慈尊院 |
番外 寺名 慈尊院 山号 万年山 宗派 高野山真言宗 所在地 和歌山県伊都郡九度山町 本尊 弥勒仏 国宝 秘仏
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表門(北門)
弘仁7年(816年)、空海(弘法大師)が嵯峨天皇から高野山の地を賜った際に、高野山参詣の要所に当たるこの地に、高野山への表玄関として伽藍を創建。
玉依御前(空海の母)は、讃岐国多度郡(現:香川県善通寺市)から息子の空海が開いた高野山を一目見ようとやって来たが、当時高野山内は7里四方が女人禁制となっていたため、麓にあるこの政所に滞在し、本尊の弥勒菩薩を篤く信仰した。女人高野と呼ばれた。
空海はひと月に9度(それだけ頻繁に)は必ず20数kmに及ぶ山道(高野山町石道)を下って母を訪ねてきたので、この辺りに「九度山」という地名が付けられた。
空海の母は承和2年(835年)2月5日に死去したが、そのとき空海は弥勒菩薩の霊夢を見たので、廟堂を建立し自作の弥勒菩薩像と母公の霊を祀ったという。弥勒菩薩の別名を「慈尊」と呼ぶことから、この政所が慈尊院と呼ばれるようになった。○高野山 金剛峯寺
○丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)
○勝利寺
○丹生官省符神社(にうかんしょうぶじんじゃ)
○慈尊院左が高野山への概略
Snap shot
表門 下乗石
皇室、貴族はここで乗り物を降りて高野山参詣する表示石。半分埋まっています。県下最古の金石文と言われる。土塀
県指定文化財大師堂 訶梨帝母尊 一般的には鬼子母神(きしもじん) 多宝塔
改修予定。ささやかな浄財をしました。弥勒堂 大師の母の住居だったといわれる 弥勒堂 本尊は国宝で秘仏 乳房形のお札 安産祈念 絵馬 拝殿 ゴンの碑
昭和60年代に、白い雄の野良犬が、慈尊院や高野山の参詣者・ハイキング客を案内するようになった。慈尊院から聞こえる鐘の音を好んでいたため、「ゴン」と呼ばれるようになった。
平成元年頃から高野山町石道の20km強の道のりを朝、慈尊院を発って、夕方に高野山上の大門まで道案内し、夜には慈尊院に戻る毎日を送っていたが平成14年6月5日に息を引き取った。約1200年前の弘法大師の時代にも高野山の案内犬がいたという伝説があり石碑となった。鐘楼 境内には沙羅が咲いていた
丹生官省符神社
ちょうど「茅の輪くぐり」に出会った。この輪をくぐって参拝。
慈尊院から、この階段を上る 180町石 階段の途中にある
慈尊院から高野山大塔まで180町に180基の町石が立つ。町石は胎蔵界百八十尊を表し、すべて国史跡。これが180町でスタート地点。ここから180町(1町=109m)で高野山だ。180町石の横 紀年銘
「文永九年十二月 日」1272年鎌倉中期です境内にはアジサイが アジサイ アジサイ 拝殿 拝殿内 社殿が並ぶ 神社の横から、高野山町石道(高野山表参道)に出ると 179町石があった。丁度1町歩いたことになる 勝利寺 素晴らしく急な石段を登ると勝利寺
弘法大師(空海)が高野山を開創される以前の創建と伝えられる。山門 仁王 仁王 アジサイが一杯 本堂 紙遊館 境内の一部を使ってる。
すたれてしまった特産の古沢紙の製造工程や道具が展示されている。伝統の技術伝承のために設立された。凧等の紙製品 ジオラマ
当時の紙漉きの様子を再現している。
遠くに見えるのが貴族の高野山参詣。閉館間際に冷やかしで入ったにもかかわらず。
館内案内と紙の製法を丁寧に説明して頂いた。九度山町の人はいい人だな。
紙漉き体験も出来るようだ。
kazu_sanの一言 写真は紙遊館から。左端の赤い橋の下が紀ノ川。
有吉佐和子の名作『紀ノ川』は、主人公の「花」(九度山村の素封家の娘で村一番の美人)が、祖母と、慈尊院を詣でるシーンで始まる。
祖母は言う。
「高野山にはの、女は入れへんがのう、この慈尊院までは上れるんやよし。そやよってに、ここは女人高野と云うんやして。花は知ってたわの」
懐かしい和歌山弁です。