上醍醐寺 |
番外 寺名 醍醐寺 山号 醍醐山、深雪山(上醍醐寺) 宗派 真言宗醍醐派総本山 所在地 京都市伏見区醍醐東大路 下醍醐寺 はこちら
SPOT 清滝宮拝殿(国宝)
永享6年(1434年)に再建。上醍醐の諸伽藍の入り口に位置し、上醍醐に到着したとき、参道左上側に見える懸け造り(舞台造り)の建物である。清滝宮は弘法大師(空海)が唐・長安の青龍寺から勧請した密教の守護神を祀った醍醐寺の鎮守社。(右の坂の上に見える)醍醐寺は醍醐山上と山麓に分かれている。山上にある寺を「上醍醐寺」、山麓にある寺を「醍醐寺」(「下醍醐寺」)と称することが多いが、山上と山麓、両方あわせて「醍醐寺」というのが正しい。
醍醐山(笠取山)に200万坪以上の広大な境内(京都一の広さ、延暦寺は京都と滋賀にまたがっているから)。豊臣秀吉による「醍醐の花見」の行われた地としても知られる。
醍醐寺の創建は貞観16年(874年)、空海の孫弟子にあたる理源大師聖宝が准胝観音並びに如意輪観音を笠取山頂上に迎えて開山、聖宝は同山頂付近を「醍醐山」と名付けた。
醍醐天皇は醍醐寺を自らの祈願寺とすると共に手厚い庇護を掛け、その圧倒的な財力によって醍醐山麓の広大な平地に大伽藍「下醍醐」が発展することになる。
その後応仁の乱など相次ぐ戦争で下醍醐は荒廃し、五重塔しか残っていなかったが、豊臣秀吉による「醍醐の花見」をきっかけに紀州などからの寺院建築の移築や三宝院の建設など行った。
2008年8月24日の火災により、醍醐寺東側の山上にある西国三十三観音霊場第11番札所の「准胝(じゅんてい)観音堂」がほぼ全焼した。火災後上醍醐の入山は禁止されていたが、2009年1月7日から再開された。
2006年4月に 下醍醐寺を往訪して以来の懸案事項であったが、ようやく行くことができた。
Snap shot
上醍醐への入り口
女人堂の入り口女人堂
かっては、女性は入山出来なかった。女人堂の前 准胝(じゅんてい)観音堂の消失により、西国三十三観音霊場の納経の仮場所。朱印はここで頂く。 これから行く開山堂まで、2.6K。約60分の山道。
標高450m。西国三十三箇所中、一番険しい札所として知られる上醍醐の入り口
ここからは、入山料が別料金
杖は、無料で貸してくれる里程の表示石
全部で20丁。16丁までは、ずっと登りだって。古い切り株に新しい生命が・・・・ 最初は、なだらかな山道。 秀吉が『醍醐の花見』を催した場所の入口
登り始めて15分位。
下醍醐の桜が一望出来るのだろうが、立ち入り禁止なのは残念。段々険しくなります。 この丸太の上を渡る分けではないです。
これは見るだけ。不動の滝 休憩です。 う〜ん。変わった木だね。疲れたな。 下にあるのは亀? とにかく休憩です 来ました 十六丁表示。 ここからは下りです。登りもあるけれどね。 何か分からんけれど 休憩です
役の行者かも?下りに入ったところに、向こうに見えるのは、開山堂。また登るようだ。 上醍醐寺務所 ようやく伽藍の入り口 醍醐水
聖宝が感得し、醍醐寺の名前の由来となったといわれる霊泉醍醐水
コップもある。山道を登ってきた喉には心地よい手前が清滝宮拝殿(国宝)。右奥が清滝宮 清滝宮 清滝宮拝殿(国宝)の屋根 左が醍醐水。右が准胝観音堂への参道
囲いの部分が消失跡准胝観音堂の前 右が囲い 准胝観音堂の前 経堂跡 1939年夏、上醍醐を襲った山火事で消失 薬師堂(国宝)
1121年から5年をかけて再建。薬師堂(国宝)の前 鐘楼 手水舎 五大堂
聖宝が開いた国家鎮護の祈願道場内部
五大明王像如意輪堂
慶長11年(1606年)に豊臣秀頼により再建、理源大師(聖宝)により准胝堂とともに建立されたと伝わる開山堂
如意輪堂ともに慶長11年(1606年)に豊臣秀頼により再建、内陣の厨子には理源大師(聖宝)坐像など安置 。開山堂側面 ひどい自販機
150円。お金を入れても釣りは出るが商品は出ない。親切な人が「ここは出ましたよ」と教えてくれました。計450円でようやくお茶をゲット。過分な分は、お布施ですね。
朱印
kazu_sanの一言 標高450mからの展望。
標準時間60分だが、結構かかったな。