつかない(笑)。
 #ジツはバートラー夫妻の行く先を先回りしていた「何者か」が、ご丁寧にわざわざ当時の姿を復元していた…なんてオチがラストで明かされる……なんてことはないよね、さすがに(^^;;)

 でも、そんなのカンケーない!(爆)

  「観てる最中は忘れてた」わけじゃない。ノスタルジーの大波にどっぷり溺れている最中ですら、↑のようなことはずっと意識の片隅にあるんだけど、「リアルタイムでこっち(視聴者)と同じだけの時間を経たあのふたりが、あの日あの時を語っている」ってことへの圧倒的な感慨の前じゃ、そんなことどうでもいいっていうか、大河ドラマに対して、「篤姫と小松帯刀が幼なじみ(でもって帯刀は篤姫に片想いしてた)の設定は変だ」「坂本龍馬と岩崎弥太郎が幼なじみ(でもって弥太郎は龍馬に…違うって(^^;;))以下略」の類と同レベルの「『事実』ではあっても無粋なツッコミ」に思えてくるわけですよ。
 「るせー、そりゃ確かに『事実と違う』かもしれんけど、『ウソ』を通してしか語れない『真実』ってやつがあるんだよ!」なんて開き直ってみたくなる(笑)。
 なんていうのか、「映像」それ自体は「事実をかなりデフォルメしたもの」だけれど、そこに存在する「人の想い」や「目に見えないなにか」は、確かに「真実」である、っていうか……
 「あの世界」が実在していて、実際にあの二人はウドを訪ねていて、「想いでの場所」は確かに原型を留めてはいなかったけれど、でも、あの二人があんな風に当時のことをありありと思い出して語り合った(場所はホテルの部屋か、宙港のカフェか、ウドの下町の屋台かもしれないけれど……)こと、それ自体は『真実』なんじゃないか、って思いたくなる。

 あーもう、ババアの感慨ですよ。はい、わかってます。最近fanになったお若い方々から見ればたぶんドン引きっつーか「オジちゃんオバちゃん達ばっかり懐かしがっててて、意味わかんない! ちょっと引くよね〜〜」って感想がでるのも当然だと思う…。はい、ご非難、ご不満は甘んじてお受けします。っつーか、そもそもそういうfan層が出現することすら十年前には期待すらできなかったのですから、そういう声が聞けるだけでも、なにやらありがたい気がするし……

 で、バトリング会場に移って、じっちゃん合流、シャッコちゃんと再会、デジャビュな会話からリアルバトル〜の辺りは、もうあれよあれよで流されて見てました。
 「30年前のキリコと同じ言葉で絡まれるシャッコ」は、単なる(中高年層への)ファンサービスで流してもいいのでしょうが、「クエント人=すご腕の傭兵」って、三十年前には軍人ならばある程度常識レベルだった(キリコも、実際に見たのはクメンでのシャッコが初めてだったみたいだけど、知識自体はあったようだし)ことを、イマドキの若いモン(爆)は知らない、っつーか、「クエント人」自体知らないってことなのかなぁ……なんて、ぼんやり思ったり。
 クエント崩壊当時、余所に出稼ぎ中だった者もいただろうから、シャッコが「クエント最期の生き残り」ってことはないだろうけど、たぶん三十年前に比べたら、「クエント人」の絶対数は圧倒的に減っちゃっただろうし……
#「クエント人」に関しちゃ、四巻でまたまた本放送当時の認識をひっくり返されることになるそうですが……

 んで、メカアクションに関しては黙して語らず(^^;;)。いや、面白かったですよ〜。でもわたし、ネット上じゃ悪評ゴウゴウのPF渡河作戦ですら、(映画館で見れば)興奮できちゃったメカ感度低くてお手軽な視聴者なんで〜(苦笑)。個人的には『ボトムズ』本編よりも、『メロウリンク』の方を思い出したです。
 ただのノスタルジーだけでは終わらせない、「次回へのヒキ」を強烈に匂わせての結末、に、悔しいけど、「やべ、面白いじゃん」と、ため息と共にまずは拍手。
 「謎のパイロット」の正体はもしかして……と、うっかりあらぬ期待まで抱いちゃったし……
 #そっちの期待は早くも二話にして裏切られましたが(苦笑)

2010.06.28 周回遅れで失礼します 〜2話「クメン」

 ご無沙汰しちゃいました(^^;;)。この間に既に3話の「サンサ」がリリース。内容の方は、既にご覧になった方はご存じのように、いよいよキリコ登場!に加えて「ノスタルジーだけじゃ終わらせない!」ってな急展開。発売直前には「同窓会」と銘打ったロフトでのトークイベントも開催され、そちらでもイロイロとネタがふられ……と、書くネタにはこと欠かない(アク解の記録でも、「幻影編」での検索数が急上昇してます。)状態だってのに、今更2話「クメン」での更新です(^^;;)。
 やはり物事は順を追わないとね……<苦しい言い訳(^^;;)

 というわけで、まずは前回同様、とり急ぎ日記に書いた「とりあえず一言」の転載から。

−2010.05.03付

 とりあえず、「バーカウンター」で「ジョッキ生」はどうかと思うの……(^^;;)。>ファンタムクラブrevive
 #通常、バーで出るビールはピルスナーグラスでお上品に呑むようになってます(^^;;)
 あのジョッキは、愛妻のためにバニラが(あるいは、愛妻家のバニラのためにゴウトのじっちゃんが)わざわざ用意したのだろうか……
 あとは、補佐官(秘書官?)→大統領→殿下(故人)の一方通行に萌えた!
「キリ×ザキ最大手(爆)」吉川御大がいなくても、男同士の愛憎と忠誠みたいなガチホモ紙一重の関係をナチュラルに描いちゃう(いわゆる「腐媚び」ではなく)天然ぶりは、ボトムズ制作陣の共通項であったか……とか、本放送から四半世紀を経た今頃になってゴウト×バニラに目覚めてしまった(爆)とか、結構楽しめました。

 いや、文句とかツッコミどころは、一話以上に……っつーか、正直「キリコ原理主義は死んでも直らねーな(-_-;;)」って先行き悲観したくなるような重大なアラ(わたしにとっては)もあるんだけど、それはまた後日語る(ただいま準備中)ということで……

−2010.05.06付

 えー、引き続き「ジョッキ生@一夜限り復活のファンタムクラブ」の件。
 前回、咄嗟に「ねーよ!」とは申しましたが、元々荒くれ者の傭兵相手のお店だから、ビールなんて水がわりで、グラスでお上品に呑むヤツなんていなくて、フツーにジョッキでドン、って感じだったのかな……なんて思い直したり。

 んで、連休終盤(といっても、わたしの場合、5/2〜5/5まででしたが)は、大統領閣下にバニラがお出しした、「ファンタムクラブオリジナルカクテル」のレシピを考えてました(^^;;)。

 ポイントは: 甘口/ココナッツとバニラ風味/ショート(カクテルグラス)/白っぽい色

 ということで、ココナッツならまず「チチ(ウォッカ+ココナッツミルク+パインジュース)」があるけど、あれはロングだから却下。ココナッツはミルクじゃなくて、リキュール(マリブとか)を使う方がいいかも。んで、バニラは……リキュールじゃなくってバニラエッセンス(お菓子用の)にしちゃってもいいかな。ベースは……マリブだけだと激甘だし、アルコール度数低いしなぁ……やっぱ、ここはスピリッツ使いたいよね。南国らしくラムとか……?
 と、ここまで考えたあたりで、行きつけの店のバーテンダーのお嬢さんに、上の条件のウチ「ココナッツ&バニラ」だけ知らせて相談してみたら、「ブランデーベースで生クリーム使って、アレキサンダーみたいにしてみたらどうでしょう?」と。……いいかも。
 えーっと、「アレキサンダー」というのは、定番カクテルの一つで、「ブランデー:生クリーム:クレームドカカオ(カカオのリキュール)=1:1:1」をシェイク、カクテルグラスでいただく……ということで、ほぼ作中と同じスタイルに仕上がります。通常、クレームドカカオはブラウンのものを使って「ほんのりチョコレート色」に仕上げますが、ここでは「ホワイト」(実際は無色透明)を使ったほうがいいかな。味は、材料から想像できるように、ほぼトリュフチョコみたいな感じ。「大統領閣下はお疲れだから甘いカクテルを…」という補佐官(?)の彼のリクエストにもピッタリです(笑)。
  「ココナッツとバニラ風味」をクリアーするには、クレームドカカオを減らして、ココナッツリキュールに置き換えるか、あるいは、ココナッツリキュールはバニラエッセンス同様、ほんの風味づけ程度ですませるか……

 と、ここまで絞り込めたら、後はお店でリクエストして作ってもらうだけ……ですが、勇気が出ない(^^;;)。なんだって、そんなけったいなリクエストをするのか訊かれちゃったら、どう言い訳したものか……

 ……あー、何というか、とっさに出てきた感想が腐萌えって、あまりにも欲望に忠実過ぎて我ながらあきれます(^^;;)。
 いや、そーゆー「脊髄反射」ぽい感想が、頭使ってこねくり回さなくてすむ分、一番早く表に出せるんだけど…それにしても、ねぇ(^^;;)。
 ちなみに、カクテルの方は、その後↑のバーで「バニラのリキュール」というものを教わったのですが、折悪しくW杯開幕で、仕事の後に寄り道してお酒呑んでるヒマがなくなっちゃって、まだ試してません(^^;;)。まぁ、決勝トーナメントに入って試合日程に余裕が出てくることですし、近日中に再度挑戦いたします。

 で、腐萌えの方(続けるんかい!)。本放送から四半世紀経過して今更ゴウト×バニラに目覚めた…云々ですが、正確に言うと「ゴウトのスーパー攻様属性と、バニラのヒロイン属性に気づいた」と言うべきか。
 まず、父っつぁんの方ですが、いわゆるBL、やおい等の「男同士の恋愛モノ」の中には、大昔の少女漫画や昔ながらのロマンス小説に登場する「女子の胸キュンシチュエーション」を、半ばパロディ的に大げさに誇張して表現したものがある……そうです。そういうベタなネタ本当は大好きなんだけど、今更男女でやったって、それこそ昼ドラにしかならないし、でも、男同士なら…!ってな、「萌えた〜い、でも萌えられな〜い、けど、萌えた〜い」ってフクザツなオンナゴコロが生み出した技、なのでしょうか?(^^;;) …と、伝聞・推測でしか言えないのは、わたしのそちら方面の嗜好は少しずれるので、実際に目にすることがほとんどないからで……(^^;;)。強いて言えば河惣益巳の「ツーリングEX」シリーズの主人公カップル(もちろん男同士)はそのパターンにはまるのかなぁ……。
 なんにせよ、その手の「女子の胸キュン」ツボを捉えるパターンの一つが、

大金持ちの男性/攻が「ヒロイン/受を喜ばせるためだけ」に湯水のように金を使って大がかりな演出

というヤツ。 ヘリコプター+真紅の薔薇の花束、とか、夜景を買いきってネオンサインでメッセージとか、あるいは「懐かしい想いでの場所を丸々再現(或いは、経済的に苦況に瀕したその場所を買い取る、とかのバリエーションもあり)」「ヒロイン/受にとって懐かしい相手を金と人手に糸目を付けずに探し出して再会を演出」……等々、ほらほら、まさに今回のシリーズのゴウトでしょ? (笑)
 『孤影』連載当時、半ば冗談で「ゴウトにココナより若い嫁がいたりしたっていいじゃん」ってな感想を書いた記憶がありますが、今回、2話を見ながら「これだけ(そっちの意味でも)デキる男のゴウトに女っ気がないなんて信じられん!」って、本気で思ったんですよね。あの世界はどうやら男女比が著しく偏っているようですが*だからこそ逆に「女の好きなモノを提供してくれる男」は絶対にモテると思うんですよね。バニラ達のためにかけた手間暇&金の一割程度で落とせる女は山盛りいるんじゃないかしら(^^;;)。さすがに年齢的にシモの方(いわゆる「老人のシモの世話」ではない方ね)は厳しくなっててもノープロブレム、どころかむしろ「ほんとのパパみたい」ってことで大歓迎って現金な女性も多そうだし(^^;;)。 そういやココナも、TVシリーズのクメン編でゴウトにドレスねだってたなぁ……(笑)。

 で、そんなゴウトのゴージャスかつ粋な演出に、ツボを突かれてお目目ウルウルさせちゃってるのは、「ヒロイン」のココナじゃなくってバニラの方だったりするんですよね(笑)。
 まぁ、基本的に男の方がロマンチストっていうのはあるだろうし。バニラとココナの各自の個性から言っても、一見スレて小市民のくせして、内心はずっと純情でもろかったりするのはバニラの方、ってのは確かなところだし。いずれにせよ、父っつぁんにしても、あれだけ感激してくれれば、骨折った甲斐があるってもんでしょう。ついウッカリ、「金せびり取ることしか考えてない、あつかましい女どもより、おめぇの方がず〜っとカワイイさ」ってなことになったり(爆)……しませんね、スミマセン(^^;;)。

 今シリーズのヒロインは一応(^^;;)ココナということになっていますが、「アニメ界の『赫奕たる異端』、驚異のアラフィフ(around 50)ヒロイン!」ってところを強調するように、ところどころでバッチリ「オバサン」なところが描かれちゃってますよね(^^;;)。懐かしいドレスで懐かしい歌を披露しても、ジョッキ生あおってヒゲ作っちゃう時点で、「ヒロイン」としてはどうよ?だし、ドレス姿も、トシの割にスタイルイイ方だけど、おそらくウエストやヒップは昔よりサイズ大きめだったりするんだろうな…ってカンジがするし(^^;;)。
  #もちろん、それはそれで充分カワイイというか、むしろ「話の通じない若いオネエちゃんより、こういうカワイイ(同世代の)オバちゃんと呑みたい!」って男性も多そうですが…
 対するバニラは、若い頃とあんまり体型かわってないんじゃない?なマスタースタイルで(「キリコに(この姿の自分を)見せてやりたかった」ってなことも言ってなかったっけ?)華麗にシェイカーを振ってカクテル作ったり、とどめにピッチピチのパンツ&ブーツでM字開脚(爆)まで披露しちゃうし…で、ジツは彼の方がココナよりも「正統派ヒロイン属性」あるんじゃなかろうか……ってうっかり思ってしまったワタシは、やはりどこかで道を踏み外してしまったのかもしれません(^^;;)。

 久々の更新がこんな腐萌えネタで恐縮ですが、まずはこんなところで……

*:「一億二千万」という天文学的な数の死者を出した(にも関わらず、その二年後にはまた元気に戦争をやっている…その直前にはクエント事変なんてのもあったのに!)PF最終話以降、あの世界では単に作中に女性が登場しないってだけでなく、「実際に」女性が少ない。基本的に男が大量 に余るような男女比率になってる(だから恒常的に戦争して男を間引かないと、逆に社会が崩壊しちゃう)のでは…と、筆者は推測しております。

2010.08.03 それでも銀河は回って……いないのか(-_-;;) 〜2話「クメン」つづき

 またまた一ヶ月以上ご無沙汰してしまいました(^^;;)。この間に更に4巻がリリースされ、一気に拡がった風呂敷に、「どーすんだよ、これ、どーやって風呂敷畳むんだよ、おい?(こりゃ『赫奕』ばりに投げっぱなしジャーマンか!?)」ってな展開になっておりますが、とりあえずそっちは後回しにして(^^;;)、引き続き「クメン」の感想。

 ファーストインプレッションでも書いた

 >「キリコ原理主義は死んでも直らねーな(-_-;;)」って先行き悲観したくなるような重大なアラ(わたしにとっては)

がなにかというと、やはりポタリアのこと。
 「あっけない横死」それ自体には文句はない…と言っては語弊があるかも、ですが、「まぁ、そういうこともあるだろうな」って納得はできるのです。モンダイは、それが「キリコ絡みで巻き添えになって」ってところ!
 そもそも、TVシリーズでのポタの退場の形も「生死不明」でしたが、わたしは8:2の割合で「死」の方だと思ってたし(^^;;)。そこを生き延びたのなら、殿下の菩提を(個人的願望としてはモニカの分も…)弔いつつ、クメンの行く末を見守る世捨て人にでもなっておけばよかったものを、生真面目にもわざわざ苦労を買って出て大統領なんかになっちゃったら、そりゃ、畳の上では死ねなかろう(←もちろんクメンに畳はないでしょうが、「平穏な死に方」という意味でお受け取りください(^^;;))…と思う。
 つまり、キリコに関わりなく、ポタの命数はある程度尽きていただろうに、そこでなんで「キリコ」が絡まなきゃならんのか…と。
 これ、もしかしたら最近fanになった方…そうでなくても「キリコを中心に回る世界観」に違和感を感じない方にとっては、些細な違いかもしれませんが、わたしにとっては大きな差なんですよね。

 TVシリーズをご覧になっていた方ならご存じの通り、クメン編終盤、カンジェルマン殿下・ポタリア・モニカ…と「クメンに生きた人々の物語」は、「キリコの物語」とはまったく無関係に進み、ある意味では「キリコの物語」以上に劇的な盛り上がりを見せて、幕を引きます。
#「キリコの物語」もボローを追いつめたり、イプシロンとの決闘(フィアナの介入で「未遂」に終わりましたが)とか、でそれなりに盛り上がってたわけですが。
 この「主人公抜きでストーリーの大筋が動く」って、一般的な「シナリオのお作法」としては「不可」になるそうですが、『ボトムズ』……少なくともクメン編に関しては、わたしは「むしろそれがいい」と、長年思っていたのですよ。
 抗いようもなく流れていく歴史の大河の中、渦巻の中心で呑みこまれていく者達(殿下・ポタ・モニカ…ゴン・ヌー、カン・ユーもこっちに入れちゃいましょうか)も、流されそうになりながらかろうじて岸辺にしがみつく者たち(ゴウト達三人組やシャッコ)も、別系統の激流の中にいる者たち(キリコ・フィアナ・イプシロン)も、皆、それぞれにささやかな希望や野望があって、それぞれの人生を生きている……って人間模様を、本放送当時中学生だった筆者には理解しきれるはずもありませんでしたが、長じて見直すごとに、改めて感動を覚えたものでした。
 誰の視点(キリコを含めて!)に立っても「自分の存在など歯牙にもかけない大きな流れ」ってのが確固としてあるからこそ、それぞれのちっぽけな「生」が愛しく眩しく思えて……*
 「ポタリアの物語」を描きこむには「尺が足りないから」なんて、「作り手の事情」に配慮した物わかりのいいご意見も当然あるでしょうが、その気さえあれば、あの尺の中でも「表面 上はキリコと関係なく横死するポタリア」は描けると思うんですよね。

 ファンタムクラブ襲撃
〜流れ弾で重傷を負うポタリア(そこでシャッコがポタ専用機を借りる)
〜謎のATの襲撃を交わしつつ逃走
〜 装甲車の中で虫の息のポタリア
(血まみれの彼を膝枕するのは、「ヒロイン」のココナではなく、忠実なる補佐官殿で(爆))
〜シャッコの活躍でどうにか振り切るが……
(この時、シャッコだけは謎のAT乗りの声「キリコはどこだ?」を聞く)
〜手当むなしく、そのまま事切れるポタリア
(いまわの際のセリフは、原典ママで)

 ……って、原典とほとんんど変わらない、どころかポタの最期は更にあっけなかったりしますが(^^;;)、少なくとも表面上は「亡命途中、反大統領派の攻撃を受けて死亡」という形であって欲しかったのですよ。まぁ、原典の方でも、クメンの歴史はポタの死をそう記すのだろうけれど……あの描き方だと「クメンの歴史上の重要人物(…かどうかはもっと後世にならないとわからないけど、少なくとも記録に残る程度の著名人)の死」って感覚に欠けてるんじゃないか…と。
 繰り返しますが、筆者はTVシリーズクメン編の「キリコに関わりなく人々は生き、人々は死に、そして歴史は回る」ってスケールの大きさ(と、その中で懸命に生きる小さい人々)が好きだったので。
 まぁ、毎回OPで「ヤツはアストラギウス最大の謎」ってナレーションが入るは、EDの絵柄は「キリコ天動説(キリコを中心に天の星が回ってる)」な状態じゃ、どうしたって、筆者の好みとは違う方向にしかいかないんだろうな……って半ば諦めておりますが(-_-;;)。
 …ったく、「電信柱が高いのも、郵便ポストが赤いのも、ぜんぶぜんぶキリコのせい」なんて、ペー様と老ロッチナのタワゴトだけにしておいてほしかったんだけどなぁ……

*:ちょっと話は逸れますが、『メロウリンク』のクライマックスの「開戦」も似たような感覚がありますね。主人公の全存在をかけた意地と怒り、ラスボスの「 彼」の野心、すべての黒幕のお偉方の思惑……等々、終盤で明らかになった「物語の全貌」のすべてをひっくり返して「歴史」が動く。
 その瞬間の、各登場人物の一瞬の虚脱と、「それでも」「だからこそ」、軌道爆雷降り注ぐ中、ちっぽけな銃器を使っての最後の意地のぶつかり合い。「こいつらアホや…」とわかっていながら、男泣きしつつどっぶり共感しちゃう感じとか…… (私見ですが、この最後の最後での「虚しい意地の張り合い」に気持ちが揺さぶられるどうかが、『メロウリンク』を好きになれるかどうかの境目だと思います。)

2010.10.13 それぞれのセンチメンタル・ジャーニー

 こちらでは2ヶ月以上ご無沙汰してしまいました(^^;;)。この間に、幻影編は5話までリリース、最終話の発売も間近…という現在ですが、結末はやはり「投げっぱなし」になることが、9月上旬のオールナイトイベント「ボトムズナイト」のトークショーにて既に明らかにされております……
 年明けにはOVA『孤影ふたたび』の劇場公開が予定されていますが、そちらの時間軸は『幻影編』の前ですので、「この先のキリコ」のことは、これを書いている時点ではまったく不明。
 なんつーか、「もう好きにすれば〜?」と、こっちこそ投げやりな気分になったりもしますが、ここは毒を食らわば皿まで、既にここまでつきあってしまったからには、こっちの寿命が尽きるまでフォローし続けるのもまた一興……なのか? それで本当にいいのか!?>自分

 というわけで、「真打ち登場」の3話を前に足踏みしちゃってた当ページですが、上記の通 り「キリコの物語」がこの先どう展開していくのかまったく読めない状況ですので、そちらはいったん棚に上げて(^^;;)、ここらで一つ、導入2話を改めてまとめてみようかと思ったり……

 『幻影編』全6話中の1〜2話は、言うまでもなく「バニラ&ココナと(リアルタイム視聴組も一緒に)辿るセンチメンタル・ジャーニー」です。作中では「姿を消したキリコを探して、彼との想いでの場所を訪れる」という一応の動機が提示されていますが、なんとなく、二人が探しているのは「キリコ本人」というよりも、「キリコに出逢ったあの頃の自分」もっと言うと「現在の自分に直接つながるターニングポイント」を再確認する旅だったのかな……と言う気がするのです。
 なので、あえて言うなら、1話:「ウド」はココナのため、2話:「クメン」はバニラのため、なのかな……と。

 ウドでのココナについては、特に説明はいらないでしょう。キリコだけでなく、現在の夫であるバニラ、父親(…というより伯父とか祖父とか?)同然であるゴウトに出逢い、一度は喪った「家族」を新たに手に入れることになる、「すべての始まり」の場所。当時の彼女の境遇を思えば、宿もなく飢えや寒さに苦しんだ記憶も一つや二つじゃ済まないくらいにあったでしょうが、30年以上の歳月を経て、長年連れ添った夫と共に再訪して口にするのは、「楽しかった想いで」ばかり(一部フィルターかかってますが(^^;;))。すっかり少女に戻って、屈託なくはしゃぐ彼女の姿から遡って「あの頃のココナも、それほど悲惨な境遇*にいたわけではなかったのね」なんて、今更安心してしまったり……

*:女工哀史みたいに酷使されてたりとか、わずかな食料のために身体を売ったり、更に悲惨な形だと、無理矢理客を取らされたり、みたいな、心身に虐待や搾取を(日常的に)受けるような環境、ですね。

 対してバニラの方は、「キリコと出逢う前のウド時代の自分」のことを、ココナほど無邪気には懐かしがれていないんじゃないかな……って気が、なんとなくしたのですね。
 当時の彼の境遇=兵隊上がりのヤミ屋、その日暮らしで流されるだけの、「本当のロクデナシ」スレスレの生き方…っていったら、そりゃもう、後ろ暗いことの十や二十は当然あるでしょうし(特に、お金持ちの名士となった現在では尚更)。 ひょっとすると、今でもココナに話せないようなことも、少なからずあるかもしれない。
 なのでバニラにとって「今の自分」に直接繋がるのは、クメンで「ファンタムクラブのマスター」という「仕事」を得たことではないのかな……なんて思ったりするのです。
  人間にとって「仕事」っていうのは、「己の生き方を恥じずにいられること(自尊心)」や「惚れた相手といつか所帯を持ちたいという希望」の土台となるものだ…って、なんか、昨今のワープア・派遣切り等、若年層(に限りませんが)の失業問題ならびに、それを要因とする非婚・少子化問題に通 じる**ような……(^^;;)。

**:『ボトムズ』が時代を先取りしていたというよりは、終戦間もない頃の日本全体が貧乏だった頃や、高度成長期以後のオイルショック不況等、『ボトムズ』本放送当時(83〜84年、バブル前夜の高め安定期?)には少し遠い話になっていた「失業のつらさ」を制作陣がリアルに知っていた世代だった、ということかもしれません。
 ちなみに、筆者が本放送以来十数年ぶりにTVシリーズを再見したのは、既に二度の失業経験(^^;;)を経たあとだったので、「店を焼かれたバニラの虚脱」が身につまされたと共に、本放送当時の自分(中学二年でした)にはまったく感じとれなかった「人生の苦さ」が、今で言うところの「ヤングアダルト向け作品」にがっつり盛りこまれていたことに、改めて驚愕したものです……

 一方クメンでのココナはって言うと、「ファンタムクラブ」を前にして、一瞬で「あのときの自分」に戻ってしまったバニラや、あるいは彼女自身のウドでのはしゃぎっぷりに比べると、もうちょっと冷静な印象があります。炎に包まれる店を「一夜だけの仮営業」ということすら忘れたかのように、必死で消火しようとするバニラを引き止めるのは昔と同じでも、その背後には「どんなに懐かしい想いでの場所でも、自分たちが戻るのは、子どもたちが待つあの家」っていう「現実感覚」が確固としてあるような気がします。
 もっとも、彼女がバニラより「冷静」に見える 一番の要因は「若い頃と同じデザインのドレス着せられた」という、我々中高年(うわぁ)の女にとっちゃー、否応なく「過ぎた年月」を意識させられるイベントのせいかもしれませんが(爆)。

 と、こんな風に振り返ってみると、ソンバカトリオのうち、ゴウトがあまり前面に出ないで「黒子役」に徹しているのも、なんとなく納得。
 彼の場合、若い二人のように、キリコとの出逢いによって「それまでの自分とまったく違う生き方」を掴んだ、というほどではない。それでも、確実に変わったことはあって、したたかに儲けるところは同じでも、「ただ自分のために稼いで、アテもないのに貯め込む」のではなく、「稼いだ金を他人のために使う喜び」みたいなものを覚えて、せっせとバートラー夫妻の想いで巡りの旅の演出に励むことが、彼自身の「センチメンタル・ジャーニー」なのかな……と。

 そうなると、次の巡礼地「サンサ」では、三人組(+シャッコ)はほとんど登場しないのも、ここでキリコが登場するのも、必然、という気がしてきました。
 かの地で「己の人生の転機」を得たのは誰か、といえば、もちろんウドの三人組ではなく、もう一組の三人、キリコとフィアナとイプシロン(彼の場合は「転機」と「終着点」があまりに近すぎましたが…)。うち二人は既にこの世に亡く、残るはキリコ・キュービィーただ一人……

2010.10.20 32年ってどのくらい?

 とあるご家族を例にとれば、戦災孤児の少女と戦地帰りのヤミ屋の青年が出会って、夫婦になって、身を粉にして働いて、成功して、子宝にも恵まれて(上の子達はもう成人している)、んじゃここらでフルムーン旅行してみよっか?って気になれるくらいの時間。
 現代日本で言えば、戦後まもなく〜高度成長期、くらいの時間? 終戦から32年後、昭和52年の出来事はこんなカンジ…(Wikipedia 1977年の項)。ちなみに、これから更に「32年」をプラスしたのが去年「2009年」です。ということは。昭和52年当時40歳前後(今の言葉でいうとアラフォー)だった方々にとって「終戦直後」というのは、わたしらが小学校入学前後の頃のことを思い出すのと同じ感覚だったりするのでしょうか……?
 #テレビ等のマスメディアの各家庭・各個人への浸透具合が全然違うから、そう単純に同一視はできないでしょうが。

 とある国の大統領を例にとれば、王族付の近衛将校〜〜内戦時代は傭兵〜〜(不明)〜〜大統領〜〜失脚、亡命途上で暗殺(?)と、波瀾万丈だった祖国の歴史と同じほど波瀾万丈な半生を終えるまでの時間。
 こちらの世界の歴史で言うと、たとえば明治維新(1868年)の32年後、明治32年(1900年)は、日露戦争(1904〜1905)前夜。戊辰戦争を初めとする佐幕派生き残りとの内戦、西南戦争を頂点とする不平士族の反乱を経て、日清戦争(1894〜1895)という対外戦争も経験して、「統一国家」としての日本が固まった頃…になるのかな?
#『坂の上の雲』はまさにこの時代ですね。
 いわゆる「維新の元勲」はほとんど世を去り、この頃の首相は山縣有朋(第二次内閣)。その前後の様子を見ると、まだ普通 選挙には至らないまでも(選挙権を与えられていたのは一定額以上の税金を納めた男子のみ)、一応、「選挙を経て選ばれた議員による政党政治」の形は出来上がっているくらい。
 ……なんかピンとこないな(^^;;)。
 というわけで、もっとドラマチックな例を挙げてみる。たとえばフランス革命。1789年7月14日(オスカル様の命日)から32年後、1821年は……この年、ナポレオン・ボナパルト死去。
 ええ、バスティーユが落ちた頃、一介の砲兵士官だった男が、革命後の混乱期に頭角を現し、政権のトップ、更には「皇帝」にまで登りつめ、そして失脚、エルバ島へ流刑、いったん脱出して皇帝に返り咲くも、「百日天下」で終わり、ふたたびセントヘレナ島へ流刑、6年後死去……と、ここまでが32年。
 だとすると、ポタリアが「政治家デビュー」したのは、TVシリーズでのクメン内乱直後ではなく、かなり後のことだったのかも。フランス革命で言えば、ジャコバン独裁〜ナポレオン即位 〜失脚のあたりでようやく、くらい? こちらの世界での明治維新やフランス革命後の「混乱」を考えると、内戦直後から政治的に目立つポジションにいたら、「幻影編」の時代になる遙か前に早死にしてそうだし(^^;;)。
 彼については以前、「大統領なんかにならず、世捨て人になって静かに殿下とモニカの菩提を弔っていればよかったのに」ってなことを書きましたが、あの後十年〜二十年くらいは、実際そんな状態だったけど、内戦後の混乱に揺れる祖国を見過ごしには出来ず、ついに立ち上がった…のかもしれない。
 あるいは、めぼしい人材が皆死んじゃって、とにかく生き残ってる中でそれなりの素養がある人(王族の近衛も勤まる家柄出身で、一時期は最前線の傭兵もやってた、ってのは、それなりの「カリスマ性」や「売り」になると思う…)ってことで、お呼びがかかったってのもあったかもしれないし。

 とある星を例にとれば、戦乱によって酸素ボンベがなくては生きられないほどに荒れ果 ててしまった大気が、またボンベなしで呼吸できるほどに回復するくらいの時間……だけど。
 TVシリーズのサンサの大気は、ゾフィーの軽装(首、肩、腕むきだし)や、ココナが短時間はマスク外していられた様子から見ると、「汚染(放射能とか)」というよりは「酸欠」状態ではないかと思われます。ゾフィーの家族が殺された頃=キリコがリドの作戦に参加した頃だとすると、つい一年ほど前までは、マスクなしでいられたようですから、「大気組成が変わるほどの戦災ってどんだけ〜!?」って、今更ながら疑問が……。  
 こちらの地球で言うと、アマゾンの熱帯雨林(地球上の酸素の20%を供給してるとか?)が丸ごと焼かれた……くらい? 現在の地球の酸素濃度は21%。一般 に、人間にとって危険とされる目安は「酸素濃度16%以下」だそうだから、現状の酸素の二割がまるっとなくなったら、「16%以下」になります……よね? そこまでになるには、AT使った地上戦だけじゃなくって、大規模な空爆とかもあったんだろうなぁ……
 まぁ、仮に「そう」だったとして、そんな風に喪われた森林が、32年で回復するものでしょうか? ゾフィーばあちゃんのお住まい付近は、昔とかわらず砂漠の中のようですが、サンサのどこかには、大気を人間にとって生存可能な酸素濃度にできるだけの森林があるのでしょうか? それとも、バクテリアとかを使った酸素製造巨大プラントとかがあって、現在はそれでまかなってるとか?
 #その場合、その施設の建設(ないし再建)および稼動費用はどこから出ているんだろう(^^;;;)。
 ……と、考えだすと、ある意味「復興したウドの街」以上にムリがあるような気がする「サンサの青い空」ですが、たぶん、我々には見えないところで逞しく蘇った森林が存在するのでしょう……と思いたい。
 #腐海の底には浄化された土と水がある(…だったらいいな)的な、自然への「甘え」かもしれませんが。

 そして、その星に住まう、とある老女の場合
 戦火に家族を奪われた悲しみと憎悪が、いつしか胸の奥で静かに鎮められる……不意に現れ、名も告げずに自分を手助けして一緒に暮らしてくれる青年に、感謝と、『家族』のような情愛を抱くようになる……青年の正体が、かつて自身の憎悪のありったけを叩きつけた相手だと知っても、共に暮らした3ヶ月の気持ちの方を優先できる……それくらいの、時間。
 あれからずっと一人だったのか、それとも、新たな家族を得たけれど、不幸にして また喪ってしまったのかはわからないけれど……いずれにせよ、キリコと共に暮らしていた3ヶ月は、彼女にとってかけがえのない幸福な時間だったのだろうと思うと……「よかったね」、と言いたくなる。
 ゾフィーに対してか、キリコに対してかは、自分でもよくわからないけれど……

2010.11.06 真打ち登場

 さて、いよいよ3話「サンサ」ですが……なにから取り上げたものか(^^;;)。とりあえず、暴投ネット直撃球なカンジで始めてみる。
 この回の初見はリリースよりも早く、6月の阿佐ヶ谷ロフトのイベントにて。ああいう場所で観るのって、やっぱり独特の雰囲気があって、「わ、ゾフィーだ!」、「おおっ、ついにキリコが!」(場内拍手)、「出たー!(あの小道具とか、あのセリフとか…)」「うわぁ!…っつーか、年寄りもっといたわれ(^^;;)……おおっ、シャッコちゃん&ソンバカ来た〜っ!」「待てい! そこで終わるかーー!?」……っと、一個一個のネタへのリアクションだけでいっぱいいっぱい…というカンジになっちゃうんですよね(^^;;)。
 で、最終巻6話まで出た後で改めて見直すと、この回前半のゆったりしたペースがすごく貴重に見えます(笑)。Aパートの3分の2位 までは、「ゾフィーばあちゃんの平穏な一日(やや波乱アリ)」ですし……

 午前:トラックを走らせゴビーの店へ。商売がてら軽口の応酬(かなりケンカごし(^^;;))
     黙々と作業するキリコ。
 昼:信号弾(^^;;)でキリコを呼び出して一緒に昼食。
   来てから3ヶ月になるのにまだ名乗らない男の名前を聞き出そうとするが、答えず。
   「そうかい。やっぱりまだムリかい」   
 午後:洗濯(砂漠地帯だから、午後から始めても乾くのかな)。
    ついでに居候の服も洗ってやろうと荷物を漁って、ATスーツ発見。慌てて元に戻す。
    黙々と作業するキリコ。
    沈む夕陽。
 夜: 昼と同じくキリコと差し向かいで夕食。
   見つけてしまったもののことは触れずに、キリコの仕事ぶりを褒める。
  「あんたはほんとによくやってくれる。今日もありがとうよ」
   シャワーをすませ、簡易寝台に横になるキリコ。
翌朝?:洗濯物を干してる(前日に洗ったもの? また別の洗濯物?)最中に、エルドスピーネ襲撃。

 ……と、ここまでで9分ちょい。先にも書きましたように、シリーズ後半3話はすさまじい詰め込み&駆け足の展開になることを知ってから見直すと、このゆ〜ったりとしたテンポは、「TVシリーズらしさ」を懐かしむ最後のパートと申せましょう。黙々とバーナーふるって解体作業に励むキリコちゃんの姿に、TVシリーズの、黙々とATの整備してたり、ミッションディスクのプログラム組んでたり…ってシーンを思い出したり……
 もっとも、その内容はというと、ドンパチの準備ではなく、「生活のため」かつ「他人から感謝される」という、本源的な「労働」ってところが、それまでと大きな違い……どころか、キリコちゃんの人生においては非常にエポックメイキングな経験なのではないかと思うのです。

 で、画期的といえば、合間に挿入される食事シーン(2度も!)。実はこれって(TV、OVA含めて)『ボトムズ』全シリーズ通じて初の「お茶の間」シーンではなかろうか……(^^;;)。
 「食事シーン」自体は、3話のゴウトの事務所での餌付けシーンに始まり、ファンタム・クラブでのサンドイッチ、クメンのジャングルでフィアナの手料理、サンサのムカデの串焼き、クエントでの砂モグラ……等々、「キリコ絡み」の印象的なシーンだけでもゾロゾロ出てくる(ダボフィッシュ等、キリコの絡まない食事シーンも含めたら更に増えると思う)けれど、ほとんど「非日常」の食事なんですよね。
 「いつものテーブルで、いつものメニュー、差し向かいで食事を共にする(いつもの)相手…」って、強いて言えば、ファンタム・クラブでのバニラのサンドイッチもそれに近いかもしれませんが、「食べ馴れた外食」と、「家で食べる家庭料理」って、やっぱり違いますしね。

 (たとえ一時のかりそめとはいえ)食い扶持を稼ぎ、誰かを助けるために労働して、「家族の食卓」で食事して、シャワー浴びて、眠って……って、「普通の生活」「日々を生きること」を、『赫奕』と『孤影』を経たキリコが、淡々と積み重ねているのか…と思うと、改めて、なんとも言えない気持ちになりました。
 『赫奕』において、「流星」時点のキリコが、自分の人生を完全に捨ててかかっていたことが明かされています。そんな彼が、「幻影編」3話において、再び「生き始めて」いることに、「よかったね…」と、キリコの「再出発」を喜ぶのがfanの正しい道なのでしょうが……正直、筆者には素直に喜びきれないところがあります。
 だって、彼がそこに至るまでに、フィアナとテイタニアという二人の女の人生が、踏み台になってるんですよ(筆者がなぜそう思うのかについての説明は、いずれ別項にて語るので、ここでは省略。ついてこれない方はごめんなさい、です)。キリコの「再生」のために、それほどの犠牲が必要だというなら、「そんなに人生に嫌気がさしているなら、永久に引きこもってればいい。彼女らを巻きこむな!」って言いたい気持ちが、今でもず〜〜〜〜っと心の奥底の方に残っていて消えないのです。
 もちろん、キリコが悪い訳じゃないってご意見も当然あるでしょうし、ましてテイタニアに関してはOVA版でどのような扱いになるかはまだわからないわけですが……

 ただ、キリコがどんな業*を背負っていようと、名を伏せた彼と暮らした3ヶ月間は、ゾフィーが幸せだっただろうこと、彼の正体を知ったときにも、かつての、己も相手も焼き尽くさずにはいられなかったほどの憎悪が、今は薄れていることに気づけたこと、については、掛け値なしに「よかったね」と、ゾフィーのために思うのです。
*:レッドショルダー云々ではなく、彼が、フィアナとテイタニアに対してやらかしてしまったこと(おそらく制作側は「気づかない」か「見ないフリ」をしている…あるいは「愛するキリコのためなんだから、それくらい本望だろ」とか思ってそうなこと)…ですね。

 ……なんか、予定よりいきなり重くなっちゃったな(^^;;)。当初は「ひょっとして、この回って『バグダッド・カフェ』?」とか、「キリコちゃんの幻のシャワーシーンとTVシリーズ39話のカメラワークの類似について」とか、お気楽ネタを振るつもりだったのですが……(^^;;)。まぁ、それは次回にでも。

2010.11.15 ホントに覚え書き(^^;;)

 いきなりですが、今日、ハロワで順番待ちのあいだに読んでた本より引用:

 これから読んでいただく十二の短編は、二、三のものを除いては、みんなパリが私の心に刻んだ物語である。なぜ『42年の物語』ではないのか……。心にわだかまる事件や人物、その背後に見え隠れするそれぞれの時代の光りと影。それが刻んだ長い年月にわたって疼いた痛みやよろこびは、三十年ほど経つと、まるで潮が引くように、あるいは心変わりした潮の流れが思い思いの方向へ散ってゆくように記憶の中を遠のいてゆく。消え去るのではなく、ある静かな風景として、あるいは、もう手を加えられたくはないある姿を作って心の中に沈殿する。だから『30年の物語』とした。
 三十年経っても、まだしたたかに心の中を立ち退かないしこりがあるとしたら、それはもう物語ではなく、その人物が外に晒したくはない魂の在り処。それを書く日が私にやってくることがあるだろうか……。

──岸惠子『30年の物語』(講談社文庫)「プロローグ」より

 あの砂漠の追跡行も、サンサの赤い空が再び青くなり、マスクなしで表を歩けるようになった頃には、ゾフィーの中では「ある静かな風景として、あるいは、もう手を加えられたくはないある姿を作って心の中に沈殿」していたのかな……と思ったり。キリコに背負われながら、淡々と想いで語りができた…というのは、そういうことなんだろうな…と。
 ただ、忘れちゃいけないのは、引用の後半「三十年経っても、まだしたたかに心の中を立ち退かないしこりがあるとしたら……」の部分。「幻影編」では「キリコとの再会」の方がメインになってるから、そっちには当然触れられないけれど、たぶんゾフィーの中には、きっと「立ち退かないしこり」は今も残っていると思うから……。
 キリコを赦せるようになったとしても、家族を喪くした痛みが消えるわけではない。「それとこれは別 」って、割り切りがついただけかもしれない。ご亭主や子どもたちのことは、思い出さないように、意識や記憶の奥の奥にしまい込んでいるだけかもしれない。もしもあれから、ずっと独りで生きてきたのだとしたら、尚更……。

 ……って、予告と違うネタですみませ〜〜ん。現在、わたしの中で突発的に、岸惠子様ブームが盛り上がってしまい、表の日記で書きかけの『Case;IRVINE』感想はじめ、あちこちの書きかけのネタ(冬コミの原稿含む)が圧迫されております(^^;)。こっちも、せっかく『バグダッド・カフェ』借りてきて観たり(実はちゃんと観たのはこれが初めて(^^;;))、39話見直したりと、イロイロ仕込みをしてたのに〜〜。早いところ書かないと忘れちゃいそうなので、なるたけ早くブームが収まるように、とりあえずここでちょっと放電してみる。

2010.11.26 CALLING YOU...?

 そんなに沢山映画を観てるわけではないので(数年前の『ゲド戦記』まで、10年近く映画館に行ってなかった時期もあったし)、詳しくは知らないのですが、いわゆる「ミニシアター系」って映画、ありますよね? 言葉通 りに解釈するなら「大規模なロードショーではない、単館上映な映画」ってことになるのでしょうが、そんな中でも、内容に「一定の傾向」 のものを特にそう呼んでいるような印象があります。
 #同じく「単館上映」でも、あんまり重たいドキュメンタリーものとかは含まれないっていうか……
 大抵は「心に傷を負った(とは限らないけど)少しわけありな人々」が小さな舞台(お店とか家とか)に集まって、そんなに大事件が起きるわけではなく、淡々とした日常描写 が続いて(しばしば、印象的な食事シーンがあったりする)、映画が終わる頃にはなんとなくキャラクターおよび観客のココロの傷がちょっとだけ癒されて(もしくは「癒された気」になって)静かにエンドマーク。で、女性誌等では「オススメのハートウォーミングな映画」みたいな扱いされる作品。最近の邦画だと『かもめ食堂』はじめ、スタッフロールに「フードスタイリスト 飯島奈美」とある作品は、ほぼ確実に「ソレ系」と申せましょう。
 #ってことは、『南極料理人』や『深夜食堂』(ドラマだけど)もソレ系ってことか……?(^^;;)
 そんな「ミニシアター系」の映画人気の元祖的存在の一つが、『バグダッド・カフェ』(日本公開は1989年)だそうです。実際、公開当時、各種メディアでの取り上げられ方が「これを好きっていうことがオシャレ」的なムードだったことは、わたしも覚えています。当時こまめにインタビューをチェックしてたとあるミュージシャンも「今年一番面 白かった映画」って挙げてたな〜。主題歌の「Calling you」もヒットして、いくつもカバーが出ましたしね。
 …と、書いててなんですが、実はわたくし、この作品をちゃんと観たことがなかったのです(^^;;)。上記のような感じで、メディアや口コミで話題になることが多い作品って、観る前からなんとなく観たような気になっちゃって、実際に観るのが後回しになる…ってこと、よくありますよね?(爆)
 そんなわけで『バグダッド・カフェ』=「Calling you」「黒衣の太ったおばちゃん」「砂漠の給水塔」くらいしか知らない人間が、幻影編の3話を観て、「あれ?」と思ったわけですね。まぁ、共通 項は「砂漠」「太ったおばちゃん」「給水塔(…に見えたけど、実は燃料タンク)」くらいなんですが(^^;;)。
 まぁ、折角だからこの機会にちゃんと観てみよう…と、TSUTAYAで借りたですよ。したら、まず、ジャンルが「ドイツ映画」だったことに驚き(舞台はアメリカなんだけどね)、「太ったおばちゃん」が「黒衣」だったのは最初のうちだけだったとか、上記リンク先の画像にもある、おそらく映画の中では一番有名な「給水塔を掃除するヒロイン」のシーンがほんの一瞬だけだったとか…等々、やっぱり「ウワサだけで観た気になってはいかんな〜」という当たり前の結論になりました(^^;;)。
 話の方は、前述の「わけありの人間が集まる小さな店で〜やがて癒されて〜」っていう「ミニシアター系のフォーマット」にほぼ添った形だったのは、こちらの方が「元祖」だということを思えば、当然なのか。まぁ、ところどころ、掟破りもありますけどね(^^;;)。最初にしか出てこないヤスミンのご亭主とか、「みんな仲が良すぎる」っつって出て行っちゃう刺青師のおねえちゃんとか。
 で、その後で改めて幻影編3話を見直したら、こちらも前半(エルドスピーネが現れるまでの9分間)「ゾフィーばあちゃんの一日」パートが、「わけありの人間が〜(以下略)」な「ミニシアター系映画のフォーマット」を思いっきり踏んでますね(^^;;)。冒頭の、ゾフィーがトラック走らせてるシーンに「Calling you」はすごく似合いそう(笑)。

 でも、制作側が『バグダッド・カフェ』ないし他の「ミニシアター系映画」を意識していたかというと……たぶん「NO」だろうな…とは、思うのですが。
 「名画オマージュ」ってのは、言うまでもなく『ボトムズ』 TVシリーズ名物(^^;;)の一つで、今回の「幻影編」でも、4話で『レッドクリフ』してたり(あと、『STAR WARS』のep2っぽいところもあったり…)で、 本放送世代には「おー、やってるな〜」と「作品の外側」でも懐かしく思い出させてもらいましたが……でも、それを含めても、すべて「ハリウッド娯楽大作」なんですよね。基本的に。>名画オマージュ
 『ブレードランナー』『地獄の黙示録』『ディアハンター』(ほかベトナム戦争もの)『エイリアン』『デューン』『2001年宇宙の旅』。で、『ペールゼン・ファイルズ』では『プライベート・ライアン』(それとも『史上最大の作戦』の方かな?)があって、『幻影編』では『レッドクリフ』『STAR WARS』 ……と、このラインナップに『バグダッド・カフェ』はいかにも浮きますね(^^;;)。
 だいたい、本気で『バグダッド・カフェ』するなら、やはりキリコちゃんが脚立に乗って、あの給水塔だか燃料タンクをお掃除せねば(笑)。あと、魚眼カメラ!(…でいいのかな?)
 『バグダッド・カフェ』作中では「ブレンダ(もう一人のヒロイン)の逃げた亭主視点(遠くからこっそり双眼鏡で覗いている)」として使われていたレンズ越しの丸いフレームの画面 が、89年の公開当時の評で、「独特のカメラワーク」なんて言われてたことを、DVD観ているうちに思いだしました。
 後の展開(エルドスピーネ襲撃)を思えば、ゾフィーの家のテラスを映したショットがいきなり魚眼レンズ越しみたいになってて、「なにこれ? 『バグダット・カフェ』?(笑)」とかって視聴者を笑わせといて、「実はこの家を偵察してたATでした!」ってのが後から判る…とかってなっても楽しかったのでは…なんて、後知恵ながら思ったり……
 そういや、高橋監督は、数年前の作品で「カメラマンのレンズ越しのショット」にこだわってたんじゃなかったでしたっけ……?  あれはもう、マイブーム終了なの?

2010.11.27 ちょっとだけフォロー

 映画絡みの話続き…。
 まずは『ボトムズ』における「名画オマージュ」の件、TVシリーズだけじゃなくって、PFでもやってましたね。「渡河作戦」で『プライベート・ライアン』(だっけ?)。というわけで、上にも書き足しておく。
 あとは、『幻影編』3話と『バグダッド・カフェ』の共通点もう一つ。「もう若くない(…って控えめな言い方ですが(^^;;))ヒロインと、おじいちゃんのロマンス」。もっとも、ハッピーエンドの『バグダッド・カフェ』と違って、こちらは、むごい形でおわってしまいましたが……

 と、前回のフォローが済んだところで、いよいよ「シャワーシーン」の話に…行く前に、自分が風呂入ってきます(^^;;)。

2011.03.15 チラリズム…?

 というわけで、さんざん引っ張った「シャワーシーン」ネタ。
 実のところ、映像的には単なる「お着替えシーン(腹チラあり)」なんですけどね(爆)。それも「脱ぐところ」じゃなくって「寝支度の最後にTシャツ着るところ」(←キャプってご説明できないのが残念です(^^;;))。
 時間で言うと、ディスクの最初からカウントして、8:39(←Mac DVDプレーヤーのタイマー表示。以下同)過ぎたあたり。ちょっと遠回りですが、その前から、カット割…というか、カメラが切り替わるごとに解説しちゃうと……

1.遠景で砂漠。カメラ移動して、ゾフィーの家の全体がフレームに入る(8:25〜8:30
2.ゾフィー宅のポーチ(8:30〜8:32
3.体育館か倉庫のようなドーム状の天井。上方に通路、クレーン、窓など)。(8:32〜8:35
   SE: シャワー音
4.カメラは人間の視線くらいの高さに。床、壁際に並んで置かれたガスボンベ等(8:35〜8:37
  SE: コックを閉める音とともにシャワー音止まる。
5.画面奥、簡易寝台に腰掛けてシャツを着るキリコ。カメラの焦点はそちらではなく、画面手前右側のシャワーヘッド(水滴つき)とシャワーカーテン(?)に合っている。(8:37〜8:40
6.シャツをウエストにインしたあたりで、焦点はキリコに(8:37〜8:41
  SE: 水滴の落ちる音。

……と、わずか15秒程度だというのに、無茶苦茶こったカメラワークで、しかも「そのもの」は見せてない。わたしのようなウッカリ者は、リピート何回目かまで、「シャワーシーン」だとすら認識してませんでしたよ(笑)。
 3、4の「水音」「コックをひねる音」。5、6の「シャワーヘッド」に気付いたところでようやく、「え〜、これってシャワーシーンじゃん!」ってわかったくらいで……

 んで、唯一、キリコちゃんのお肌をさらす「腹チラ」カットも、カメラは礼儀正しく、「目に入っているけど見えてない」状態になってるし〜(^^;;)。
 今ではほぼ絶滅危惧種となった「清純派」「お姫様女優」とか言われてる女優さん(しいて近年の例を挙げるなら、筆者世代だとデビュー当時の沢口靖子とか、最近だと、初期の長澤まさみちゃんぐらい)を撮るときだって、そこまでお行儀のよいカメラって記憶にない……。古き良き時代のハリウッドか、クロサワ、オヅの頃の日本映画まで遡らないとダメ?(爆)

 かといって、フツーに「女優撮り」*されるキリコちゃんは、それはそれでなんかイヤ(^^;;)。『Case;IRVINE』の主人公くらいな感じならいいんだけどバンダイビジュアルで無料視聴できる前半部分で観られます。>アービンシャワーシーン)……と書きかけて気付いたのですが、映像や漫画では、「シャワーを浴びてる時の表情」って、そのキャラの文字通り「裸の内面」が見えちゃうんですよね。普通にリラックスして楽しげだったり、あるいは何かに悩んでたり、こんな時ですら何かを拒むように険しい表情だったり、たとえ洗浄中の機械のように無表情だったとしても、それはそれで「ただならぬ精神状態」だってことが、観る者にわかってしまう。
 このときのキリコちゃんがどんな顔してシャワー浴びてたのか、知りたいような、知りたくないような……なので、やっぱここは「直接見せない」が正解、なのかな?(^^;;)

*「女優撮り」: シャワーを浴びる足元(片足のかかとは上げている)から移して、カメラが上方に移動していく……っていう、シャワーシーンの定番のカメラワークを、こんな言い方をすることがあるみたいです。確かウド編のフィアナのシャワーシーンもそんな感じだったような記憶が……
 元祖がどれかは存じませんが、映画等でかなり古くから(ひょっとしてヒッチコックとか?)あると思います。ちなみに、筆者がもっとも最近観た例でいうと、『相棒 劇場版2』にて、及川みっちー演じる神戸尊が、「剣道のおけいこ後にひと汗流すシーン」(^^;;)。なので、もしかすると昨今は女優さんの専売特許ではないのかも(笑)。
 ……ってことは、スタッフの「カメラワークへのこだわり」がちょっと違う方に向かっていたら、キリコちゃんも女優撮りされていたのか?(爆)

 

 

 

 

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