寛永寺
番外
寺名 寛永寺
山号 東叡山(とうえいざん)
宗派 天台宗関東総本山
所在地 東京都台東区上野
SPOT
本堂(根本中堂)
開基(創立者)は徳川家光、開山(初代住職)は天海。
徳川将軍家の菩提寺であり、徳川歴代将軍15人のうち6人が寛永寺に眠る。17世紀半ばからは皇族が歴代住職を務め、日光山、比叡山をも管轄する天台宗の本山であったが、慶応4年(1868年)の上野戦争で主要伽藍を焼失した。
徳川家の菩提寺は、他に増上寺(往訪済)がある。徳川将軍15名のうち、家康(日光東照宮)、家光(日光の輪王寺)、慶喜(谷中霊園にある寛永寺の飛地)を除く残り12名は、寛永寺と増上寺に6名ずつ葬られている。(家綱、綱吉、吉宗、家治、家斉、家定)。家定が葬られていると言うことは、篤姫の墓所もここにあるということです。
本堂裏手には、今回見ることができなかったが(非公開)、徳川慶喜が謹慎した部屋という、「葵の間」がある。1868年2/12〜4/11の間、蟄居。4/11江戸城の無血開城の早暁に生地、水戸に帰った。
京の都の鬼門(北東)を守る比叡山に対して、「東の比叡山」という意味で山号を「東叡山」とした。
平安京を参照のこと。
最盛期には、現在の上野公園の倍の敷地があった。

寛永寺関係の建物は、アチコチに散らばっているので、全部回るには大変です。お寺のパンフレットです。黒く囲っているところがそうです。



Snap shot
本堂の勅額
「瑠璃殿」(東山天皇御宸筆)
慈海僧正の墓
寛永寺中興の学僧
尾形乾山の墓 兄は尾形光琳 了翁禅師坐像 "勧学寮"創始の名僧
虫塚 
伊勢(現三重県)長島藩主であった増山雪斎の遺志により、写生に使った虫類をなぐさめるために、文政4年(1821)に建てられた。自然石。
四代将軍家綱公御霊廟の梵鐘
上野戦争碑
この碑が、ここに立っているというのがすごい。
寛永寺が消失した元になった戦争。建立には40年の説得期間があったと言われている。
篤姫の墓(非公開)
境内の掲示板に掲載分を撮影したもの。
家定公の墓所の隣にあり、好物だった枇杷の木が植えられている。
黒田記念館(寛永寺とは関係ありません) 野口英世像(寛永寺とは関係ありません)
寛永寺 開山堂(両大師)
寛永寺開山天海僧正の像を安置する。
後に、比叡山延暦寺第18代座主であった高僧慈恵大師良源の像も安置されたので、「両大師」と呼ばれるようになった。
寛永寺 開山堂 本堂
旧本坊表門(重要文化財)−通称黒門。
現在、寛永寺輪王殿にある。
天海僧正毛髪塔
108歳で示寂されたが墓所は、日光山輪王子慈眼堂御廟にあるが、毛髪を納めた宝塔は、ここにある。
寛永寺 清水(きよみず)観音堂
京都の清水寺を模した舞台造りのお堂、天海僧正が建立。本尊の千手観音(秘仏)は清水寺と同じく恵心僧都作と言われている。
清水観音 本堂
不忍池(しのばずのいけ)辯天堂
辯天堂は天海僧正が不忍池を琵琶湖に見立て、竹生島辯才天を寛永初年に勧請して建てた。
不忍池のカモ
参道 辯才天 本堂
上野の大仏
今は、お顔の部分しかない。高さ7mの大仏で大仏殿もあったが、関東大震災で首が落ち、胴体部分は戦時に供出された。
大仏殿の跡地に立つ パコダ(仏塔)



朱印
本堂(根本中堂) 開山堂(両大師)

kazu_sanの一言
上野公園の航空写真に寛永寺の主要箇所を表示してみた。
何回も行ってる美術館は中央辺り。
広大な敷地にちらばっています。
残念ながら、「五重の塔」等は、今回洩れています。今後のテーマですね。


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