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楽譜




3月のとある午後のこと。

何気なくテレビをテレビのスイッチを入れたら、特攻隊のドキュメントみたいなものをやってたんです。
また何でこんな時期にと不思議に思ったんですが、いま考えれば東京大空襲の日だったのかもしれません。
つい見入ってしまったのは、その内容のせいではなく、バックに流れていた音楽のためでした。

ああ、またこれだ。

太平洋戦争の悲惨な場面では、かなりの高確率で流される曲です。
この曲が長らく頭の片隅に引っ掛っていたのには理由がありまして。

恥ずかしい話ですけど、リズムが取れなかったんです。
メロディーは単純素朴、変拍子なんてことはまず考えられない。
速度はのろのろ、たまに付点リズムっぽいものが入って来て、何が何だかわからなくなる。
このときもやっぱり小節の区切れ目は把握できなかった。
このままじゃ気持ち悪くてしょうがない。
何が何でも譜面を手に入れなくては。
と思ったことにもやっぱり理由がありまして。

実は3月はメチャメチャ忙しかったんです。
正確にいうと、片付けなきゃならないことが山ほどあるというプレッシャーに押しつぶされそうな日々をおくっていたのが2/3ほどで、本当に忙しかったのは残りの1/3。
3月上旬の時点で、作業は一歩も進んでいませんでした。
というより、着手すらしていなかった。
作業用のパソコンは電源さえ入れられないま何日も放置状態で、うっすらと埃をかぶっていました。

まずは部屋の机の上を掃除して、それから始めよう。
しばらくはピアノも弾けなくなりそうだから、とりあえずホ長調フーガと変ロ短調フーガとフランス組曲の6番だけ弾いて、それから始めよう。
あと5本タバコを吸ったら始めよう。
缶コーヒーとオロナミンCのボタンを同時に押して、オロナミンCが出てきたら始めよう。

な調子でだらだらと無為な日々を送り、ある日テレビをつけたら、特攻隊が出てきて、あの音楽が流れてきたわけです。
誰かに聞いたのか何かで読んだのか、曲のタイトルは知っていました。
せっかくだからこの機会にネットで楽譜をさがして、曲のリズムを確認しようと、妙に肩に力が入りました。
長年の謎がようやく解決するわけだから、気持ちよくすぱっと仕事に取り掛かれないはずはありません。

探し当てた無料楽譜は、ピアノ伴奏譜でした。
そう、たしかこの曲には歌詞があったんだと思い出した。
何度か歌詞つきの状態でも聴いたことがあるような気がします。ただ中身ははまったく聴き取れなかった。
「旅ゆかば」「海〜」の連想から、何となく、美しい国土みたいなものをテーマにした曲なんだろうと思っていたんですが、全然違いました。
駿河の国に茶の香りとか、そういう内容では全くないです。

その歌詞を読んでふと思ったこと。
もしかしたら、こういうのをアンセムと呼ぶんじゃなかろうか。
アンセムってのは教会音楽でもいいけどそうじゃなくてもいい。で、この曲は教会音楽じゃない、とか何とか、前のページで書きましたけど、実際のところは分かりません。
現代の感覚からすると、これが教会で流れていたらかなり不自然な気がします。
でも戦時中に防空頭巾かなんかをかぶった日本人キリスト教徒が教会でこれを歌う様子ってのを想像してみると、そんなに不自然でもないかもという気がする(←教会の中ではかぶりものは取ったほうがいいです)
何か特定の宗教に限らず、国でも民族でも、たぶん学校でも職場でもカルト仲間でも、その集団の結束を強めるためにつくられた曲はみんなアンセムなんじゃなかろうか。

なんてことはどうでもいいいんで、問題はリズム。
そもそも慎重に譜面を追わなきゃならないような複雑な音楽じゃありません。
どこといって不自然なところもない、ごく普通の4拍子でした。
そうだよな、たぶんこんなもんだろうと思ってたんだ、ということで、これはすぐに納得。

ためしにちょっと弾いてみたら、これがやけに難しい。
なんで伴奏譜のくせにこんなに難しいんだ。
しょうがないので弾きやすいように音を抜いていきました。
細かい理屈は無視して、とりあえず省けそうなところでなおかつ省いたら楽になりそうなところだけ省いてみた。
結果、えらく貧しい曲になってしまった()
いったい何をやっているんだ。
こんなショボい音を鳴らしていては敵艦に突撃できないじゃないか。
敵はアメリカの軍艦じゃありません、埃をかぶったパソコンです。

何も玉砕しようってわけじゃない。
この戦いは勝つに決まってるんです。
ただ開戦できずにいるだけ。

そうだ、和音のかたまりの平行移動みたいな曲だから弾きにくいんだ、この旋律をもとに4声のコラールをつくろう、と、またなぜか肩に力が入りました。
荘厳な合唱曲が完成すれば、今度こそ心置きなく仕事に没頭できると確信しました。
本棚から対位法の教本を取り出し、奮闘すること数日、けっきょく挫折。

その先10日ほどは記憶がはっきりしません。

気がつくと3月が終わり、どたばたと4月が過ぎ、あらためて曲のことを調べてみると、これは大本営発表のオープングテーマの一つだったんですね。
敵軍撃破の発表のときには軍艦マーチが流れ、玉砕の発表ではこれが流れたらしい。

戦後しか知らない人間にとっても、ドラマやドキュメントの悲しいシーンでばかり流されていたので、何か胸の痛む音楽になってしまいましたけど、曲自体はむしろ達観したような明るさ、プラス、勇ましさみたいなものまで兼ね備えています。

サビにあたる部分に出てくる、進軍ラッパを模した音型なんかは、今どきの耳からすると悪趣味すれすれ、へたをすると一線を越えてしまっているかもしれません。

ただ、この曲を相手にそういう批評はするべきじゃないんでしょうね。
戦争の痛ましい記憶とセットという形でのみ生き続ける音楽だと思うので。