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恋のアトリエ・ドミノ Vol.11


第11章 第三の物語(6)

「・・・あれは、何日前だったかしら。よく覚えていないの、ごめんなさい。もう何週間も経ったような気もするし、つい昨日のことのようにも思えるわ。とにかく、ずっと悪い夢を見ているような気分で――」
カウンターの奥の、事務所と販売員の休憩所を兼ねたスペースで椅子にかけ、ブリギットとバルトロメウスはルディの打ち明け話に耳を傾けている。ルディはハンカチを握りしめ、時おり涙をぬぐったりすすりあげたりしながら、切れ切れに話を続ける。
「この町に錬金術士が来るのは、最近はそう珍しいことではなかったから、あまり気にはしていなかったの。ハチミツを買いに来たときも、別に変な素振りは見せなかったし・・・。でも、あたしが知らないうちに、あんなことになってるなんて、思ってもみなかった――」
言葉を切ると、ルディはぎゅっと目を閉じ、激しくかぶりを振った。ブリギットが力づけるようにルディの手に自分の手を重ねながら、バルトロメウスに目配せをした。
(やはり、ヴィオラートはハチミツを買いに立ち寄ったようですわね)
(ああ、そうだな、だが、あいつ、いったい何をしでかしたんだ?)
「あの日、そろそろ閉店時間になるので、お店を片付けて、新しいハチミツを養蜂場へ取りに行こうとしていたの。いつも、グレ――グレゴールが・・・、時間に合わせて集めておいてくれるから――」
グレゴールの名前を口にするとき、ルディは声を上ずらせ、辛そうな表情を浮かべた。
「それで、裏口を出たとき、ハチ小屋の方から変な音が聞こえて――」
「どんな音だったんですの?」
「ええと、花火みたいな・・・なにか重い物が倒れるような・・・、ああ、うまく言えないわ」
「で? それからどうなったんだ?」
「なにかあったのかと思って、急いでハチ小屋に向かいました。・・・ああ、行くんじゃなかった! でも、行かなければ、ずっと知らずに、だまされたままだったかもしれないわね」
ルディは哀しげにかすかな笑みを浮かべる。そして、しばらくためらった後、意を決したように口を開いた。
「ハチ小屋の入口の脇で、グレゴールが・・・あの錬金術士と・・・、抱き合っていたのよ」
「何だって!?」
バルトロメウスが素っ頓狂な声をあげる。ブリギットも唖然として、ルディを見つめた。
「ほ――本当ですの?」
「嘘だったら、どんなに良かったか――」
またも激しくかぶりを振り、ルディが声を高める。
「でも、本当だった・・・。グレゴールはこちら向きでひざまずき、とろんとした目であの女を見つめていたわ。そして、あの女は地面に横たわったまま、両腕をグレゴールの首に回して、しがみつくようにして、く・・・くちびるを――!」
そのときの情景を思い出したのか、ルディは両手で顔をおおって、わっと泣き伏した。乱れたルディの髪をなでてやりながら、ブリギットが複雑な表情を浮かべる。
「なんてことを――。わたくしだって、まだ、そんな大胆なこと・・・」
ロードフリードを相手にそんな振る舞いに及ぶ自分を想像してしまったのか、ブリギットは赤面する。
「だが、ヴィオのやつ、いつの間に、そんな――」
バルトロメウスは、いささか腑に落ちない表情だ。
「・・・ごめんなさい」
涙をぬぐい、気持ちを落ち着けると、ルディは大きくため息をついた。自分の胸元に目を落とし、力なくつぶやく。
「やっぱり、男の人は、ああいう胸の大きい女性の方が好きなのかしら」
「え、ええと・・・」
ブリギットも口ごもり、思わず胸に手を当てる。バルトロメウスは手を打った。
「くそ、やっぱりヴィオのやつだ!」
兄の目から見ても、たしかにヴィオラートは豊かな胸をしている。ブリギットも胸はかなり目立つが、それはスタイルを強調するようにデザインされたドレスを着ているせいもある。だが、ヴィオラートの場合、地味な錬金術服の上からでさえ、ふくらみが激しく自己主張しているのがわかるのだ。知らずに妹が着替えをしている部屋に踏み込んでしまったときにも、それははっきりとわかった。もっとも、ヴィオラート当人にはあまり自覚はないようだが。
ルディは再びため息をついた。
「あたしって、幼児体型だから・・・」
「い、いや、そんなことはないぞ。現に、クラーラさんはだな――あいた!」
あわてたバルトロメウスは、クラーラが聞いたら怒り出しそうなことを口走った。ブリギットはバルトロメウスの足を踏みつけ、話を引き戻そうとする。肝心のロードフリードのことが、まだ聞き出せていないのだ。
「それで・・・。それから、どうなさったんですの?」
「あたし――、びっくりしてしまって、腰が抜けたようになって、その場にしゃがみこんでしまいました。声も出せずに・・・」
「それから?」
「すごく長い時間が経ったような気がしたけれど、すぐだったのかもしれない・・・。横の方で叫び声がして、あの女の連れの男の人が飛んで来たの」
「どんな人でした?」
ブリギットの声に力がこもる。
「ええと・・・。顔はよく見なかったので覚えていないけれど、背は高くて、すらりとしていて、きちんとした身なりで、物腰や言葉遣いも嫌味なほど丁寧で――」
「やっぱりロードフード様だわ!」
ブリギットが叫ぶ。ルディを揺すぶらんばかりにして、
「それで、ロードフリード様はどうなさったんですの?」
「ものすごくあわてた様子で、何をやってるんだ――みたいな大きな声を出して、グレゴールからあの女を引き離しました。そばにいるあたしにも気付かなかったみたいで・・・」
「そりゃあ、そんな場面に出くわしたら、いくらロードフリードのやつでもあわてるだろうな」
腕組みをして、バルトロメウスがうなずく。
「そのあとは?」
「しばらく、そのまま座り込んでいたわ。でも、グレゴールが・・・」
ルディは口惜しそうにくちびるをかむ。
「あんなに締まりのない顔、初めてだったわ・・・。鼻の下は伸びてる、目はうっとりしたまま、口元もだらしなくゆるんじゃってて――。あんまり腹が立ったから、井戸水をバケツに汲んできて、ぶっかけてやったの。それでも、ぼーっとしたまま、とろんとした目で・・・」
「いえ、そうじゃなくて、ロードフリード様――いえ、その護衛の男の人が、その後どうされたかが知りたいのです」
「あの女錬金術士を背負って、どこかへ行ってしまったわ」
「へ? それだけですの? どこへ行ったかは、わからないのですか」
「とにかく、あたしが知っているのは、翌日になってみたら、錬金術士も連れの男性も町からいなくなっていたということだけ。いなくなってせいせいしたのと、仕返しができなくて口惜しかったのと、ちょっと複雑な気分だったわ」
「そんな――」
ブリギットはがっかりして天を仰いだ。バルトロメウスの方が冷静である。
「そうか。てことは、ハーフェンで聞いたとおり、あいつらはテュルキス洞窟へ向かったってことになるな」
ひとりで納得していたが、ふと首をかしげ、ルディを振り返る。
「ところで、そのグレゴールとかいうやつは、どうなったんだ?」
ルディは鋭い目で、バルトロメウスを見返した。
「知らないわ、あんなやつ!」
きっぱりと言った後、目をそらし、棚に並んだハチミツの壜をぼんやりとながめる。
「あくる日に、いろいろ言い訳をしてたけど。あの女性は具合が悪そうだったから介抱しようとしただけだとか、その後のことはぼんやりしていてよく覚えていないとか――。本当に、男らしくないんだから。最低!」
再び、ルディの頬を一筋の涙が伝う。それを見ていたブリギットは、複雑な表情を浮かべ、しみじみとした口調でつぶやいた。
「ルディさんって・・・。本当に、そのグレゴールさんのことが好きなのですね」
「えっ?」
ルディが振り向く。険しい目でブリギットをにらみ、言い放つ。
「何を言うの? 誰が、あんなやつ――」
「そうだよ。こんなに嫌っているんだぜ」
バルトロメウスがあきれたように言う。ブリギットはバルトロメウスを冷ややかに見つめ、驚くほど大人びた表情で、諭すように言った。
「あなたは、女心というものがおわかりになっていないのです」
微笑みながらルディを見て、
「だって、本当に好きでなかったら、そんなに真剣に、長いこと泣いたり怒ったりできるはずがありませんもの」
「それは――」
腰を浮かせて言い返そうとしたルディは、しかし目を伏せて、両手で頭を抱えた。
「でも・・・」
「何だよ、面倒くせえ話だな。だったら、さっさと仲直りすりゃあいいじゃねえか」
単純なバルトロメウスは単刀直入に言う。
「俺がヴィオとケンカしたときは、必ず飯を作ってやって、思い切り食って仲直りしてたぜ。腹が一杯になりゃ、腹も立たないからな。ははは」
ルディははっと顔を上げる。ブリギットも感心したようにバルトロメウスを見た。
「そうですわ、ルディさん。もう一度、グレゴールさんとお話ししてみたら、いかがでしょう」
「でも――あたし、ずいぶんひどいことを言ってしまったわ」
「本心からではなかったのでしょう。ただ、ちょっと意地を張ってみただけ・・・ですわね」
初対面の田舎娘ヴィオラートや洗練されたアイゼルに対して、目いっぱい意地を張っていたせいで苦しんだブリギットである。自らの経験に基づいた言葉には、説得力があった。
ルディは立ち上がった。右手で目頭をぬぐい、親身になって話を聞いてくれたふたりの旅人を見やる。先ほどまでとは違った、晴れやかな表情が浮かんでいた。
「ありがとう・・・。あたし、とにかくグレゴールと話してみます」
そして、髪を整えながらカウンターへ向かう。
「彼の好きなハチミツ入りアイスティーを持って行って・・・」
振り返ると、にっこりと笑い、きっぱりと言った。
「まだ男らしくないことを言うようだったら、頭からぶっかけてやるわ」
「おいおい、過激だな」
あきれるバルトロメウスは無視し、ルディはブリギットに目を向けて、感心したように、
「ブリギットさん――でしたっけ? 若いのに、ずいぶん恋愛経験を積んでいらっしゃるのね」
「へ? ・・・ええ、まあ」
ブリギットは平静を装いながら、どぎまぎして答える。子供の頃から読みふけっていたロマンス小説でバーチャルな恋愛経験を豊富に積んだだけだということは、知られてはならない。


ゼムに教えられたグレゴールの家は、町外れに建てられた小さな一軒家だった。
一本一本の丸木を組み上げた手作りの小屋のようだが、住人の几帳面な性格を表しているのか、丸木と丸木の隙間は念入りにパテで埋め、きちんと塗装して雨風が入り込まないようになっている。窓は閉ざされ、煙突からも煙が立ち昇る気配はなく、一見、留守のように見える。
だが、ゼムの言葉を信じれば、ハチ小屋の番人をしている生真面目なグレゴール青年は、恋愛関係のトラブルから家に閉じこもり、寝込んでいるという。しかも、そのトラブルには女性錬金術士がからんでいるというのだ。その証拠に、グレゴールを憎からず思っているはずの雑貨屋のルディが、自分の店に錬金術士の出入りを禁止している。ヴィオラートやロードフリードの行く先よりも、アイゼルにはこちらの事件の方が気になっていた。もしかしたら、以前から抱いていた不安が、現実のものとなったのかもしれない。
バッグの中をあらため、栄養剤や解毒剤の小壜があるのを確かめる。意を決して戸口に歩み寄ると、アイゼルは、木のドアに取り付けられたキュクロスバチの意匠のノッカーを叩いた。
耳を済ませて中の様子をうかがうが、返事はない。
「ごめんください・・・。グレゴールさん?」
声をかけ、もう一度ノッカーを叩く。反応は同じだ。
眠っているのかもしれない。いや、それとも――?
アイゼルはそっとドアに手をかけ、軽く力をこめた。鍵はかかっておらず、ドアはかすかなきしみをたてて開く。
「失礼します」
中は、アイゼルが何年も暮らしたアカデミーの寮の個室とさして変わらない広さだった。窓際に机と小さな本棚、反対側の壁に沿ってベッドが置かれている。窓の脇の壁、ちょうどベッドに横になるとよく見える場所には、かわいらしい少女の肖像画がかかっていた。ひと目で、雑貨屋のルディの数年前の姿だとわかる。
そっとドアを閉めると、すぐにアイゼルはベッドに目を向けた。窓から差し込む午後の光に照らされ、毛布をかぶってベッドに横たわる若い男性の姿があった。
「まあ・・・」
アイゼルは目を見張った。表情がくもる。誇りを持ってハチ小屋の守衛を務めていた、きりりとした青年の顔はそこにはない。もともとぜい肉のない精悍な顔はやつれ、目は落ち窪んでくまが目立つ。いつも整っていた金髪はくしゃくしゃに乱れ、額に汗が浮かんでいるにもかかわらず顔色は蒼白だ。昔、エリーに首席を奪われた直後のノルディスもショックでやつれ果てていたが、その何倍もひどい顔つきをしている。
急いで枕元にひざまずき、グレゴールの額をハンカチでぬぐうと、手を当てる。熱はないようだが、呼吸は浅く、せわしない。目を固く閉じ、時おりあごをのけぞらせて、苦しそうに身をよじる。なにか悪い夢でも見ているのだろうか。
「グレゴールさん」
アイゼルは声をかけ、栄養剤を取り出す。やつれているのは心労のせいもあるだろうが、まともに食事もしていないに違いない。話を聞くにも、まずは体力をつけさせなくては。
枕と頭の間に手をすべり込ませ、グレゴールの上半身を起こす。汗を吸い、枕も髪もじっとりと湿っている。
「う・・・、あ・・・」
「さあ、これを飲んで」
うめくグレゴールの口に小壜をあて、栄養剤をゆっくりと流し込んでいく。グレゴールは無意識に飲み込み、軽くむせた。
「気分はどうかしら?」
「うう・・・」
アイゼルの声に、グレゴールはうっすらと目を開いた。だが、目の焦点は合わず、ぼんやりと宙に視線をさまよわせるばかりだ。自分がどんな状態にあるのかもわかってはいないのだろう。
「グレゴールさん」
アイゼルは、優しく声をかけ続ける。
ふと、グレゴールが首を回し、アイゼルの方を見た。濁っていた瞳の焦点が合い、大きく見開かれる。アイゼルは、ここぞと語りかけた。
「気がついて?」
だが、グレゴールの反応はかんばしくない。幾度かまばたきしたものの、再び目を閉じて眠りに落ちてしまう。
「グレゴールさん!」
アイゼルは声を強めて呼びかけた。グレゴールは、またうっすらと目を開いたが、視線はうつろに宙をさまよい、傍らのアイゼルを意識している様子はない。
「どうしたらいいのかしら?」
アイゼルは考え込んでしまった。こんな場合、師匠のヘルミーナなら問答無用で自白剤でも飲ませるところだろうが、アイゼルは自白剤など持っていないし、レシピも知らない。それに、これ以上、弱った病人を起こし続けるのも気の毒な気がする。
先ほど飲ませた栄養剤が効いたのか、グレゴールの呼吸は安定してきたようだ。ここは話を聞くのは諦めて、出直した方がいいだろう。もしかしたら、ブリギットがルディから、なにか有益な情報を引き出してくれているかもしれない。
アイゼルは退散しようとして、最後にグレゴールを見やる。すると、グレゴールが薄目を開けて、こちらをじっと見つめているのに気付いた。
「グレゴールさん?」
アイゼルの呼びかけに、グレゴールは目をそらすと、ひとりごとのようにつぶやいた。
「ちがう・・・。夢だ・・・。れんきん・・・、ここに、いるわけがない・・・」
言葉は切れ切れで、よくわからないが、どうやら錬金術士姿のアイゼルが目の前にいるのを見て、夢だと思い込んでいるらしい。
夢うつつにぼんやりとかぶりを振るグレゴールを見ているうちに、アイゼルはヘルミーナから聞いた話を思い出した。アカデミーの地下にある実験室で、師の怪しげな調合を手伝って――いや、手伝わされていたときの話である。
(いいかい、解毒剤や栄養剤の原料になる薬草には、心をリラックスさせる効果を持つ成分が含まれているものがある。この成分だけをうまく抽出して精製すれば、使い方によっては相手の心の壁を突き崩して、知らないうちに本心をしゃべらせる薬を創ることができるんだよ、ふふふふ。まあ、一種の自白剤と言ってもいいね。お酒を飲ませたのと同じで、相手はぼんやりして、いい気持ちになっているから、こちらの誘導尋問に従って、言わなくていいことをぺらぺらしゃべってしまうものさ。ふふふ、楽しみだねえ。これが完成すれば、イングリドのやつに飲ませて――)
結局、秘密主義のヘルミーナは、自白剤が完成したかどうかは教えてくれなかった。もしかすると、先ほど飲ませた栄養剤に含まれていたなんらかの成分が作用して、グレゴールはヘルミーナが言っていたような状態になっているのかもしれない。
(だとしたら・・・)
夢だと思わせたまま、質問してみよう。ダメでもともとだ。うまくいけば、グレゴールの身に何が起こったのか聞き出せるかもしれない。
「そう・・・。あなたの言うとおり、これは夢です。だから、何も怖いことはないわ」
アイゼルは、ゆりかごの赤ん坊に呼びかけるような口調で語りかけた。グレゴールはつぶやく。
「あ、ああ・・・。夢だ・・・」
「話を聞かせて。錬金術士とあなたの間に、何があったの?」
「錬金・・・、ああ、いやだ、錬金術士のせいで、ルディが・・・」
「錬金術士は、ルディさんになにか悪いことをしたの?」
「そう・・・じゃ、ない・・・。ルディが怒って・・・口をきいてくれない・・・。嫌われてしまった・・・もうダメだ」
酒場『泉亭』のゼムの話では、グレゴールが女性錬金術士と抱き合っているのをルディが目撃して、ふたりの間にいさかいが起き、グレゴールは『恋の病』で寝込んでしまったということだった。今のグレゴールの言葉どおりだとしたら、少なくともグレゴールが恋している相手が誰かは明らかである。
アイゼルは、優しく語りかける。
「かわいそうに・・・。だいじょうぶ、きっとうまくいくようになるわ」
「そう・・・かな?」
「だから、教えて。その錬金術士は、あなたに何をしたの?」
「あの日・・・。いつものように、ハチ小屋の番を・・・。錬金術服の女性が・・・、やって来た・・・。顔色が・・・ふらふらと・・・。よろめいて・・・、倒れそうになって・・・」
「助けようとしたのね?」
ゼムに聞いたとおりだ。
「ああ・・・、放っておけなかった・・・。近づいたとたん、音と・・・煙にまかれ・・・」
「音と、煙?」
「わからない・・・。頭の中に・・・、霧がかかった・・・ような・・・」
「それから? どうしたの?」
「覚えて・・・ない・・・」
「ええと・・・。じゃあ、覚えていることを話して」
「気がついたら・・・、ルディが、ひどく怒っていて・・・。何を言っても、信じてくれない・・・。全部、本当のことなのに・・・。ぼくは、もう・・・」
つぶやくように答えるグレゴールの頬を、涙の筋が伝った。顔が辛そうにゆがむ。
アイゼルは、いたたまれない気持ちだった。以前、ノルディスとエリーの仲を誤解して、卒業式の前日にアカデミーから逃げ出した記憶が心をよぎる。あのときの自分と同じように、グレゴールは深く傷つき、悲しんでいる。しかも、それは錬金術士のせいらしい――。
だが、胸にもやもやと渦巻く疑念を晴らすためには、これだけは確かめておかねばならない。
「最後に、聞かせて。あなたの前で倒れそうになった錬金術士は、どんな人だったの? 名前はわかる?」
「あれは・・・。髪飾りに、ローブ・・・」
これではわからない。錬金術士は、女性なら誰もが髪飾りとローブを身につけている。中には、エリーのように変てこな帽子をかぶっているのもいるが。
「他には? なにか特徴はなかった?」
「ハチミツの・・・。におい・・・よっ・・・」
栄養剤の効果が切れてきたのか、グレゴールの声はかすれてくぐもり、聞き取れないほど小さくなってきた。思わずアイゼルは身を乗り出し、グレゴールの口元に耳を近づける。
その瞬間、大きな音を立てて、ドアが開いた。

「な――何やってるの!?」
戸口に立ちすくみ、ルディはかん高い声で叫んだ。ピンクの錬金術服を着た女が、ベッドに寝ているグレゴールにおおいかぶさっている。ルディにはそう見えた。背後から、ブリギットとバルトロメウスが目を丸くして覗き込んでいる。
ルディの手から、ハチミツ入りアイスティーが入ったガラスの水差しが落ちた。床で砕け散る――と思った刹那、ブリギットがとっさに手を伸ばして受け止めた。鍛えられた武道家特有の反射神経とバランス感覚、腕力の賜物だろう。
アイゼルもはっと振り返ったが、一瞬で状況を見て取る。あわてた素振りを見せれば、新たな修羅場を招きかねない。とはいえ、グレゴールの自宅でふたりきりでいるのを目撃されただけで、十分にトラブルの火種になっているのだが。
「また――! 錬金術士なの!? グレゴールに、何を――!」
目をつり上げて詰め寄ろうとするルディに、アイゼルは事務的な落ち着いた口調で話しかけた。
「病人の具合は大丈夫です。熱もないし、疲れが溜まっているだけだと思います。薬を飲ませたから、何日か安静にしていれば、よくなるでしょう」
「へ?」
毒気を抜かれたように、ルディは立ち止まる。アイゼルは微笑んだ。
「酒場のゼムさんから、病人がいるから診てほしいと頼まれたの。今、耳を寄せて呼吸と心音を確かめていたところなのだけれど、異常はなかったわ」
厳密に言えば違うが、この程度の歪曲は方便として許されるだろう。
「そ、そうなの? ゼムさんが――」
雑貨屋の店内でブリギットと話をして、気分を落ち着けていたのが効を奏したのだろう。アイゼルの錬金術服を見て一度は頭に血が昇ったルディだが、相手の冷静な様子と説明に、なんとか落ち着きを取り戻す。
そのとき、騒ぎを聞きつけたのか、グレゴールがぼんやりと目を開いた。天上を見上げたまま、つぶやく。
「ルディの声がする・・・。ああ、そんなわけない・・・。これも、夢か・・・」
「いいえ、違うわ。ルディさんが、お見舞いに来てくれたのよ」
アイゼルが身を引き、ルディの通り道を空ける。ルディはベッドに駆け寄り、グレゴールを抱き起こした。
「グレゴール! こんなに痩せちゃって――! いったい何を食べてたのよ? もう、あたしがいないと、何にもできないんだから!」
「ル――ルディ!?」
栄養剤よりも何よりも、ルディの元気な声を聞くのがグレゴールには最高の良薬だったようだ。呼びかける言葉もしっかりしている。
アイゼルは、そっと戸口へあとずさった。
「おい、いったい、こりゃあ――」
「お話は、後にしましょう。これ以上お邪魔するのは野暮というものですわ」
問いただそうとするバルトロメウスを外へ追いやると、ブリギットも、ルディの愛情のこもったアイスティーの水差しを傍らのテーブルに置き、ドアから忍び出る。最後に出てきたアイゼルは、後ろ手にそっとドアを閉めると、大きく息をついた。
「ふう・・・。さっきはどうなることかと思ったわ」
「わたくしもです。まさか、アイゼルさんが――」
ブリギットは、なぜか頬を赤らめている。それに答えず、アイゼルはグレゴールの小屋を見やると、ほっとしたように言った。
「とにかく、グレゴールさんとルディさんの関係は、修復できたようね」
そして、ふたりの旅の仲間に顔を向ける。
「では、酒場へ戻って情報交換することにしましょうか。ヴィオラートたちの足取りはつかめたの?」
「いや、大したことはわからなかった。とにかく、ここにはいねえ。ルディさんたちの前で一騒ぎ起こした後、さっさと町を出て行ったそうだ。たぶん、テュルキス洞窟に向かったんだろうぜ」
バルトロメウスの答に、歩きながらアイゼルはうなずいた。
「そう。それじゃ、急いでテュルキス洞窟に向かいましょう」
少し考えて、ひとりごとのようにつぶやく。
「きっと、そこに騒ぎの張本人もいるわ。ここに連れてきて、ちゃんとルディさんとグレゴールさんに謝ってもらわなくては――錬金術士の名誉のためにもね」
バルトロメウスもブリギットも、勢い込んで言う。
「あ、ああ、そうだよな。ヴィオのやつ、とんでもないことをしやがって。兄貴として恥ずかしいぜ」
「ええ、本当に。ロードフリード様にも迷惑をかけていることでしょうし、ひとこと言ってやらないと、気が済みません」
「・・・・・・」
そんなふたりを尻目に、アイゼルは眉をひそめ、なにやらしきりに考え込んでいた。


ホーニヒドルフからテュルキス洞窟までは意外なほど近く、徒歩でも2日あまりで着く。
とはいえ、鬱蒼とした森の中をくねくねと抜ける街道は、ハーフェンからホーニヒドルフまでとはまったく違って、けもの道とさして変わりはない。馬車で通り抜けることなどもちろん無理だし、馬を連れていたとしても、下りて引いていかねばならず、かえって時間がかかる結果となる。
もちろん、普通の旅人なら、こんなところは通らない。凶悪な山賊たち出没するばかりでなく、周辺の森には凶暴なクマや魔物が潜んでいるからだ。通る者がいるとすれば、世間の裏街道で生きる盗賊や山賊か、そういう連中を討伐しようとする騎士たち、あるいはなにか特別の目的と決意を持っている旅人だけだ。
例えば、この3人のような――。
馬車をホーニヒドルフに残し、ブリギット、バルトロメウス、アイゼルの3人は、テュルキス洞窟を目指して森を西へと進んでいた。
テュルキス洞窟へ行ったことのあるアイゼルが先頭を切り、ブリギットを挟んでしんがりをバルトロメウスが務めている。もちろん、魔物や盗賊の襲撃に備えて、警戒は怠らない。
「おかしいわね・・・」
クマが飛び降りてくるのではないかと頭上に気を配りつつ、用心深く進んでいたアイゼルがつぶやいた。
「どうしたんですの、アイゼルさん」
「静かすぎるのよ、この森――」
アイゼルの声に、ブリギットはあらためて周囲を見回す。たしかに、ホーニヒドルフを出てから、魔物にも盗賊にも出会っていない。
「以前、ヴィオラートと来たときには、次から次へと魔物が襲ってくるし、洞窟に近づくと今度は盗賊団が波状攻撃を仕掛けてきたの。それなのに、今回はそんな気配が全然ない・・・。どう見ても、普通じゃないわ」
アイゼルは不安そうに眉をひそめる。
「なんだ、そんなことか。答は決まってるじゃねえか」
後ろからバルトロメウスが声をあげた。
「あいつらのせいだよ。ヴィオとロードフリードと、竜騎士のおっさんだろ?――あの3人が通って、この辺の魔物や盗賊どもを追い払っちまったに決まってる」
「あなたにしては、まともなお答えですわね」
ブリギットが振り返る。
「ロードフリード様ほどの強さがあれば、そのくらいのことがあっても、おかしくありません。もちろん、竜騎士さんとヴィオラートも実力者ですし」
「だったら、いいのだけれど――」
「ほら、よく言うだろ? あいつらが通った後は、ペンペン草も生えねえのさ」
「その例えは、ちょっとばかり気に入りませんわね」
ブリギットとバルトロメウスが言い合うのを聞きながら、アイゼルは前方を透かし見た。けもの道は登り勾配になり、いっそう深くなった繁みの向こうへ消えている。記憶が確かなら、あの木々を抜けた先で森は途切れ、むき出しになった広場の反対側の岩壁にテュルキス洞窟がぽっかりと口を開けているはずだ。
「とにかく、先へ進みましょう。もうすぐ洞窟よ」
踏み出そうとしたとき、大地が揺れた。
「な、なんだ!?」
「地震ですわ!」
雷鳴にも似た地鳴りがごろごろと響き、大気がびりびりと震える。
「とにかく、広場へ――!」
不吉な予感をおぼえたアイゼルは叫ぶと、手近な木の幹で身を支えつつ、前方へ急ぐ。
藪をかきわけ、薄暗い森から開けた空間へ出ると、日に照らされた広場の向こうに、黒々とした半円形の岩穴が見えた。
「見えたわ! あれがテュルキス洞窟ですのね」
ブリギットが声をあげるのと同時に、ふたたび低周波の振動が大地を揺らした。バルトロメウスが叫ぶ。
「おい! なんだ、ありゃあ!?」
洞窟の奥の暗闇で赤い光が閃き、轟音とともに真っ黒な煙がもくもくと噴き出してきた。


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