*WIN版IEはフォントサイズ「小」以下を推奨

コーナーMENUに戻る

序論:『ボトムズ』における「恋愛」の機能について
〜時間のない人はここだけでも読んでください〜

「恋」に「理屈」などない。だけど、「原因」はある。
「恋に落ちた相手」ではなく「自分自身」の中に。

 『ボトムズ』=ラブストーリーであるというのは、本放送当時、あるいは数年前ならまだしも、今となっては既に声を大にして訴える必要もない、「自明の事実」と言えるでしょう(^^;;)。
 (少なくともTVシリーズでは)『ボトムズ』という物語は「個人の尊厳の獲得」を主題の一つに据えていたと、わたしは受け取っています。「戦争」という、あらゆる人間の尊厳が踏みにじられる状況の中で、「代替可能な消耗品」として扱われてきた人間が、「他の誰でもない、世界でただ一人の自分」としての己を見出すことで、運命に逆襲する物語だと。
 そういう意味では、「個人の代替不可能性(=そのひとでなくてはダメ)」を核に持つ「恋愛」という事象は、「戦争」の対極にあると言えますね。この一点をもってしても、「キリコとフィアナの恋」が、物語の中で、単なる彩りを越えて、「主題」級の大きな存在になってしまうのは、「必然」ではないでしょうか。

 しかし、「ふたりの恋」について具体的に考えをめぐらせますと、今も「(キリコとフィアナの関係が)よくわからない」という声がしばしば聞かれます。
 その原因の一つに、キリコが、フィアナのことをどう思っているのか、彼女のどこに惹かれているか……などをほとんど語らないから、というのもあるのかも。
 これでフィアナが、誰が見ても「魅力的」なキャラクターなら、それでも問題はなかったのでしょうが、困ったことに、彼女は、いわゆる「(男性)アニメファン受けする」ようなタイプとはお世辞にも言えませんし……(^^;;)。わたしにすれば、男性諸氏からは「わからない」と言われる部分こそが、フィアナの「オタク向けペット女ではない、リアルな女らしさ」として、魅力になっているんですが、それはさておき。

 「なぜキリコはフィアナを愛したのか?」──この、あまりにも基本的な命題に、どんな答えが与えられるでしょうか?
 彼女が「魅力的」だから? しかし、多くの視聴者には彼女の「魅力」が伝わっていない。ならば、『ボトムズ』は、「ラブストーリー」としてはご都合主義の失敗作なのか? キリコとフィアナの恋は「ヒーローとヒロインのお約束」以上の意味はもたないのか?
 ……いえ、そうではない、とわたしは思います。キリコの、フィアナに対する気持ちは、「愛」と呼ぶにはイロイロな意味で足りないとは思いますが(^^;)、まぎれもなく「恋」だと断言できます。(フィアナのキリコに対する気持ちについては、本コーナーの拙文「私的フィアナ論概説:初級編」にて少々語っておりますので、よろしければそちらもご参照ください)
 確かに、キリコは、相手のことをどう思っているとか、相手のどこに惹かれているのか、なんてことは、ほとんど言葉では語ってはくれません。どうかすると、なぜ自分はこんなに彼女を求めるのか、そもそも自分が彼女を求めるこの気持ちが「何」なのか、キリコ本人にも解っていないんじゃないかってフシ(^^;;)も頻見されます。
 でも、だからこそ、キリコのフィアナへの気持ちは「本物」だと思うのです。
 なぜなら、人が恋に落ちるのは、「理屈」では説明できないから。逆に言うと、「こういう理由があって好きになった」なんて、当人に理路整然と説明できるようなのは「恋」じゃないんですよ。
 「恋」とは、「そのひとが魅力的だから惹かれる」というものではない。
 「何故だかわからないけれど、そのひとが気になってしかたがない」という不可解な現象こそが「恋」なんです。場合によっては「魅力的だ」なんてプラスの感情ですらなく、「ただ、どうしようもなく目障りで、腹が立ってしょうがない」というマイナスの感情を伴っていることもあるけれど、とにかく、ふと気がついたら、その相手のことが頭から離れなくなっている。いったい「いつ」「どうして」そうなったのか、自分でも説明できない。だけど、その相手のためなら、自分でも信じられないような大胆な行動が取れてしまう……
 キリコの、フィアナに対する感情や態度って、まさにそうですよね。それこそ、人が古来より、「恋」と呼んできたものではないでしょうか。

 とは言え、まったくの無から有は生まれないというのも、世の道理。明確な「理屈」や「理由」などないのが「恋」だとしても、「他の相手ではなく、その相手に対してだけ、そうなってしまう」には、ある程度の「傾向」や「法則」のようなものは存在すると思うのです。
 とある本でみかけた記述ですが、「現状に満足している人間よりも、不満のある人間の方が恋に落ちやすい」そうで、これって、キリコとフィアナに限らず、『ボトムズ』の中で描かれたすべての「恋愛」について当てはまる気がします。
 フィアナがキリコに、キリコがフィアナに惹かれたのも、ココナがキリコに想いを寄せたのも、バニラがそんなココナに惚れたのも、根底にあるものは、「今自分が置かれている境遇から抜け出したい、自分を変えたい」という無意識の願望である……という解釈も可能ではないでしょうか(無論、制作者の意図したものというより、結果として、だとは思いますが)。
 彼や彼女がその相手に恋したのは、相手の中に、自分や周囲の人間にはないものを感じたから。その相手と共にいれば、それまで漠然と不満を感じていた「今の自分」を捨て、「なりたい自分」になることができるかもしれないと、無意識に期待しているから──たとえばバニラの場合、ココナがそばにいてくれれば、自分は「ホントのロクデナシ」にならずにすむ、とか──無論、当人には一切そんな意識はないでしょうが、「な〜んか相手のことが気になる」気持ちの水面下では、そんな精神の働きがあるように見えるんです。

 そう考えると、「唐突だ」となにかと評判の悪い(^^;)テイタニアの場合も、きわめて「ボトムズ的恋愛」だと言えるのではないでしょうか。
 人が、ある対象の中に「変革の可能性」を感じとるのに必要なのは、「時間」よりも「衝撃」です。むしろ、相手のことなんてロクに知らない位の方がいい。
 ただ、モンダイなのは、その「衝撃」から始まったキリコに対する感情を、彼女が「愛」と呼んでしまっていること……ですが、これも、実のところ、テイタニアに限ったことではないように思います。
 『ボトムズ』作中で、キャラクター自身が相手への「愛」を口にする場面は他にもいくつかありますが、その大半は、当人達の言うような「愛」ではなく、別の感情をそう呼んでいるように、わたしの目には映るのです(言葉と中身の一致した「愛している」は、サンサのフィアナのセリフくらいじゃないかしら)。
 ハタ目からは「愛」があるとは思えない状況下で、キャラクターが「愛」を言う。これを、制作側の「説明不足」とか、「ご都合主義」と批判するのは簡単ですが(^^;;)、そこをあえてもう一歩踏み込み、彼女達が「愛」と呼ぶものは、一体何なのかなんてことを考えてみると……
 たとえば、「それまでの自分を捨て、新たな人生に踏み出して行こうとする意志」だとか、或いは「未来に対する漠然とした期待」なんてのはいかがでしょうか?
 誰だって、新しいことを始めるときには不安なものです。まして、テイタニア・キリコ・フィアナの場合、かねてから「新たな世界」を積極的に求めていたわけではない。ある特定の相手に出会ってしまったというキッカケがなければ、(漠然と「今の自分」に不満を抱えていたにせよ)ずっと元の状態に留まっていたのかもしれないのですから。当然、これから自分が行こうとしている道に対する不安や戸惑いがある。それでも、「いや、この先には何か素晴らしいものがあるはずだ」と自分に言い聞かせて、一歩を踏み出す……。
 つまり、自分でもやむにやまれず歩き出してしまったことへの、自分自身に対する「言い訳」や「口実」として「愛」を口にしている…とも言えるのではないかと。
 勿論、初めは単なる「口実」に過ぎないとしても、そこから「本物」の愛に育ててゆくことは可能でしょう。そして『ボトムズ』という物語の場合、「変革への期待」から始まった「恋」が、そのキッカケをくれた相手への「愛」に変わってゆく過程が、イコール「己自身」を見出す過程と重なるのではないか、ともわたしは考えています。
 「人はなぜ恋するのか?」という命題には、「人はなぜ生きるのか?」というのと同様、答えなど存在しないのかもしれません。しかし、「恋愛」という事象は、実は「生きること」それ自体に非常に近い…というより、「恋愛とはこういうことである」という解は、そのまま「生きるとはこういうことである」に置き換えられるのではないか? 少なくとも、『ボトムズ』という物語の中では、そういう構図が成立するのではないか?と、わたしは考えています。
 キリコとフィアナに限らず、『ボトムズ』の中の恋するキャラクター達が、こんなに愛しく思えるのは、その「恋」の中に、彼や彼女の「光」に向かって生きようとあがく姿を感じるからではないのか……と。

 してみると、「キリコとフィアナの恋について語る」という当サイトの主旨も、実は、「ふたりの恋を通 して、ふたり自身について語る」ということになるのかもしれません。
 ありがちなフィクションでは、「AはBをこういう理由で好きになりました」という「理屈」が示され、視聴者の「目に見える」形にされてしまうところが、『ボトムズ』では描かれていない。だけど、下手に「理屈」に頼らないがゆえに、キャラクターの「無意識の願望」だとか、「未来への可能性」といった「目に見えないもの」の存在を描くという、およそあらゆる表現において最も難易度の高いことに成功しているとは考えられないでしょうか?

 ──なんて、こじつけだと思います? そうかもしれませんね(笑)。
「キリコとフィアナの恋」なんて、ただ「運命的な出逢いをしたヒーローとヒロインが恋に落ちる」という、古典的な「お約束」に乗っかっているだけかもしれません。まるっきり嘘臭くて「リアル」な『ボトムズ』にふさわしくなって思っていらっしゃいます? じゃ、見なくてもいいですよ。ここまで付き合ってくださってありがとうございました。
 ここから先は、「お約束の中にこそ永遠の真理が潜む(かもしれない)」と考える方、かの星の王子様のお言葉(正確には王子様の友達となったキツネの言葉ですが)「かんじんなことは、目に見えないんだよ」に共感する方々のみ、ご覧になってください。
 上手くすれば、砂漠の中に隠れている井戸が見つかるかもしれませんが……それは、フタを開けてのお楽しみ。

2000.10.16


TOPに戻る][コーナーMENUに戻る][キャラ・各話解説

アクセス解析タイ・バンコク情報