T ドキュメント・戦慄の一日

−− 1999.9.30 −−

しかし実際には、何が起きているのか分からなかった。

JCOには中性子線の測定器はなく、他の機関に依頼して、
構内の測定が始まったのが6時間後であった。

放射線は目に見えない。だから事故が起きても、
何が起こっているか、どこがどれだけ危険なのかが
分からない。それがある程度つかめて、避難などの
対策がとられるときには被ばくが進行してしまっている。


しかし事故の規模がこれより大きく、広域の住民が退避し
なければならない場合は、大きな混乱が予想される。
というより、輸送手段、避難先、戻れるまでの期間を考え
たとき、それは現実には無理としか言えないだろう。



チェルノブイリの場合、半径30kmの住民13万人が避難、14年後の今も強い
汚染が残って帰れない状態である。しかも避難区域の外側でも障害が発生し、
30kmでは不十分であったことが明らかとなっている。

(汚染地域は事故当時の風向、降雨の状況に影響され、複雑な形をしている。
図は今中哲二他著・原子力資料情報室編「チェルノブイリ10年」から転載)


注1へ

事故処理のためにまた被ばく者が出る、
ということも原子力災害につきものである。

臨界は終わったが、多くの問題が残された。


「あとがき」の「追記」へ


注2へ

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