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恋のアトリエ・ドミノ Vol.10


第10章 第三の物語(5)

「おっしゃ、見えてきたぜ! あれがホーニヒドルフだろ?」
手綱をとるバルトロメウスの声に、ブリギットとアイゼルも顔を上げる。急勾配のつづら折の街道の先に、木々に囲まれたこぢんまりとした集落が姿を現し始めていた。
「ふう。やっと到着ですのね。揺られっぱなしで、腰が痛くなってしまいましたわ」
不平を言いつつも、ブリギットの表情は明るい。
「やっと、お目にかかれますのね、ロードフリード様・・・」
「水を差すようで悪いけれど――」
今にも目がハート形に変わりそうなブリギットを横目で見ながら、前方をながめやったアイゼルが落ち着いた口調で言う。
「ヴィオラートやロードフリードさんが、あそこで待っていてくれるとは限らなくてよ。なにしろ、わたしたちが後を追っているなんて、夢にも思っていないでしょうからね」
「そ――そのくらい、わかっていますわ! それより、ひとりごとを盗み聞きするのは、やめていただけませんこと? あまりよいご趣味とは言えませんわ」
ブリギットが振り向き、険しい目をアイゼルに向ける。
「けっ、こっちまで聞こえたぜ。ひとりごとなら、聞かれないように小さな声で言えってんだ」
「まあ」
バルトロメウスの声にブリギットは赤面し、アイゼルは口に手を当ててくすっと笑う。
「と――とにかく、急ぎましょう。たとえロードフリード様がいらっしゃらなくても、町の人たちに話を聞けば、なにかわかるはずですわ」
赤くなった頬を隠すようにぷいと横を向き、ブリギットがうながす。
「あいよ! こっちも早くヴィオのやつに追いついて、クラーラさんとの約束を果たさなくちゃならないからな」
当面の目的地ホーニヒドルフに近づいたためか、バルトロメウスも張り切っている。
3人は、山道に強いずんぐりとした馬が引く荷馬車に乗っていた。バルトロメウスが御者席につき、アイゼルとブリギットは荷台に座っている。ブリギットが屋敷から持ち出してきたクッションを敷いてはいるが、でこぼこの山道で揺れるたびに、尻や腰にかなりの衝撃がある。
ファスビンダーへ向かうクラーラたちと別れ、再びテュルキス山道へ向かうべくハーフェンへ取って返した頃には、日暮れとなっていた。さすがに、そのまま疲れ切った馬を駆って山道へ入り込むのは無謀だと諦め、いったんハーフェンで泊まることにしたのだった。半日前は、盗賊にさらわれたクラーラを救いに行くという緊急事態だったため、一刻を争って行動しなければならなかったが、それもバルトロメウスの勘違いだったと判明した。バルトロメウスにしてみれば、クラーラからヴィオラートたちへの伝言を頼まれたとはいえ、追いかける熱意は大幅に下がっている。ブリギットにしても、早くロードフリードに追いつきたいのはやまやまだったが、夜を徹して山道を登ろうとするほど判断力を失ってはいなかった。そこでアイゼルの助言を受け入れて、ハーフェンで一晩ゆっくり休むことにしたのだった。ディアーナと相談して山道に強い荷馬車を調達することにし、当主に無断で持ち出した三頭の名馬は夜のうちにジーエルン家の厩舎へ戻した。ブリギットの計算通り、当主夫妻は『ハーフェン掘り出し物市』の打ち上げパーティーのため屋敷にはおらず、両親と顔を合わせるという気まずい事態は起きなかった。
そして翌朝、普段はテュルキス山道の荷運びに使われている商家の荷馬車を借り受けて、一行はホーニヒドルフへ向けて出発し、数日にわたる旅を続けてきたのだった。

ホーニヒドルフへ入ると、すぐに町の中央広場がある。共同井戸を囲んで広がる中央広場では、住人たちがそぞろ歩いたり、ベンチに腰かけて談笑したり、思い思いにのんびりと時間を過ごしている。広場の東側には名産のハチミツを売っている雑貨屋、北側には酒場と宿屋を兼ねた『泉亭』が建っている。その2軒の間の道を抜ければ、大量のキュクロスバチを飼っている養蜂場のハチ小屋前に出る。残念ながら、中央広場には知った顔は見えない。
「やはり・・・そううまくはいきませんわね」
広場でロードフリードが出迎えてくれるのではないかと密かに思っていたブリギットは、小さくため息をもらした。
「まあ、世の中そんなもんだ」
もっともらしくつぶやいて、バルトロメウスは馬車を乗り入れる。広場にいた地元の若者に馬の世話を任せると、3人の旅人は手荷物だけを持ってホーニヒドルフの土を踏んだ。初めてやって来たバルトロメウスとブリギットは物珍しそうにあたりを見回しているが、ヴィオラートの護衛などで何度か訪れたことがあるアイゼルは、すぐにてきぱきと行動を開始した。
「ヴィオラートがホーニヒドルフへ向かった目的は、美味しいハチミツを調達するためだと言っていたわね」
バルトロメウスを振り返り、アイゼルが言う。
「ああ、間違いねえ。もうすぐあいつの誕生日だからな。パーティーに出す美味いケーキを創るには、ホーニヒドルフのハチミツが欠かせねえって言ってた」
「わたくしとロードフリード様の誕生日でもありますわ」
ブリギットが口を挟む。3人は、それぞれ一日違いの誕生日なのだ。
「そうだっけか? まあ、俺は美味いケーキが食えれば文句はないからな」
「あなたには、別に祝っていただきたいとも思いませんけれど」
言い合う二人を従えるようにして、アイゼルは雑貨屋の入口へと歩を進めた。ふと気付いたバルトロメウスが、左側の酒場『泉亭』の看板を振り返りながら尋ねる。
「どうしたんだ? 新しい町へ着いたら、まずは酒場で情報収集――っていうのが冒険者の基本じゃねえのか?」
「確かにそうだけれど、今回は事情が違うから」
アイゼルはすまして答える。
「ヴィオラートは名産のハチミツを買いに来たわけだから、必ず雑貨屋のハチミツ売り場に立ち寄ったはずよ。効率よく情報収集するなら、情報を聞ける確率がいちばん高い場所へ行かないとね」
「・・・・・・」
バルトロメウスはぐうの音も出ない。
ところが、雑貨屋の前で足を止めたアイゼルは、眉をひそめた。
「どうしたんですの、アイゼルさん?」
ブリギットもアイゼルと並んで、ドアにでかでかと貼られた紙にまじまじと見入る。
「何だ、こりゃあ」
バルトロメウスも素っ頓狂な声を上げた。
そこには、若い女性のものらしい丸文字で、『錬金術士おことわり。絶対立入禁止!』と書いてあったのだ。

「いったい、どういうことなのかしら」
ブリギットと顔を見合わせ、アイゼルが腕組みをして考え込む。
「決まってらあ、ヴィオのやつがなにか面倒ごとを起こして、出入り禁止をくらったに違いないぜ」
バルトロメウスが決め付けた。
「あいつは昔からトラブルメーカーだったからな。にんじん畑を荒らしたり、ニワトリを追いかけ回して小川にはまったりよ」
「いつの話ですの? それに、あなたが――の間違いではなくって?」
ブリギットが冷ややかに指摘する。
「とにかく、事情を聞いてみましょう」
ドアを押し開けようとするアイゼルを、ブリギットが止めた。
「お待ちになって、アイゼルさん」
「どうしたの?」
「その格好で、店にお入りになるのは、ちょっと・・・」
「へ?」
アイゼルは思わず、下を見たり背中を振り返ったりして、スカートやニーソックス、ローブをあらためた。だが、染みも汚れも破れ目もかぎ裂きも見当たらない。ブリギットがくすりと笑った。
「違いますわ。アイゼルさんのそのいでたち・・・どこからどう見ても錬金術士でしょう?」
バルトロメウスが手を打つ。
「なるほど! 『錬金術士おことわり』の場所に錬金術士が入っていったら、どうなるかってことだな。問答無用で叩き出されるのがオチかもしれねえぞ」
「騒ぎにはならないまでも、相手はいい気持ちはしないでしょう。聞ける話も聞けなくなってしまうかも知れませんわ。ここは、わたくしにお任せください」
ブリギットの口調に、いささか優越感が混じっているように感じるのは気のせいだろうか。アイゼルは内心、穏やかではなかったが、ブリギットの言うことは正論だ。
「わかったわ。では、わたしは別のところで町の人に話を聞いてみます」
アイゼルがきびすを返そうとすると、バルトロメウスが自信満々で言った。
「そうそう、ここは俺たちに任せて、アイゼルさんは酒場ででも休んでいてくださいよ」
「俺たち――? 一緒に来るおつもりですの?」
バルトロメウスをまじまじと見つめ、ブリギットがあきれたように言う。
「あなたも、酒場でお昼寝でもなさっていたら? ハチミツ売り場の店員の方も女性だそうですし、殿方抜きで女同士で話し合う方が、情報を聞きだしやすいと思いますけれど」
暗に――というより、かなりあからさまに、バルトロメウスがいても邪魔になるだけだから引っ込んでいろと言っている。だがバルトロメウスには通じない。
「そうはいかねえ。俺はあんたの護衛だからな。『どこまでも』付き合ってやるぜ」
「まあ」
ブリギットは絶句する。思わぬところで自分の発言を利用され、しっぺ返しを食った気分だ。バルトロメウスはしてやったりとにやりと笑い、
「じゃあ、行こうぜ。泥舟に乗ったつもりでいてくれ」
「救命ボートは備え付けてあるのでしょうね」
言い捨てると、ブリギットはつんとあごを上げ、雑貨屋のドアに手をかけた。


雑貨屋での聞き込みをブリギットとバルトロメウスに任せ、アイゼルはぶらぶらとホーニヒドルフの町の奥へ進んでいった。のんびりとしたシャリオ牛の鳴き声を背に路地を進むと、一面に張り巡らされた金網が目に入る。『ハチミツの町』として知られるホーニヒドルフを支えているのが、この養蜂場だ。
金網に囲まれた土地の奥では、樹齢100年を越える巨木が腕を広げたかのように四方八方へ大枝を伸ばしている。大枝のひとつをしならせるようにして下がっているのは、犬小屋よりも大きく、茶褐色をした、やや縦長の球形の物体――キュクロスバチの巣だ。体長が親指ほどもあるハチが群れをなし、警戒するかのように巣の周囲をブンブンうなりを上げて飛び回っている。球形の巣の中はいくつもの区画に分かれ、芳醇で濃厚なハチミツがたっぷりと貯えられているはずだ。溜まった蜜で重くなったかけらが、巣の下の地面のそこここに落ちているが、素人が拾おうとすればハチに刺されて痛い目に遭うことになる。場合によっては、強力なハチの毒で命を落とすことにもなりかねない。そんなわけで、養蜂場の入口には鍵がかけられ、守衛が常時にらみを利かして、勝手に人が入り込めないようになっている。
守衛の許可を得て料金を払えば、中に入って獰猛なキュクロスバチの群れと戦い、ハチミツが詰まったハチの巣のかけらを手に入れることもできる。しかし、雑貨屋へ行けば精製済みの上質なハチミツを買えるのだから、わざわざ金網の中で危険を冒そうとするのは、よほど金に困っているか冒険好きかのどちらかだろう。実は、アイゼルもヴィオラートに付き合わされて中に入り、キュクロスバチの群れをヘルミーナ仕込みの毒薬で一網打尽にしたことがある。
「あら・・・?」
養蜂場に近づいたアイゼルは、再び眉をひそめた。必ずいるはずの守衛の姿がない。
いつも養蜂場の入口で見張り番をしているのは、きちんとした正装に身を固めて姿勢を正し、折り目正しい態度を崩さない好青年、グレゴール・ヴァッサーマンだ。緊張感をたやさず、ある意味ではまったく融通の利かない朴念仁だが、厳格さが必要な養蜂場の守衛には適役といえる。
背筋をぴんとさせた長身の姿がないと、キュクロスバチの羽音も心なしか物悲しげに聞こえる。アイゼルは、入口の扉に顔を近づけた。幾重にも鎖が巻かれ、がっちりとした南京錠がかかっている。その脇に紙を貼った板が打ち付けてあり、貼り紙には律儀そうな角ばった男文字で『当分の間、養蜂場の一般公開は中止とさせていただきます』と丁寧に書いてある。
「いったい、何があったというのかしら?」
あごに手を当てて考え込んだアイゼルだが、すぐにローブをひるがえしてくるりと向きを変え、路地を中央広場へと戻っていった。こうなったら、バルトロメウスが言っていたとおり、冒険者の基本に戻るしかない。

「いらっしゃい」
ホーニヒドルフで唯一の酒場兼宿屋『泉亭』のドアを押し開けると、ひげ面の亭主ゼム・ローレンが正面のカウンターの奥から値踏みするような視線を向けてくる。無愛想で、いかつい顔つきだが、別に悪人というわけではない。時間帯のせいか、店内は閑散としている。
ザールブルグ・アカデミーの学生だった頃のアイゼルならば、酒場のような品の悪いところに出入りすることなど、想像しただけで怖気を振るったかもしれない。しかし、グラムナート地方を放浪する一人旅で鍛えられ、アイゼルも並みの冒険者以上に世慣れてきている。
自然な動作でカウンターの隅の席にかけると、名産のハチミツ酒をお湯で割り、シナモンパウダーを振りかけたものを注文した。
飲み物をよこしたゼムに銀貨を渡し、アイゼルはさりげなく話しかけた。
「養蜂場が閉鎖されているみたいね。驚いたわ」
「ああ」
相変わらずゼムはそっけない。
「グレゴールさんがいなかったけれど、どこかへ出かけているのかしら」
この問いに、ゼムはかすかに眉を上げ、じろりとアイゼルを見た。
「あんたは・・・、違うのか」
「はい?」
アイゼルはきょとんとする。ゼムの質問の意味がわからない。
「あんた、ここへ来るのは初めてじゃないな?」
「ええ、何度か来たことはあります。でも、この前来てから何ヶ月も経っているわ」
よくわからないまま、アイゼルは答えた。目をそらし、ゼムは納得したようにうなずく。
「そうか・・・。なら、あんたじゃないんだな」
「どういうことなの?」
アイゼルは問いかけ、銀貨の詰まった小さな布袋をカウンターに載せ、ゼムの方に押しやった。それなりの値打ちのある情報が欲しいなら、それなりの代価が必要だ。ゼムは一瞬ためらったようだが、カウンターを布で拭きながら、さりげなく布袋を手に収める。
「養蜂場が閉まっているのは、グレゴールが寝込んでいるからだ。あいつ以外に守衛が務まるやつはいないからな」
アイゼルを無視するようにグラスを磨きながら、低い声でゼムが言った。
「どうしたの? 病気?」
ハチミツ酒のお湯割りを上品にすすりながら、壁を飾る大鹿の頭に視線を走らせつつ、アイゼルもさりげなく尋ねる。
「身体の病気じゃない。俺が聞いたところでは、どうやら『恋の病』というやつらしい」
「へ? 恋の病?」
アイゼルは目を見張り、思わずゼムを振り向いた。ゼムは真顔でうなずく。
「ことが起きたのは、しばらく前だ。実は、俺がギルドの用事でハーフェンに行っていた間のことだから、この目で見たわけじゃない。後になって町の連中から聞いた話だ」
相変わらず重々しい口調で、ゼムはつぶやくように話した。アイゼルはエメラルド色の目を見開いたまま、黙って耳を傾ける。
「あんたも知っているかもしれんが、グレゴールは雑貨屋のルディと幼馴染でな。いや、お互いに好き合っていると言ってもいいだろう。ふたりとも意地っ張りだから、なかなか認めようとしないが、昔から知っている俺たちから見れば、あいつらの気持ちはバレバレだ」
「・・・・・・」
「ここからは、又聞きだからな。真偽のほどは保証しない」
「いいわ。先を続けて」
「ある日、錬金術士の女が町へ来たらしい。その錬金術士が体調を崩して倒れたらしく、たまたま居合わせたグレゴールが介抱したんだそうだ。やつは真面目だからな、一生懸命、面倒をみてやったんだろう」
「ちょっと待って。その錬金術士は、ひとりだったのかしら」
「いや、男の護衛がついていたそうだ。人数まではわからん」
「そう・・・。それで? 恋の病ってことは、グレゴールさんは、その錬金術士を好きになってしまったというわけ?」
「いや、違う。そんな単純な話じゃないさ。確かに、一時期、グレゴールがその女に惚れたんじゃないかと思ったやつもいたらしいが。――ルディのようにな」
「ルディさん・・・。ハチミツ売り場の娘さんね」
アイゼルが眉を上げる。『錬金術士おことわり』の貼り紙を出した本人だ。
「ああ、町の連中の話では、グレゴールがその女錬金術士と抱き合ってる現場を、ルディが見ちまったんだそうだ。それで、修羅場になったというわけだ」
「・・・・・・」
「ルディはかわいい顔をしてるが、気は強いからな。グレゴールはあわてていろいろ言い訳をしたらしいが、ルディは聞こうともしない」
「それで、当の錬金術士はどうしたの?」
「具合が良くなったら、先を急ぐからと言って、護衛ともどもさっさと出て行っちまったそうだ。厄介な、でかい火種を残したままな」
「だから、さっき、あたしは違うのか――と訊いたのね」
「ああ、あんたが騒ぎの張本人かと思ったんだ。一目見れば、あんたは錬金術士だとわかるからな」
「そう・・・。それじゃ、ルディさんがハチミツ売り場に『錬金術士おことわり』の貼り紙をしたのも、それが理由なのね」
「そうだ。ルディはすっかりへそを曲げちまってな。その事件以来、グレゴールとまともに口をきいていない。口を開けば、けんか腰だ。グレゴールは心労で寝込んじまったってわけだ」
「そうだったの」
アイゼルは、必死に頭を回転させながらつぶやいた。どうもしっくりとこない。もやもやとした予感が渦巻いている。
「それで、グレゴールさんの具合はどうなの?」
「命に別状はないだろうが、ベッドから起きようとしないし、かなりやつれてるって話だ」
アイゼルは空になったグラスをカウンターに滑らせ、お代わりを頼んだ。ゼムが用意している間、カウンターに肘をつき、あごに手を当てて難しい顔で考え込む。
ハチミツ酒のグラスを受け取ると、アイゼルはゼムに尋ねた。
「あとでグレゴールさんをお見舞いしたいのだけれど、自宅を教えてもらえるかしら?」
「何だと?」
驚いて目をむくゼムに、アイゼルは微笑んだ。
「錬金術士が原因のトラブルは、錬金術士が解決しなくてはね」


「よろしいですわね。話はわたくしに任せて、あなたは黙っていてください」
雑貨屋のドアに手をかけながら、ブリギットはあらためてバルトロメウスに釘を刺した。
「ちっ、わかったよ。何度も言うなってんだ」
「なにかへまをなさったら、クラーラさんに言いつけますわよ」
だめを押してバルトロメウスを黙らせると、ブリギットは木の扉を押し開ける。
チリリン――とベルが澄んだ音色で鳴ると、カウンターの向こうから小柄な少女が目を向けてくる。黒褐色の髪をピンクのリボンでポニーテールにまとめ、白とピンクの清楚な服とエプロンに身を包んでいる。かわいらしい童顔で背も低いため、年齢より若く見られがちだが、ルディ・ヤッケはブリギットやバルトロメウスよりもずっと年上だ。
「いらっしゃ――」
ブリギットの姿を見て、一瞬ルディは絶句し、瞳に険しい光が走った。だが、服装から錬金術士ではないと納得したのだろう、すぐに営業用の笑顔と声に戻る。このあたりは、グレゴールよりもよほど大人だ。
「いらっしゃいませ。ハチミツをお求めですか?」
「あ、いや、入口の貼り紙の――いてっ!」
ブリギットのローキックがふくらはぎに食い込み、バルトロメウスは口をつぐむ。もちろん、カウンターの陰になっているので、ブリギットの蹴りはルディからは見えない。
「ええ、そこの高級ハチミツを見せていただけるかしら」
顔をしかめるバルトロメウスを一顧だにせず、ブリギットはルディの背後の棚に並んでいる極上品の激甘ハチミツを指さす。黄金色に輝くつややかなハチミツを味見すると、ブリギットは即決して2壜買い込んだ。カロッテ村なら一ヶ月は遊んで暮らせるだけの銀貨を、あっさりと支払う。思わぬ高額の売り上げに、ルディも驚き、喜んでいるようだ。
「初対面の相手に心を開いてもらうには、まず第一印象を良くすることですわ」
ハチミツ入りの壜を包みにルディが奥へ行っている間に、ブリギットはバルトロメウスにささやいた。
「へいへい」
ふてくされたようにバルトロメウスは答える。ブリギットへの自分の第一印象が最悪だったことなど、記憶にない。
きちんと包装した極上ハチミツを持ってルディが戻ってくると、ブリギットはさりげなく話しかけた。
「ホーニヒドルフには初めて来ましたけれど、空気は美味しいし、いいところですわね」
「はあ、ありがとうございます」
そつなく答えるルディだが、どこか伏し目がちで、心ここにあらずという雰囲気が感じられた。ブリギットは言葉を継ぐ。
「それにしても驚きましたわ。このお店も錬金術士の出入りを禁止しているのですね」
「えっ」
ルディの肩がひくりと震えた。顔を上げ、なにか言いたげにブリギットを真正面から見つめる。だがルディが口を開く前に、ブリギットが続けた。
「実は、わたくしの屋敷も、錬金術士を出入り禁止にしていたことがあるのです」
「おい、何を言ってるんだ。そんなこと――あたっ!」
バルトロメウスの脇腹をブリギットの肘がえぐった。ルディは気付かず、再び黙って顔を伏せる。ブリギットはうんざりしたような腹立たしげな表情を装い、
「わたくしも以前、女性の錬金術士に振り回されて、ずいぶん泣かされたものです」
たしかに、ヴィオラートには採取地をあちこち連れ回されたし、アイゼルには貴族のプライドをへし折られた。そして、ずっと苦しめられてきた肺の病気がヴィオラートの薬のおかげで完治したときには、思い切り嬉し涙にくれた。だから、言っていることはあながち嘘ではない。
ルディはびっくりしたように目を見開いて、カウンター越しにブリギットを見つめている。
「ですから、表の貼り紙を拝見したとき、思ったのです。ああ、ここにも錬金術士のために辛い思いをなさっている方がいらっしゃる――って。とても、他人事とは思えませんでした」
気遣うような態度で、優しげにブリギットはルディに話しかける。
「さぞかし辛い出来事があったのでしょうね」
「あ――、あたし・・・」
見る間に、ルディの黒い瞳に涙のしずくが盛り上がってくる。両手でぎゅっとエプロンを握りしめ、必死になにかに耐えているようだ。
あと一押しだ。ブリギットは慈愛に満ちた聖母を演じる。とにかく、ここで何があったのかわからなければ、ロードフリードが今どこにいるかという手がかりもつかめないのだ。
「わたくしは、怪しい者ではありません。ハーフェンのブリギット・ジーエルンと申します。よろしければ、事情を話してくださらないかしら。誰かに話してしまえば、きっと心も軽くなると思いますわ」
「そうだ、話してくれ。俺のいも――いたた!」
軽く突き出されたブリギットの指先が、バルトロメウスの脾腹に鋭く食い込む。バルトロメウスが錬金術士の身内だとわかれば、ルディは開きかけた心を閉ざしてしまうかもしれない。
「れ――錬金術士なんか、大っ嫌いです! グレゴールに・・・。あたし――」
そしてついに、ルディは涙にくれながら、思いのたけを吐き出し始めるのだった。とはいえ、バルトロメウスに頼んで表の「営業中」の札を「準備中」にかけ代えさせるのを忘れなかった。さすがは商売を大切にするヤッケ一族の一員である。


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