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という問題について、前項では、「作品中の状況証拠」によって「NO」と結論を出したわけですが、正直なところ、この考察が「まず結論ありき」で推論を展開したものであることは、認めざるを得ません。 このままでは、永久に結論が出せないので(^^;;)、ここで、視点を「作品内」から「作品外」へと向けて、「作劇上の必然性」という観点から検討してみます。 「YES」であった場合のメリットは:
──まぁ、ほぼこの一点につきると思います。 対してデメリットは:
──「些細なこと」かもしれませんが、「受け手の物語への感情移入」というのは、プロの制作者として、けっして侮ってはならない要素であり、それが削がれるというのは、「デメリット」であると、わたしは考えます。 そして、「メリット」「デメリット」を天秤に掛けた場合、少なくとも、一視聴者たるわたしにとっては「デメリット」の方が明らかに大きいのです。 「暴力」「ハードな雰囲気」ならば、2話のブーンファミリーの狼藉ぶりで、もう充分表現されていると、わたしは感じます。あのシーンでさらわれたモブの女性が「無事」だとまでは、わたしも考えていません。ですが、7話まで来て、視聴者もそれなりに馴染み、愛着を感じているメインキャラを「犠牲」にしてまで、改めて「ハード」を強調する必要があるのか?……と、わたしは疑問に感じるわけです。 その一方で、「ココナに愛着を持つ視聴者」にとっても、場合によっては、「YES」による「メリット」が、まったくないわけではない……とも思います。すなわち、
──この種の「メリット」の例として、『BANANA FISH』の主人公アッシュがあげられます。この魅力的なキャラクターが、幼児期から性的虐待を受けていたという過去を持ち、作中でもしばしばレイプされながら、読者にとって「後味の悪さ」が比較的薄いのは、(読者の大半を占める女性にとって、アッシュが「異性」であり「他人事」だから…というのも、いくらかはあるでしょうが(^^;;))その「痛ましい出来事」が、彼の「魅力」を際立たせるツールとして機能しているから。 以上を踏まえて、改めて結論を出しますと…… 作中の描写は「どうとでも取れる」ものであり、視聴者の側が、各々の資質ならびに『ボトムズ』に期待するものによって、「好みの答え」を出せばいい──という、実に曖昧なものになってしまいます(^^;;)。 ◆ココナには可哀相だけど、その方が「ハード」で『ボトムズ』らしいし…… ◆やっぱり、ココナが可哀相なのは、イヤ。「脅された」だけで充分でしょ。 ◆「可哀相! そんな目に遭って(T_T)。でも、負けてない強さと健気さが好き!」 ──とりあえず、三つほどモデルケースを用意してみましたが、いかがでしょうか?(^^;) 最後になりますが、制作側がどのような意図であったか……については、高橋カントクのこのような談話が発表されています。 ただ、『ボトムズ』でもココナが暴走族にさらわれるシーンで、ある演出の人が「この娘、やられちゃってますよね」って言い出した時は、さすがにTVアニメで「そこまでは描かなくていいよ」って言いましたけど(笑)。 (コンプリートコレクションII 付録ブックレット 押井守×高橋良輔対談より) ──いかにも、どうとでも受け取れそうな玉虫色のお言葉(^^;;)、かもしれませんが……。わたしとしては、ほぼ(わたしと同じ思考過程を経た上での)「NO」だと思いたい、かな(^^;;;)。 2000.1.29 追記(2000.2.3) え〜っと、蛇足かもしれませんが……
──というのが、わたしの「基準」です。 画面に映るボロボロなココナの姿に、前後の状況から「もしかして……」と、視聴者としてハラハラする──その程度の描写及びそこから視聴者が受ける「効果(ハラハラ感)」ならば、作品の味つけとして「愉しむ」ことができます。 #あくまでも、わたし個人の「許容範囲」にすぎませんが。 ……とは言え、以上はあくまでも「わたしの基準および感覚」であり、仮に『ボトムズ』がそこから外れたとしても、別に、それが「悪い」とか「無意味な演出だ」とは言いません。 #「イヤだ」とは言いますが(^^;;)。 「あと一歩踏み込めば……」というところを、あえてそうしなかった。危ういバランスを、ギリギリのところで止まっている。この辺りが……他の多くの「外伝」と、本家「高橋良輔の『ボトムズ』」を分けるポイントの一つと言えるんじゃないかな……なんて、考えたりしています。 |