Scene−5
「お兄ちゃん! 起きてよ、いつまで寝てるの?」
妹の声にうながされ、バルトロメウスはしぶしぶと身を起こす。
「もう、早く着替えてよ! せっかくの晴れの日なのに、遅刻しちゃうじゃない」
――晴れの日? いったい何のことだろう?
寝起きでぼんやりした目をこすって見れば、ヴィオラートもいつもの薄汚れた錬金術服ではなく、こざっぱりとしたドレスをまとっている。にんじん柄というのは、いささかいただけないが。
――あいつ、こんな服、持っていたっけか・・・?
いぶかりながらも、いつの間にかバルトロメウスもめったに袖を通さない晴れ着に着替えている。
ヴィオラーデンを出ると、もう日は高い。目の前に、数年前にはさびれた田舎の村だったとは想像もできないような、近代都市へと変貌したカロッテ村の光景が広がっている。
かつてはにんじん畑のうねを、放し飼いのニワトリがつついて歩き回り、ネコが昼寝をするのどかな風景だったが、今は村の中心を貫く石畳の街路が整備され、雑貨屋やファンシーショップが軒を連ねている。中央広場にはきらびやかなモニュメントが建ち、周囲は華やかに着飾った村人や観光客であふれかえっている。教会の鐘の音が、澄み渡った大気に神々しく響く。
――教会? うちの村に、いつそんなものができたんだ?
そんな疑問がわいたが、はやくはやくとせかすヴィオラートに引っ張られ、人波をかきわけて前へ出る。教会の正面入口前に集まった群集の最前列だ。
「やあ、ヴィオにバルテル、遅かったな」
いつものように非の打ちどころのない服装に身を固めたロードフリードが、兄妹を迎えた。隣には、上品なドレスで着飾ったブリギット・ジーエルンが寄り添っている。
「心配しましたわ。村を挙げてのお祝い事に遅刻するなんて、一生の恥ですものね」
「ごめんなさい。お兄ちゃんが、なかなか起きてくれないんだもん」
やんわりと非難するような口調のブリギットに、ヴィオラートが苦笑しながら謝る。
――お祝い事って何だ? 聞いてないぞ?
疑問が心にわきおこるが、口に出せるような雰囲気ではない。広場に集まった誰もが互いに笑顔を振りまき、小鳥のようにささやきを交わし、目を輝かせている。これから行われることに期待を隠しきれない様子だ。
教会の大扉の前に、村長オイゲン・バルビアが姿を現した。群集のざわめきが収まる。オイゲンの顔は紅潮し、毛の一本とて生えていない頭はいつになくつやつやと輝いている。真っ白なタキシードに真っ赤な蝶ネクタイという、いささか年齢不相応ないでたちのオイゲンは、一段高くなった教会の入口から、集まった人々を見下ろし、咳払いをすると、おもむろに口を開いた。
「ウォッホン、お集まりの皆様、本日はお日柄もよろしく、この良き日に、わが伝統あるカロッテ村の村長の後継者がつつがなく決まりましたことをご報告できるのを幸いに思います。先ほど、教会内にて、神父さま立会いのもと、新郎新婦は無事に誓いの儀式を終了いたしました」
――新郎新婦? それじゃ、これは結婚式なのか。でも、誰の・・・?
きょろきょろとあたりを見回すと、隣にいたロードフリードと目が合う。
「残念だったな、バルテル・・・」
そんなふうに、幼馴染のくちびるが動いたような気がした。
――まさか!?
その時、オイゲンが高らかに宣言した。
「それでは、新郎新婦をご紹介しましょう! わが孫娘クラーラ――。そして、永久の契りを交わしましたシグザール聖騎士、ダグラス・マクレイン!!」
頭上の鐘が澄んだ音を鳴り響かせた。教会の大扉が開く。
「おめでとう、クラーラさん!」
「新村長、ダグラス万歳!」
「素敵よぉ!」
「カロッテ村万歳!」
雲ひとつない青い空に、軽やかな羽音を立てて純白の鳩の群れが舞い上がった。歓声、指笛、紙吹雪・・・。
ありとあらゆるものが、バルトロメウスの周囲でぐるぐると回る。純白のウェディングドレスに身を包んだクラーラが、幸福そうに微笑む。その無垢な瞳が見つめているのは、シグザールからやって来た、どこの馬の骨ともわからないよそ者の騎士だ。騎士はバルトロメウスにちらりと流し目をくれ、にやりと不敵な笑みを浮かべる。
気が遠くなり、今にも倒れそうになりながらも、バルトロメウスの胸に熱いかたまりがこみ上げてくる。
「じょ、冗談じゃねえ!! こんなの聞いてねえぞ!!」
自分の大声で、バルトロメウスは目を覚ました。
なにかが首の周りにしつこくまとわりつき、締め付けられて息が苦しい。必死に腕をねじこんで、引きはがしてみれば、ヴィオラートが前夜「風邪、ひかないようにね」と無理やり押し付けていった毛布だ。くしゃくしゃになった毛布を乱暴に脇へはねのけて、がばっと身を起こす。
汗にまみれた背中に、肌着がべっとりと貼りついている。荒い息をつきながら、バルトロメウスは周囲を見回し、ほっと息をついた。
「けっ、夢か・・・。おどかしやがる」
暗がりでひとり毒づいたが、はっとして天井に目を走らせる。今の声を、階上で寝ているふたりに聞かれたのではないだろうか。
しばらく耳をすましていたが、2階のヴィオラートの部屋は静まり返っている。
――いや、違う、俺とヴィオの共用部屋だ。バルトロメウスはいまいましげに訂正した。
彼が寝ていたのは、ヴィオラーデンのカウンターの後ろ側の狭い空間だった。店が開いている時は、店番が椅子を置いて座っている場所だ。背後の棚には、あまり売れ筋ではない商品や、客がじかに手を触れては危険な薬品や爆弾などが並べられている。カウンターと棚の間の堅い床にマットを敷いてベッド代わりにし、毛布にくるまって眠るというのが、最近のバルトロメウスの夜の過ごし方だった。
もちろん、自分で望んでそうしているわけではないし、こんな日々がいつまで続くのかも見当がつかない。
「ちぇっ、それもこれも、全部ザールブルグからあの連中が来たからだ」
2階へ通じる階段を恨めしげに見つめ、バルトロメウスは舌打ちをした。
錬金術士エルフィール・トラウムとシグザール王室聖騎士ダグラス・マクレインがカロッテ村へ来てから、既に5日が経過していた。
村へ着いた最初の晩、ジーエルン邸で歓迎の晩餐会が催され、オイゲン村長とクラーラをはじめロードフリードや酒場『月光亭』の主人オッフェン、それにクリエムヒルト、クラップ、シュトーラといったカロッテ商店会の面々など、村の主だった人々が出席した。もちろんヴィオラートとバルトロメウスの兄妹も招待された。普段なら公式な堅苦しい催しには、面倒くさがってあまり出たがらないバルトロメウスだが、今回は妹にせかされるまでもなく積極的に参加した。ヴィオラートからは「クラーラさんが気になるんでしょう?」と図星を指されたが、「ばか言うな、ブリギットの家のパーティは、うまい飯と酒が出るから見逃すわけにはいかねえんだ」と、うまくごまかした――と本人は思っている。
確かにクラーラのことは気になっていた。物心ついた頃からだ。同い年で、同じ村に生まれ、狭い村で一緒に育ったのだ。もっとも、腕白なバルトロメウスは、これも同い年のロードフリードと一緒に野山を駆け回っていた一方、クラーラは村長の孫娘という立場もあっておしとやかに育てられていたから、仲よく遊ぶという機会は少なかった。しかし、どこで何をして遊んでいても――家の畑仕事の手伝いをするようになってからも、バルトロメウス少年は、常に目の隅でクラーラの姿を探していた。そして、遠くに彼女の姿を見つけるたびに、なんともいえない嬉しさと切なさをおぼえていたのだった。もちろん、両親がカロッテ村から都会へ引っ越そうとした際も、頑強に反対して村に居残ったのは、クラーラのいない生活など想像もできなかったからだ。
そのクラーラが、よその国から来た聖騎士に、あからさまな好意を示している!――少なくともバルトロメウスの目には、そう映っている。これは放っておくわけにはいかない。カロッテ村の宝をよそ者に強奪されるようなことがあっては、末代までの恥だ。
そんなわけで、バルトロメウスは勝手に妄想したナイト気分で歓迎晩餐会に臨んだのだが、意気込みは空回りするばかりだった。パーティでは、まずオイゲン村長の大仰な挨拶の後、シグザールからはるばるやって来たふたりに歓迎の花束が贈呈された。花束を持って進み出たのははロードフリードとクラーラだった。この人選には文句はない。ロードフリードはともかく、こういう仕事は村一番の美女が務めるべきだからだ。ロードフリードはエリーに花束を渡した後、気取ってエリーの手にそっと口づけをした。もちろん儀礼的なものだったが、エリーは頬を赤らめて目を伏せ、にこやかに拍手をするブリギットの瞳は笑っていなかった。それはどうでもいい。問題は、ダグラスに花束を贈呈したクラーラの態度だ。目を潤ませ満面に笑みをたたえて、花束を渡した後もその場を離れがたい様子を見せていた――少なくともバルトロメウスにはそう見えた。ダグラスは、一国の外交使節というにはやや不自然な態度で、ぶっきらぼうにひったくるようにして花束を受け取っていた。これはクラーラのことを意識している証拠だ――と、バルトロメウスは確信した。自分と同様、ダグラスも堅苦しい席や礼儀作法が苦手だとは、バルトロメウスは知る由もない。
晩餐会が始まってからも、主賓であるダグラスとエリーを挟んで、クラーラとロードフリードが両隣に席を占めた。隣に座ったクラーラが無愛想なダグラスになにくれと話しかけ、かいがいしく接待するのを、バルトロメウスは離れた席から苦々しい思いで眺めているしかなかった。隣の席にいた雑貨屋のクリエムヒルトが頬を染めながら話しかけても生返事で無視し、彼女が悲しげな表情を浮かべているのにも気付かなかった。
パーティが終わったらクラーラにこんこんと説いて目を覚まさせよう――と、無意味な決意を固めてもみたが、お開きになると同時に、クラーラは酔いつぶれたオイゲンに付き添って帰ってしまったため、その機会は訪れなかった。そして、フラストレーションを抱えたまま家へ帰ってみれば、ヴィオラートと共用していた2階の寝室に自分の居場所はなく、ザールブルグから来た新参の錬金術士にベッドを乗っ取られて階下へ追い出されてしまったのだ。ダグラスが村長宅に泊まるのではないかと心配だったが、それは杞憂で、ザールブルグから来た聖騎士は酒場『月光亭』の2階の寝室を供せられたらしい。
その後もヴィオラーデンの店番をサボって村長宅の周囲をうろつきまわっては、クラーラとふたりきりになる機会をうかがっていたが、たまにちらりと姿を見かけても他の村人に囲まれていたり、ドラグーンの隊員やこともあろうにダグラスと一緒だったりして、声をかけることさえできずにいた。そうこうしているうちに、背後から「お兄ちゃん、見つけた! 忙しいんだから、こんなところでサボってないで、早くお店に戻ってよ!」と妹の怒号が響き渡るのだった。
「ああ、もう、やってられねえぜ!」
小さく毒づくと、バルトロメウスはボサボサの髪をかきむしり、狭い寝床から立ち上がった。窓から差し込む月光の角度から判断すると、夜明けまではまだ間がありそうだ。
汗にまみれた肌着をはぎとり、素肌に上衣を引っかけると、バルトロメウスは裏口から外へ出た。正面玄関を開けると、ベルが鳴って2階のふたりを起こしてしまうかもしれない。
納屋から愛用のくわを取り出し、肩に担ぐとおおまたで畑へ向かう。むしゃくしゃする時は、何も考えずに土を耕すのが一番だ。
カロッテ村はここ数年で急速に近代化されたとはいえ、村の中心を離れれば昔ながらの畑や牛小屋が残っている。プラターネ家が先祖代々守ってきた野菜畑は、今もバルトロメウスの世話で豊かな実りをもたらしていた。
酒場『月光亭』の裏を通りかかると、なにやら風を切るような鋭い音が聞こえてきた。わき目も振らずに歩いていたバルトロメウスはふと足を止め、音が聞こえてきた方をうかがう。やがて、なにかを認めたかのようにはっと小さく息をのんだが、そのまま首を振ると、黙々と後も振り返らずに畑への歩を進めていった。
酒場の裏庭では、黒の肌着をまとっただけのダグラスが、月光を浴びて無心に剣の素振りを繰り返していた。
Scene−6
「ねえ、塩加減はこのくらいでいいの?」
「あ、はい、そうですね。もう少し効かせてもらえますか? お店に並べるならこれでいいですけど、竜騎士隊からの注文なので――」
「あ、そうか。演習の準備で汗を流しているから、塩分の補給は必要だよね」
エリーはうなずくと、ランプの炎にあぶられて香ばしいにおいを立ち昇らせているドラゴンの肉に、袋から出した塩を満遍なく振りかける。ヴィオラートは、大鍋でぐつぐつと煮込んでいたシチューをひとさじすくって口に含むと満足げな表情を浮かべ、かまどから鍋を下ろした。大鍋には『グラビ結晶』を仕込んであるので、見かけよりはるかに軽く、ひとりでも簡単に持ち上げられる。
「すみません、エリーさんにお手伝いまでさせちゃって」
ヴィオラートは振り向くと、真剣極まりない表情で初めての材料に取り組んでいるエリーに、すまなそうに声をかけた。エリーは顔を上げ、にっこりと笑う。
「ううん、そんなこと気にしなくていいよ。ザールブルグでも、ずっとこういうやり方でやってきたんだし。実験室にこもってただ錬金術の研究をしているよりも、こうして誰かの役に立つ錬金術をしながら、新しい技術や知識を身につけていく方が、性に合ってるしね」
「はい、あたしもそう思います」
ヴィオラートは明るい声をあげた。かつて何も知らなかった自分に錬金術の手ほどきをしてくれたアイゼルに比べると、エリーの考え方や錬金術への取り組み姿勢は自分に近い気がする。今日のようにヴィオラーデンに寄せられる依頼の仕事を手伝ってもらいながら、いろいろな話をしたが、話せば話すほど、ヴィオラートはこのザールブルグからやって来た錬金術の大先輩を好きになっていた。アイゼルとは、師匠と弟子という関係もあり、どうしても縮められない距離を感じたものだが、エリーの飾らない素直な人柄は、すぐにヴィオラートの緊張を取り払ってくれた。おそらくエリーも、同じように感じてくれているに違いない。
ただ、アイゼルから聞かされていたことだが、エリーのチーズケーキへのこだわりだけは想像をはるかに超えていた。
ジーエルン邸で歓迎会が開かれた翌日、お茶の時間にヴィオラートはチーズケーキを出した。数日前に腕によりをかけて作り、氷室に貯蔵しておいたものだ。エリーの大好物だと聞いていたし、極上のシャリオチーズとハチミツ、小麦粉とシャリオミルクをふんだんに使い、芳醇なワインを隠し味にした絶品で、好みがやかましいブリギットさえ何の文句もつけなかった品だった。どんなほめ言葉がもらえるだろうかとわくわくして見守るヴィオラートの目の前で、エリーは行儀良く、しかしひと口ずつじっくりと吟味するかのように味わい――笑顔ひとつ浮かべずに、ぽつりと言った。
「少し、アドバイスさせてもらってもいいかな?」
「は――はい」
そして、エリーのアドバイスは日暮れまで続いた。放っておけば一晩中でも続きそうだったのだが、バルトロメウスがあきれて「そんなに言うなら、見本を見せてもらえばいいじゃねえか」と言ったので、その場はようやく打ち止めとなったのだった。
その後の2日間、ヴィオラーデンの錬金工房はエリーに独占されていた。調合器具を操るエリーの手さばきの鮮やかさも目を見張らせるものだったが、エリーの指示を矢継ぎ早に受けて、愚痴をこぼしながらもてきぱきと動き回る虹妖精のピコの作業ぶりも、ヴィオラートを魅了した。ザールブルグの錬金術士は、複数の妖精を雇って、材料採取や調合の手伝いをしてもらっているという。妖精たちに囲まれて工房で仕事をしている自分の姿を思い浮かべて、ヴィオラートはうっとりとした。
こうして完成したエリー特製のブドウ入りチーズケーキの出来栄えも、想像を絶したものだった。なんでも、シグザールの現国王もお気に入りの、王室御用達の逸品らしい。
「ありあわせの材料しか使えなかったから、満足のいくものはできなかったけど」
とエリーは不満そうだったが、そのチーズケーキには『マニア向け』『最高にいい香り』『出来がよい+3』『潜在能力増加+3』といったレアな従属効果がきら星のごとく付いていた。エリーは気前良く、ヴィオラーデンの売り物にしてくれて構わないと言ってくれたので、量産してもらおうと量販店のクラップのところに持ち込んだのだが、
「こんなすごいもの、うちではとてもじゃないけど複製できないよ」
と断られてしまった。
結局、そのチーズケーキを巡っては、食いしん坊のバルトロメウスと、なぜかにおいをかぎつけて現れたダグラスとの間で子供のような争奪戦が勃発したのだが、「また作ってあげるから」というエリーの言葉でなんとか収まったのだった。
「さあ、できた」
数日後に迫った大演習の準備のため、カロッテ村南の平原に駐留している竜騎士隊ドラグーンに依頼された食事――人数分のタンシオとブランクシチューを用意したヴィオラートとエリーは、注文の品を届けるためにヴィオラーデンを出ようとしていた。時刻はもうすぐ正午を回ろうとしており、昼食に間に合わせるためには早く届けないといけない。
「それじゃ、ちょっと配達してくるから、お兄ちゃんはお店番をお願いね」
配達用のかごを背負ったヴィオラートは、レジカウンターに陣取ったバルトロメウスを振り向く。
「ふお〜い」
だらしなく頬杖をついたバルトロメウスはあくび交じりの声で、けだるげに右手を挙げてみせた。
「もう! お兄ちゃん、もっとやる気を出してよ。カウンターで居眠りしている姿をお客さんに見られたりしたら、お店の信用にかかわるんだからね!」
「わかってるって。ふわああああ〜」
「ほら、言ってるそばから大あくび!」
「だいじょぶだから、早く届けて来いよ。冷めちまうぞ」
まだ文句を言いたそうなヴィオラートだったが、せっかくの料理が冷めてしまうという指摘ももっともだったので、ぶつぶつ言いながら店を出る。そんな姿を見て、エリーは含み笑いをもらした。その朝、悪夢に眠りを妨げられたバルトロメウスが、夜明けまで畑で汗を流していたために、今になって眠気に襲われていることを、ふたりとも知らなかった。
「急ぎましょう。今日は暑いですから、食べ物が悪くならないうちに届けないと」
ヴィオラーデンを出ると、ヴィオラートは足を速める。
「そうか。そういう点にも気を遣わないといけないんだね」
エリーは、アイゼルやヘルミーナから聞いた話を思い出しながら言った。ザールブルグに比べて、グラムナートでは格段にアイテムが腐りやすいこと――少し放置しておいただけでゴミになってしまうので、大切なものは必ず氷室に保管しておかなければならないこと。カロッテ村へ来る途中、森で採取したアイテムがことごとく腐ってしまったことで、その話は裏付けられていた。
しかし、なぜ地方によってそのような違いが存在するのだろうか。確かに地図を見ると、カナーラント王国はシグザールよりも南に位置しているようだったが、それだけが理由とも思えない。土地っ子のヴィオラートはものが腐りやすいことを当然と考えており、あまり深く思索をめぐらせたことはないようだった。
カロッテ村の中心地を通り抜け、ドラグーンのキャンプ地へ向かう途中も、エリーとヴィオラートはそのことで議論を続けた。
「そうですね、グラムナートのアイテムでも、腐りやすい物とそうでない物はもちろんあります。植物とか、海で採れる生き物は腐り方が早いです。金属とか鉱石は、普通は腐ったりしませんけど、物によっては劣化してゴミになってしまうこともあります」
「へえ、どういった場合に鉱石が腐ったりするの?」
「『腐りやすい』属性が付いている場合ですね。錬金術で調合しても属性は継承されますから、気をつけないと、宝石でもいつの間にか無価値になってしまうこともあるんですよ」
「それじゃ、ひょっとして、腐りやすい『賢者の石』ができちゃう場合もあるんだ」
「理屈の上では、そうですね。でも『賢者の石』みたいな貴重なものを調合する時は、中間段階のアイテムでそういう属性は排除するようにしていますから」
「なるほど、それはそうだよね。でも、同じ大陸の西と東で、こんなに違いがあるなんて、どうしてなのかなあ」
「それは――わかりません。アイゼルさんにも似たようなことを訊かれましたけど、あたし、お店のことや村のことでいろいろと忙しくて、あらためてエリーさんに言われるまで、考えたことがなかったんです」
「土地のせいか、気候のせいじゃないかって、イングリド先生は言っていたけど・・・」
「本格的に調べるのでしたら、フィンデン王国へ行くしかないかも知れませんね」
「フィンデン王国・・・」
「はい、フィンデン王国のヴェルンという町には、大きな図書館があるんです。グラムナートで一番の蔵書があって、錬金術に関係のある書物もたくさん収められているといいます。あたしも、一度ゆっくり行ってみたいと思っているんです。オヴァールさんが蔵書の整理を進めていて、ぜひ錬金術士に手伝ってもらいたいと言われているんですけど、なかなか時間が作れなくて」
「オヴァールさんって、氷室の管理人をしていた人だね」
ヘルミーナから聞いた話を思い出しながら、エリーは言う。
「そうです。以前はアルテノルトで氷室の管理人をされていたそうですけど、今はヴェルンの図書館長です。アルテノルトでお目にかかった時は、あわただしくて、あまり話もできなかったですけど、すごく知識がある人という印象でした」
ヴィオラートは遠くを見るような眼差しをした。魔界の存在に狙われたマッセンの首都を救うために、フィンデン王国で過ごした日々を思い出しているのだろう。
話題を変えようと、エリーは言葉を継ぐ。
「それにしても、すぐにアイテムが腐っちゃうなんて、困りものだよね。工房には必ず氷室を設置しなければいけないし、常にアイテムの状態に気を遣わなきゃいけないし、いいことなんかないよね」
「いえ、そんなことないです」
振り向くと、ヴィオラートはきっぱりと言った。気圧されたように、エリーが目を丸くする。
「だって、腐らなかったら、不要なアイテムがいつまでも残ってしまいますよ。それに、いいにんじんを育てるためには肥料が必要ですけど、肥料には腐葉土が最高なんです。くず野菜や葉っぱや刈った草を堆肥にして、いい肥料が作れるのも、ものが腐りやすいからなんですよ」
「へえ、そうなんだ」
「それから、腐ったアイテムの属性は、ゴミになっても残りますから、そのゴミを材料にタネを調合して畑にまいて育てれば、その属性を持った新鮮な野菜や植物ができます。いろいろ工夫して試行錯誤するうちに、様々な特性を持ったアイテムを創り出すこともできますし、それがグラムナート錬金術の醍醐味だと思います」
「そうだったんだ・・・」
エリーはぺこりと頭を下げた。
「ごめんね、考え足らずのことを言っちゃって。そうだよね、腐ることがなかったら、不要なアイテムの処分にも困るし、アイテムが腐ってゴミになることで、次の段階への発展が望めるんだよね」
「それだけじゃありませんよ。チーズとかお酒とか、放置して発酵させることで、価値が高まることもあるんです」
「あ、そうか。発酵が早ければ、それだけ早く高品質のアイテムになるよね」
エリーは思い出した。調合したまま忘れて1年以上放置してあったワインを、酒場『飛翔亭』に売りに行ったところ、店主のディオが感心して高く買ってくれたことがあったのだ。
「だから、ファスビンダーの町でタダで仕入れてきたワインだって、しばらくお店の倉庫で寝かせておけば、高く売れるんです。えへへ」
ファスビンダーは、カナーラント王国の北部にあるワインが名物の町だ。町の中央には巨大な酒樽が設置してあり、中身のワインは誰でも無料でいくらでももらうことができる。そのままではあまり良質とは言えないワインだが、樽に入れて寝かせておけば、どこへ出しても引けを取らない高級酒となるのだ。
「なるほど、腐りやすいってことには、いろんな利点があるんだなあ」
エリーはしみじみと言った。今度はヴィオラートが苦笑する。
「でも、管理を忘れていて、気が付いたらコンテナがゴミだらけになっていた時は、かなり落ち込みますけどね」
「あはは、それもそうだね」
ふたりの錬金術士は笑い合った。すぐにエリーは真顔になる。
「う〜ん、これはなにかに生かせそうだなあ」
「へ? どうしたんですか?」
「うん、『腐りやすい』属性をうまく応用して、なにか新しいオリジナルのアイテムが創れないかと思ってね。これは研究する価値があるよ」
「はあ、なるほど。あたしも考えてみますね」
「うん、一緒に考えようよ」
夢中で話し合いながら歩を進めるふたりの行く手に、ずらりと並んだドラグーンのテントが見えてきた。
注文の料理を届けたエリーとヴィオラートは、許可を得て竜騎士隊のキャンプを見てまわった。
ダグラスに会えるかと思っていたのだが、姿は見えなかった。当直の竜騎士に尋ねると、ダグラスはローラントとロードフリードと3人で、南部平原で訓練のリハーサルを行うために出かけているとのことだった。
「残念でしたね、ダグラスさんに会えなくて」
カロッテ村へ戻る道筋で、ヴィオラートが言った。
「うん、でもまあ、ダグラスも忙しいから」
エリーはあっさりと答える。拍子抜けしたようなヴィオラートだったが、
「そうですね、何と言ってもシグザール聖騎士の代表ですものね。それに比べて、お兄ちゃんときたら――」
ため息をつき、
「ほんとに、だらしないお兄ちゃんで、恥ずかしいです」
「ううん、そんなことないよ。ダグラスも、普段はけっこうだらしないし。ヴィオのお兄さんとダグラスって、よく似たところがあると思うよ」
「・・・・・・。そうかもしれませんね。あたしも、初めて会った時、そう思いました」
ヴィオラートは問わず語りに、マッセンハイムでダグラスに護衛されて魔を封じる術を使った時のことを話し始めた。
「――本当に、頼りになりました。未熟なあたしが、『竜の砂時計』の魔力を解放して『六芒星封魔陣』の発動に成功したのも、ダグラスさんが近寄る魔物を片っ端から追い払ってくれたからです。おかげで、魔法に集中することができました」
「うん、そうだね。でも、作戦が成功したのはみんながお互いに信頼し合って、最大限の力を発揮したからだよ」
アイゼルやダグラスから、マッセンハイムでの最終決戦の話を何度も聞かされているエリーは言った。
「その時、ダグラスの代わりにバルトロメウスさんがいたとしても、結果は同じだったはずだよ」
「そうでしょうか・・・」
「ヴィオはお兄さんのことが、嫌いなの?」
「そんなことありませんけど」
「もちろん、そうだよね」
そう言うと、エリーはなにかを思い出したように、くすりと笑った。
「へ? どうしたんですか。あたし、なにか変なこと言いました?」
いぶかるヴィオラートにエリーはあわてて手を振り、
「違うよ、以前、カリエルに行った時のことを思い出しちゃって」
シグザール王国の北に位置する小国カリエルは、ダグラスの故郷である。珍しい調合材料の採取を兼ねて、ダグラスとともにカリエルを訪れたエリーは、そこの酒場でダグラスの妹セシルに出会った。ダグラスとセシルの間で交わされた会話を思い出して、エリーはその時の様子をヴィオラートに語った。
「セシルさんとダグラスって、ヴィオとバルトロメウスさんにそっくりだったよ。わたしは一人っ子だから、兄弟がいる人がうらやましくて――。だから、お兄さんを大事にしてあげなくちゃ」
「そうですね」
ヴィオラートは顔を上げ、大きく伸びをして息を吸った。
「だらしないし、サボり魔だけど、あたし、やっぱりお兄ちゃんが好きです。ダグラスさんも、お兄ちゃんみたいな気がします」
そして、ヴィオラートはエリーを振り向いた。
「エリーさんは、ダグラスさんのこと――」
「へ?」
エリーはきょとんとしたが、ヴィオラートはあわてて言葉を飲み込んだ。つい、立ち入ったことを尋ねてしまったと思い当たったのだ。
「どうしたの、ヴィオ」
エリーは気付いていないらしい。ヴィオラートは照れ笑いをして、先に立って歩き出す。
「いえ、何でもありません。さあ、お店に戻りましょう。きっとお兄ちゃん、居眠りしてますから、どやしつけてやらないと」