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恋のアトリエ・ドミノ Vol.12


第12章 第二の物語(5)

「気をつけて、帰ってくださいね、クラーラさん」
「ええ、ありがとう。ヴィオも気をつけてね」
酒場『渡り鳥亭』の前でクラーラたちの見送りを受けたヴィオラートは、ロードフリード、ローラントと共にハーフェンの北門へ向かった。
「やれやれだな。クラーラさんを無事にカロッテ村まで送り届ける手筈もついたし」
「ええ、さっきディアーナさんがカロッテ村からの手紙を持ってきた時には、どうなるかと思いましたけど」
ほっとした表情のロードフリードに、ヴィオラートがにこやかに答える。先頭を行くローラントも振り返って、うなずいた。
「ああ、あのふたりがついていれば、まず大丈夫だ。ダスティンは見かけ通り、腕っ節があって頼りになる。グレールも一見お調子者に見えるが、いざという時は落ち着いて行動できる男気のあるやつだ。それに、盗賊団が剣呑な動きをしているという情報は、交易ギルドにも入っていると思う。おそらく、自主的に腕の立つ護衛を雇って、乗合馬車の守りを強化しているだろう」
「あ、でも――」
ヴィオラートはふと立ち止まると、あごに指を当て、上目遣いで考え込む。
「もしかするとクラーラさん、『帰りたくない』って、駄々をこねたりして」
「あはは、まさか」
ロードフリードは笑って聞き流した。いかに思慮深いロードフリードとはいえ、予知能力者ではないから、その後のドタバタを予測できなかったとしても仕方がない。
北門の外へ出ると、騎士精錬所の制服を着た、ヴィオラートよりもはるかに年下に見える少年が、2頭の馬を引いて待っていた。
ロードフリードは、顔をほころばせた。数年前は自分も同じ制服を着て、厳しい訓練を受けていた。精錬所の少年たちは、剣や戦術の訓練ばかりでなく、先輩竜騎士の身の回りの世話などもさせられる。おそらく、この少年はローラント付きの見習い騎士なのだろう。
「中隊長殿」
ボーイソプラノが震える。騎士見習いの少年は、ありありと緊張の色がうかがえる、しゃちほこばった態度で敬礼した。ローラント付きになって、まだ間がないのかもしれない。彼から見れば、ドラグーンの幹部で中隊長のローラントは雲の上の人なのだろう。後ろにいるロードフリードとヴィオラートの姿など、目に入っていないに違いない。
「うむ、ご苦労。帰ってゆっくり休め」
「はい、では、失礼します」
ふたたび敬礼すると、少年は直立不動のまま回れ右をし、背筋を無理やりにぴんと伸ばしたようなぎこちない動きで歩み去っていった。竜騎士幹部の存在感を、背中でひしひしと感じ取っているのだろう。もちろん、意識しているのは本人だけなのだが。
その背中に優しげな眼差しを向け、ロードフリードがつぶやいた。
「懐かしいな・・・」
「ふふふ、精錬所時代を思い出したか」
馬の鞍の状態を確かめながら、ローラントがからかうような口調で声をかける。
「ええ、まあ」
ロードフリードの返事に、物珍しそうに少年の姿を見送っていたヴィオラートがうなずいた。
「あ、そうか。ロードフリードさんも騎士精錬所にいたんですよね。あんな感じだったんですか?」
「ああ、そうだね。周りは厳しい先輩ばかりだったから、いつも緊張していたよ」
「へえ、大変だったんですね」
「そいつの言うことを真に受けてはいかんぞ」
笑いながらローラントが言う。
「なんと言っても、ロードフリードは、真夜中に精錬所の寮を抜け出して酒場へ行った最年少記録の持ち主なのだからな。入所した最初の週に、やってのけおった」
「へ? そうなんですか」
ヴィオラートが目を丸くする。ロードフリードは照れたように笑って、
「いや、だって、怖い大先輩の命令だったから、逆らうわけにはいかなくてさ」
「先輩の?」
「ああ、騎士精錬所の伝統なのだ」
ヴィオラートの質問に、ローラントが答える。
「新入りの騎士見習いに、無理難題を押し付けて度胸を試すのが、ドラグーン流の歓迎の儀式だ。たいていのやつは、怖気づいて何もできないものだが、こいつは違った」
感心したようにロードフリードを見て、
「閉店間際の酒場へ行って、ドラグーンの幹部がキープしている極上ブランデーのボトルをちょろまかして来いという指示だった。並の神経と常識の持ち主だったら、間違いなく二の足を踏む。他の新人は、当然、降参した。ところがロードフリードときたら、黙って出て行くと、一刻後には副隊長の署名が入ったまっさらなボトルを持って、涼しい顔で戻って来おった」
「へえ、すごいですね。どうやったんですか」
ロードフリードは涼しい顔で答える。
「簡単なことだよ。先輩に指示された酒場へ行ったら、ちょうど当時のドラグーンのゲオルグ副隊長がテーブルで飲んでいたんだ。もちろん、夜間外出を咎められて、理由を質問されたよ。それで、先輩の命令を正直に伝えたら、笑って新品のボトルを持たせてくれたんだ」
「話を聞いて、青くなったのはこっちだ。後で副隊長からたっぷり絞られたよ」
ローラントが苦笑する。
「あ、もしかして、その無理難題を命令した先輩って――」
はっとしたようにローラントに顔を向けるヴィオラートに、ロードフリードは笑って、
「そう、ローラントさんだよ。指導教官として、精錬所に泊り込んでおられたんだ」
「それがきっかけで、俺たちばかりかドラグーンの上層部も、王国の片田舎からやって来たロードフリード少年に注目するようになった。その後の成長も活躍ぶりも、期待に違うものではなかった。文武に秀でているし、判断力も決断力もある。人あしらいもうまい。将来の幹部候補は約束されたようなものだったのだ」
無念そうな響きをにじませながら、ローラントは思い出話を続ける。ロードフリードは、髪をかき上げる振りをして目をそらした。
「なのに、ある日突然、『騎士隊を辞めて村へ帰ります』だからな。一体、カロッテ村に、ハーフェンの繁栄やドラグーンの栄誉に優る何があるのかと不思議だったのだが・・・。実際にカロッテ村へ行ってみて、わかった気がする。私が思うには、やはり――」
なおも何か言おうとしたローラントだが、思い直したように口をつぐんだ。手綱に手をかけ、話題を変える。
「残念ながら、馬は2頭しか手配できなかった。済まないが、ヴィオラートには二人乗りで辛抱してもらわねばならない」
済まなそうに言うローラントに、ヴィオラートはにっこり笑って答える。
「そんな、あたしたちが無理を言ったんですから、気にしないでください。最初から、歩いてホーニヒドルフへ行くつもりだったんですし。ね、ロードフリードさん」
ヴィオラートに振り仰がれたロードフリードも、にこやかに言う。
「ええ、ヴィオは俺の後ろに乗せていきますよ。小さい頃から、ポニーの二人乗りをしていましたし、慣れています」
「そうか・・・。お前たちは幼馴染だったのだな」
ローラントは感慨深げにうなずくと、がっしりした身体に似合わない軽やかな動きで、ひらりと軍馬にまたがった。
「だが、ロードフリードだけに苦労はさせぬ。途中、交替しながら行くとしよう」
「わかりました」
既に馬上にいるロードフリードは、そう答えて、ヴィオラートに手を差し伸べる。引き上げようとして、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「おや、ヴィオ、ちょっと成長したんじゃないか?」
「あーっ、それって、もしかして、太ったってことですか」
ヴィオラートはふくれた顔をして見せるが、目は笑っている。
「でも、それは馬に乗っても安定がいいってことですよね」
「ははは、とにかく、山道を飛ばすことになるから、かなり揺れるぞ。落ちないようにしっかりつかまっているんだよ」
「はい!」
馬の背に腰を落ち着かせると、ヴィオラートはロードフリードの広い背中に腕を回し、ぎゅっとしがみついた。
その様子をじっと見ていたローラントは、右手をかざし、前方へ振り下ろす。
「では、出発! 目標、テュルキス洞窟!」
たくましい2騎の軍馬は、上り勾配の狭い街道へ向けて、走り出した。

いかに鍛えられたドラグーンの馬とはいえ、昼夜兼行で走らせても、目的地のテュルキス洞窟まで数日はかかる。途中で水と飼葉を与え、休ませなければならないし、乗っている人間も休憩をとらなくてはならない。
昼前にハーフェンを出発した一行は、数刻後に街道脇の休憩所で小休止し、そこからヴィオラートはローラントの騎馬に乗り移った。
「しっかりつかまっているんだぞ」
「はい、よろしくお願いします」
ローラントの言葉に、ヴィオラートはロードフリードの時に同じように両腕を回した。
街道はさらに険しくなり、馬の揺れも激しくなる。ヴィオラートは、ローラントの背中にしっかりと身を寄せた。乗馬中は竜騎士の鎧を身に着けていないとはいえ、スリムなロードフリードに比べると、ローラントの筋肉質の身体はがっしりと巖のようだ。いきおい、身体を安定させようとして腕を回すと、上半身が密着する形になる。ローラントが居心地悪そうに身じろぎした。
「ええと、その――」
「はい? 何ですか?」
口を開くためにあごをそらすと、反動で上半身がさらに密着する。正面を向いて馬を走らせたまま、ローラントは答えた。
「いや、何でもない。上りがきつくなるぞ、油断するな」
「はい!」
その後は、ローラントは黙々と馬を飛ばし続けた。


日が傾き、西のゾラ山脈の山の端に沈もうとする頃、一行は街道脇の森へ馬を乗り入れた。ハーフェンからホーニヒドルフへの、ほぼ中間地点だ。近くには宿屋も民家もなく、今夜はここでキャンプすることになる。ヴィオラートと共に馬を下りると、ローラントはややほっとしたような表情になった。ロードフリードをうながして、キャンプに適した場所を探す。
森の中の、やや開けた場所に馬をつなぐと、3人はてきぱきとキャンプの準備を始める。ローラントとロードフリードは、竜騎士として野営訓練を十分に受けているし、ふたりには劣るものの、ヴィオラートも実体験は積んでいる。
まず、周囲に野獣や魔物などの危険が潜んでいないか確かめる必要がある。もちろん、盗賊団が隠れているかもしれないので、そちらへの警戒も怠らない。そうやって周囲を探索するついでに、水場の確認やたきぎ集めも行えば効率的だ。
「うん? これは――?」
先頭に立っていたローラントが、足を止めた。傍らの大木の幹と、草におおわれた地面を見比べている。ヴィオラートも近づいて覗き込む。
「獣の痕跡ですか?」
ロードフリードは質問はしたが、数歩後ろに離れたまま、あたりに気を配っている。ドラグーンの訓練のおかげで、同時に同じものに注意を向けることはない。例えば、森の中で見かけた一匹の毒蛇に集中しすぎると、別の毒蛇への注意がおろそかになり、背後から襲われることになる。騎士精錬所の野営訓練では、このような鉄則を徹底的に叩き込まれるのだ。
「うわ〜、大きいですね」
ヴィオラートが見つめる木の幹には、真新しい獣の爪跡がくっきりと刻まれている。下生えにも、ところどころに踏み荒らされたような跡が残っている。
「このあたりは、クーゲルベアの生息地だが、この大きさとなると、もしかすると――」
「ヤクトベアかも知れませんね」
ヤクトベアは、ホーニヒドルフのさらに奥地、ゾラ山脈にかけての深い森の中に生息する巨大なクマだ。凶暴な性格と怪力から、冒険者や旅人に恐れられている。人里近くに住むクーゲルベアの数倍の巨体にもかかわらず、大木に登るという身軽さも持ち、不意に頭上から襲い掛かってくることも多い。
「まさか、このような低地にまで下りてきているとは・・・。盗賊どもの行動とも関連しているのだろうか」
「気をつけないといけませんね」
懸念をにじませるローラントとは裏腹に、ヴィオラートにはあまり動じた様子はない。材料採取の旅の途中にヤクトベアと戦った回数では、ベテランの竜騎士にも匹敵するヴィオラートである。
「ふむ、誘い出してみるか」
頭上を見上げ、意を決したようにローラントが言う。密生した葉叢の中にヤクトベアが潜んでいるとすれば、幹に衝撃を与えれば落ちてくる可能性が高い。枝に引っかかっているアイテムを落とそうとして巨木の幹を叩いたところ、アイテムの代わりにヤクトベアが落ちてきたという経験を、ヴィオラートは何度もしている。
ローラントが長剣をすらりと引き抜き、側面を幹に叩きつけようとしたとき、ロードフリードが警告の声をあげた。
「待ってください! 前方にクーゲルベア!」
目を向ければ、たしかにロードフリードの言葉どおり、前方の藪ががさがさと音を立てて動き、濃褐色の毛でおおわれた獣の頭部が顔を覗かせた。クーゲルベアは年齢によって毛の色が異なり、幼獣に近ければピンクがかった淡い色合いだが、歳を経るほど褐色の度合が強まってくる。つまり、今、目の前にいるのは、かなりの年月を生き抜いてきたしたたかな成獣であり、それだけ手強いということだ。
だが、百戦錬磨の竜騎士ローラントには、油断も驕りもない。
「よし、ここは私に任せろ。ヴィオラートは下がれ。ロードフリードは援護を! 後方の警戒も怠るな!」
手馴れた様子で命令を下すと、長剣を構えなおし、クマをにらみつける。クーゲルベアも人間に気付いたらしく、威嚇のうなり声を上げ、ずっしりとした身体を藪から現そうとしている。のっそりとした動きに見えるが、一瞬にして襲い掛ってくる瞬発力はすさまじい。
「了解」
「は〜い」
ローラントの指示に、ロードフリードはいつもながら冷静に答える。ヴィオラートの返事は、自分も戦いたいのにとでも言いたげに、不満の響きがある。
「行くぞ!」
ローラントは雄叫びをあげて、今や全身を現したクーゲルベアに突進する。クマが人間のように上半身を起こし、強力な前足で殴りつけようと振り上げた瞬間、一気に間合いを詰めたローラントは下段に構えた長剣を一気に斜め上に薙ぎ上げた。そのまま勢いに乗って駆け抜け、十分に間合いを取って足を止める。手応えを確信して剣を鞘に収めながら、渋い声音でローラントはつぶやく。
「また、つまらぬものを切ったか・・・」
その瞬間、クーゲルベアの身体が地響きを立てて崩れ落ちた。
「さすがですね」
ローラントの実力を知っているロードフリードは、さほど驚いた様子もなく声をかけた。先輩騎士の自己陶酔のつぶやきに関しては、賢明にもコメントを避ける。ヴィオラートは、倒れたクマの毛皮の間から極上のハチの巣を見つけて歓声を上げている。
「うむ、今のは、かなりうまく決まったな」
子供のように瞳を輝かせてローラントは答える。だが、笑みはすぐに消えた。
目と鼻の先の藪から、別のうなり声が聞こえてきたのだ。それも複数だ。
「仲間がいたようですね」
「うむ、止むを得ん、やるぞ」
うなずき合うと、ふたりは剣を抜いた。すぐに藪をかき分け、数頭のクーゲルベアが現れる。毛皮の色は先ほどの一頭よりも薄い。おそらく、先ほどの個体が群れのボスだったのだろう。
「あ、あたしも――」
杖を構えて駆けつけようとするヴィオラートを、ロードフリードがやんわりと抑える。
「ヴィオ、ここは俺たちドラグーンの腕前を見ててくれよ」
「そう、女性を危険な目に遭わせぬのも竜騎士の務めだ」
「ぶー」
ヴィオラートは引き下がったが、ローブの陰で油断なく爆弾や毒薬の小瓶をまさぐっている。
のっそりと進んできたクーゲルベアが、一気に加速して突進してきた。前足の一撃を受け止めたロードフリードは、そのまま身を反転させて背後から突きを見舞う。致命傷を負ったクマは勢い余って大木の幹に激突する。目もくれず、ローラントとロードフリードは残りの二頭に突進した。
勝負は一瞬でつく。それぞれの剣の一撃で、クーゲルベアの群れは全滅した。
「きゃああっ!」
同時に、背後で無数の枝が折れる大きな音が響き、ヴィオラートの驚きの叫びと交じり合った。
剣を収め、自信に満ちた表情で振り返ったローラントが凍りついた。
白銀のような毛皮に覆われた巨大な獣が、ヴィオラートのすぐそばに立ちはだかっている。数歩で届く距離だ。
ロードフリードの攻撃で吹っ飛ばされたクーゲルベアが激突した衝撃で、頭上の巨木の枝に潜んでいたヤクトベアが落ちてきたのだ。よく見れば、片目はつぶれ、毛皮のあちこちに古傷の痕が残っている。すさまじい野性の戦いをしたたかに生き延びてきた証拠だ。だが、ヴィオラートと同様、突然のことに驚いているのか、戦闘態勢はとっていない。
「ヴィオ!」
ロードフリードが叫ぶ。
「逃げろ!」
ローラントも呼びかけると、あわてて剣に手をかけ、駆け寄って行く。
ヤクトベアとヴィオラートの反応は、ほぼ同時だった。
巨大なクマが雄叫びをあげて丸太のような前足を振り上げるのと同時に、「えい!」という声とともにヴィオラートの手からガラスの小瓶が飛ぶ。ヴィオラートに向かって踏み出したヤクトベアの眼前で、ガラス瓶が砕け散った。中身の液体が霧のようにヤクトベアの頭部を包むが、クマの勢いは衰えない。大木をもなぎ倒す鋭いカギ爪が振り下ろされ、ヴィオラートを襲った。
「危ない!」
突っ込むローラントも間に合わない。ヴィオラートは杖で受け流すようにしてヤクトベアの一撃を受ける。
「きゃあっ!」
かすった程度だったが、体重の軽いヴィオラートはふんばれずに吹っ飛び、草むらに倒れこむ。勝ち誇ったような雄叫びとともに、ヤクトベアは前進し、再び強烈な一撃を加えようと迫る。ヴィオラートは、ようやく杖を支えに起き上がろうとしているところだ。
そこへ、蒼い稲妻となってローラントが突っ込んできた。
「指一本、触れさせん!」
身体ごとぶつかってきたローラントの剣先が、ヤクトベアの脇腹をえぐる。しかし、あわてていたせいか、急所を外してしまった。勢い余ったローラントはもんどりうって向かいの藪に倒れこむ。
ヤクトベアは、そのままヴィオラートに向かって突進した。
「ヴィオ!」
ロードフリードが駆けつけるが、間に合わない。
ところが、今にもカギ爪を振り下ろそうとしたところで、ヤクトベアの動きが鈍った。周囲の空気が急に重くなったかのように、ぎこちなく身を泳がせる。
その隙にヴィオラートは飛び退ると、杖を構えなおした。
「エンゲルスピリット!」
振り下ろした杖から発した目に見えない精神の波動が、渦巻いてヤクトベアの頭部を襲う。アポステルなど魔力を持つ怪物とは異なり、巨大でも単なる野獣のクマは精神攻撃に弱い。先ほどヴィオラートが投げつけた『貴族のたしなみ』の麻痺効果と相まって、クマの巨体がふらつく。
そこへ、ロードフリードが追いついてきた。一瞬のうちに、ヤクトベアとヴィオラート、ローラントとの位置関係を見てとる。
「てやあっ!」
正眼に構えた剣をそのまま振り上げ、飛び上がりざま全体重を乗せてヤクトベアの首筋に打ち下ろす。
一回転して草むらに下り立ち、素早く起き上がって、ロードフリードは剣を構えなおす。そのときには、ヤクトベアの巨体は大地を揺るがして倒れていた。
「やったあ! ロードフリードさん、すごいすごい!」
ヴィオラートが歓声をあげる。ロードフリードは油断なく、倒れたクマに止めを刺すと、長剣の血をぬぐって鞘に収めた。
「いや、ヴィオがダメージを与えてくれていたおかげだよ。動きが止まっていたから、鍛錬用の人形を攻撃するのと変わりなかった」
息ひとつ切らさず、ロードフリードは涼しい表情で答えた。頼もしそうに見上げていたヴィオラートだが、ふと気付いて素っ頓狂な声をあげる。
「そうだ、ローラントさんは?」
「大丈夫ですか、ローラントさん」
ロードフリードも、ローラントが倒れこんだ藪に近づく。当のローラントは、枯葉と小枝にまみれた姿で、剣を支えに立ち上がろうとしているところだった。
「ローラントさん」
心配そうに覗き込んだヴィオラートを、ローラントは厳しい表情でにらんだ。
「ばか者! なぜ逃げなかったのだ!?」
「へ?」
いきなり怒鳴りつけられて、ヴィオラートはきょとんとする。ロードフリードも、先輩竜騎士の激しい言葉に驚いたようだ。
「ローラントさん、そこまで言わなくても――」
だが、ローラントは収まらない。
「ヤクトベアの一撃をまともにくらったら、どうなったと思っている!? 命に関わるけがをしていたかも知れないのだぞ!」
ヴィオラートがおずおずと口を開く。
「ええと、あの時は、『貴族のたしなみ』ですぐに麻痺させられると思っていたんですけど、ちょっと効き目が悪かったみたいで・・・」
「だから油断するなと言うのだ! 実戦では理屈が通用しないのが当たり前なのだからな」
腹立たしげにローランドは言い捨てる。
「ローラントさん――」
口を挟もうとするロードフリードを制して、ヴィオラートはぴょこんと頭を下げた。
「そうですね。軽率なことをしてごめんなさい。以降、気をつけます」
ローラントは一瞬、複雑な表情をしてヴィオラートを見つめた。
「うむ、わかればいい」
そして、くるりと背を向ける。
「――もう、このあたりに危険はあるまい。キャンプに戻るぞ」
すたすたと先に立って歩いていくローラントの背中を見やり、ロードフリードとヴィオラートは首をかしげて顔を見合わせた。


キャンプの夜は更けていった。
天候は晴れで、頭上には星空が広がっているはずだが、重なり合った木々の枝葉にさえぎられて、見ることはできない。夜風にそよぐ葉ずれのささやき、夜鳥のかすかな羽ばたき、下生えから聞こえてくる虫の声、たき火の枯れ木が時おりはぜる乾いた音――夜の森は様々な音に満ちているが、それは夜が平穏な証拠でもある。
ヴィオラートは、すでに大木の根方で――もちろん頭上にクマがいないことは確かめてある――毛布にくるまり、すやすやと寝息を立てている。
(どこでもぐっすり眠れるのは冒険者向きだな・・・)
ヴィオラートの寝姿を振り返り、ロードフリードは思った。たき火を挟んで、揺れるオレンジ色の炎をじっと覗き込んでいるローラントに目を向ける。ロードフリードの視線は、気遣わしげだ。
今日のローラントは、どこかおかしい。
あのヤクトベアとの戦いでも、ロードフリードが見る限り、ヴィオラートは大きな危険にさらされているわけではなかった。距離もあったし、冷静に相手の出方を見ながら行動しており、あわててもいなかった。クマの一撃を杖で受けて草むらへ吹っ飛んだのも、へたに踏ん張ればかえって無理な力がかかり、けがをすることになるからだ。ヴィオラートと何度も冒険を重ねてきたロードフリードには、それがよくわかった。もっとも、騎士精錬所で培われた、戦況を冷静に分析する目があれば、ともに戦った経験が乏しくてもわかるはずである――ローラントのようなベテランの竜騎士なら、特にだ。
だが、あの時のローラントは、明らかに冷静さを欠いていた。闇雲に突っ込んで行き、狙いをはずしたのも体勢を崩したのも、いつものローラントにはそぐわない。ヴィオラートを怒鳴りつけたのも、ロードフリードがよく知っている竜騎士の大先輩らしくない、感情的な振る舞いだった。
夕食の際も、ローラントはむっつりと黙り込んだままで、ロードフリードが気を遣って話しかけてもろくに返事もしなかった。ヴィオラートが特製のにんじんスープの味を尋ねたときだけは、ぶっきらぼうに「美味い」と答え、お代わりを黙々とかき込んでいたが、笑顔ひとつ見せることはなかった。
食事の後、男ふたりが交替で寝ずの番をすることになり、慣れない乗馬の疲れが出たらしいヴィオラートは、おとなしく先にやすんだ。順番では先に眠ることになっていたロードフリードだが、ローラントのことが気になり、まだ眠くない振りをして、たき火の傍らに居残っていた。
ローラントはロードフリードの視線にも気付かないかのように、黙りこくったまま炎を見つめ、時おり枯れ枝を投げ込むみ、火をかきおこす。
先ほどからロードフリードは口を開こうとしているのだが、この場にふさわしい言葉がなかなか出てこない。今回のテュルキス洞窟探索のリーダーは、紛れもなくローラントだ。そのリーダーが、なんらかの理由で正常な判断や行動ができなくなっているとしたら、パーティー全体の安全のためにも、早めに手を打っておかなければならない。原因を突き止めて是正するか、場合によってはローラントを説得して自分が代わりに指揮を執る必要も出てくるかもしれない。
だが、どのようにしてローラントに切り出せばよいものか。
(ローラントさん、どこか具合でも悪いのですか?)
(今日のローラントさん、ちょっと変でしたよ)
(無理しすぎじゃないですか?)
どの問いかけも、しっくり来ない。目を伏せて考え込んでいたロードフリードは、ふと気配を感じて目を上げた。ローラントの端正な顔が、炎越しにこちらを見つめている。
「ローラントさん・・・」
ローラントの目は、いつも通りの厳しく冷徹な光をたたえている。ドラグーンの中隊長として、常に冷静でいなければならないため、自然に身についた態度だ。だが、ゆらめく炎を映した瞳には、苦笑めいたものが浮かんでいた。
「済まぬな、ロードフリード。要らぬ気遣いをさせてしまったようだ」
「ローラントさん」
ロードフリードの眼差しに応え、ローラントはかすかに首を縦に振ると、自分に言い聞かせるように口を開く。
「夕方は、竜騎士にあるまじき短慮な行動をしてしまった。言い訳はできぬ」
そうか、さすがはローラント、ちゃんと自覚していたのだ――ロードフリードは安堵した。
だが、どうして――?
その疑問もあるが、さらにロードフリードには納得できないことがあった。腹立たしい気持ちを抑えられず、思わず口に出してしまう。
「謝る相手が違うんじゃないですか、ローラントさん」
返事を待たず、さらに言い募る。
「詫びるなら、俺ではなく、ヴィオに謝るべきでしょう。あんな風に頭ごなしに怒鳴ることはなかったはずです。ヴィオは精錬所に入りたての未熟な騎士見習いではありません。若いけれど、経験を積んだ一人前の冒険者です。彼女の行動に、落ち度があったとは思えません」
「うむ・・・。その通りだ」
ローラントは素直にうなずく。気のせいか、普段に比べて口調も弱々しい。たき火の炎が届くか届かないかのところでぐっすり眠っているヴィオラートをちらりと見やると、ロードフリードに顔を向け、
「夕食の間も、何度も謝ろうと思っていた。だが――」
言葉を切り、目を伏せる。ロードフリードは黙って言葉を待つ。
やがて、意を決したように、ローラントは口を開いた。
「私は・・・。彼女を前にして、まともにしゃべる自信がなかったのだ。だから、詫びの言葉を口にできなかった」
「は?」
ロードフリードが目をむく。先輩竜騎士が何を言っているのか、うまく理解できない。
「ロードフリード・・・。貴様を男と見込んでの頼みだ。これから話すことは、ここだけの、我々だけのことにとどめておいてほしい」
真剣な口調で、ローラントは言う。ロードフリードは、気迫に押されたようにうなずいた。普段はロードフリードのことを気安く『お前』と呼ぶローラントが、『貴様』という呼びかけを使っている。それだけでも、尋常ではない。
「では、訊くが――」
ローラントは一瞬、ためらいの表情を浮かべたが、思い切ったように言葉を吐き出す。
「貴様とヴィオラート嬢とは、将来を誓い合っているのか?」
「へ?」
思わずロードフリードは間の抜けた声を出す。そのまま絶句して、ローラントの顔を見つめた。
「私は真剣に尋ねているのだ!」
相手がごまかそうとしたと思ったのか、ローラントの口調が激しいものになった。ロードフリードは降参したように両手を肩の位置まで上げたが、表情を引き締めて真面目に答える。
「いえ、俺とヴィオは、ただの幼馴染ですよ。妹みたいなものです」
それを聞いたローラントは、しばらく胡散臭げに黙りこくっていたが、やがて納得したようにうなずく。
「なるほど。お前たちは幼馴染だったのだな。だから、あれほどまでに自然に接し合っているというわけか」
「自然に――ですか?」
ローラントの質問の意図を得心できないまま、ロードフリードは問い返した。炎に照らされて、ローラントの頬が赤く染まっているように見える。迷いを振り捨てるように首をかすかに振ると、ローラントは目を上げてロードフリードを見つめた。
「気にならなかったのか、お前は?」
『貴様』が『お前』に戻り、ロードフリードはほっとして問い返す。
「は? 何がですか?」
「昼間、馬の後ろにヴィオラート嬢を乗せていたときのことだ」
口ごもり、再び意を決したように続ける。
「たしかに、落ちないようにしがみついていろと言ったのは私だ。しかし、あのようにぎゅっと抱きつかれるとな・・・。馬を操りながら、気になって仕方がなかった。情けないことだが、少年のようにどぎまぎしてしまった・・・」
「ああ、なるほど」
ロードフリードも、昼間のことを思い出した。ヴィオラートとふたり、たくましい軍馬の背に揺られていたときのことだ。豊かで柔らかな胸を背中に押しつけられて、幼馴染の意外な成長を感じたものだ。もちろん、子供の頃からバルトロメウスも含めて素っ裸で小川で水遊びをしていた間柄である。ローラントが口にしたような、居心地の悪い思いは一切感じなかった。
そのことを言うと、ローラントは、一方では納得したような、一方では疑り深そうな、複雑な表情を浮かべる。
「そうか・・・。幼馴染とは、そういうものなのだな」
ひとりごとを言うようにつぶやいて、ヴィオラートの寝姿をちらりと見やる。はっとして、すぐにロードフリードを振り返り、
「だが、誤解するな! 決して、ふしだらな気持ちを抱いたわけではないぞ!」
いや、誰もそんな非難はしていませんよ――と、ロードフリードは、むきになるローラントに言いたかったが、自制する。もしやと思い、別の質問をぶつけてみることにした。
「それでは、さっきヤクトベアと遭遇したときも、動揺が収まっていなかったというわけですか」
「うむ、竜騎士として恥ずかしいことだが――」
ローラントはうつむく。ロードフリードには、その姿が不思議に映った。
竜騎士隊ドラグーンといえば、カナーラント王国でエリート中のエリートだ。竜騎士というだけで、酒場の女給から貴族の令嬢まで、ハーフェンの妙齢の女性たちの憧れの的になる。本人にその気があれば、火遊びの相手にするにもきちんと身を固めるにも、選り取りみどりだといえる。ロードフリード自身は歳が若かったこともあり、そのような世界に深入りすることはなかったが、様々な先輩騎士の女性の扱いを見て、いろいろと学ぶところはあった。ローラントも決して堅物というわけではなく、それなりにハーフェンの女性たちの間で浮名を流していたはずである。
そのローラントが、まるで初めて恋をした純情な少年のように、あわてふためいているのだ。
「ローラントさん――」
落ち着いたロードフリードの声にうながされるように、ローラントは重い口を開く。
「あのとき――ヤクトベアがヴィオラート嬢に襲い掛かろうとしているのが目に飛び込んできた瞬間、冷静な判断ができなくなってしまった。わが身を捨ててでも、彼女を救わなければ――そう思って、後先考えずに飛び出してしまったのだ」
「・・・・・・」
黙って見つめているロードフリードをちらりと見て、ローラントの言葉は自嘲の色を帯びる。
「まったく、情けない話だ。攻撃に失敗して醜態をさらした上、お前たちがヤクトベアを倒してくれたというのに、頭に血が昇り、ヴィオラート嬢を怒鳴りつけてしまった」
「ローラントさん・・・」
「いや、何も言わないでくれ。本当に、どうかしてしまっていたのだ。ヴィオラート嬢が無事で、ほっとしたせいで、自制心が壊れてしまったのだと思う。心配のあまり、ああいうきつい言葉が出てしまったのだ。決して、悪意からではない」
「それは、わかっていますよ。俺もヴィオもね」
ロードフリードの慰めの言葉も耳に届いていないかのように、ローラントは半ば独白を続ける。
「数年前、ハーフェンで初めてヴィオラート嬢と知り合ってから、私は何度か護衛として旅を共にしてきた。当初は、竜騎士として市民を守らなければならないという義務感からだった。しかし、何度か冒険を共にするうち、かねてより問題視されていた魔物を退治するなど、輝かしい戦果も上げられるようになり、ドラグーン内での私の評価も高まった。標準よりかなり早く中隊長に昇進できたのも、半分はヴィオラート嬢のおかげだと思っている。彼女には、いくら感謝してもしきれない気持ちでいる。だが、それだけではない・・・」
「ヴィオのことが、好きなんですね・・・」
ロードフリードは、あっさりと言った。ローラントははっと顔を上げ、ロードフリードを見つめる。顔が赤くなっているのは、炎の照り返しのせいだけではあるまい。
「何を言う! 違うぞ! さっきも言ったが、私はふしだらな気持ちなど持ってはおらん! ただ――。ヴィオラート嬢には危険なことをさせたくない、けがをしてほしくない、悲しい思いや辛い思いをしてほしくない、いつも幸せでいてほしい――そう願っているだけだ! それはお前も同じだろう!?」
「しっ! あまり大声を出すと、ヴィオが起きちゃいますよ」
ロードフリードは、笑い出しそうになるのをこらえながら、言った。まくしたてていたローラントも、あわてて口をつぐみ、おそるおそるヴィオラートが寝ている方を振り返る。背中を向けて毛布にくるまっているヴィオラートは、動く気配もない。
「わ――私は、ヴィオラートを大切に思っているだけだ。ホレタハレタとは関係ない!」
大真面目な顔で言うローラントに、ロードフリードは苦笑しながらポイントを突く。
「そういう気持ちを、“好き”って言うんですよ」
「そ――そうなのか」
ロードフリードは、ふと思い当たった。ローラントは、貴族の女性や酒場の女性を相手にした恋愛ゲームには手馴れているが、それ以外の経験は浅いのではないだろうか。
「俺だって、ヴィオのことは好きですからね」
ロードフリードはさらりと言った。少なくとも、妹のようなヴィオラートの幸福を願う気持ちは、誰にも負けないと思っている。
「そうか・・・。では――」
真剣なローラントの口調に、ライバル宣言でもされるのではないかと思ったが、違っていた。
「では、共にしっかりとヴィオラート嬢をお守りするとしよう」
心の内を吐き出してすっきりしたのか、ローラントはいつもの冷静なドラグーン幹部の表情に戻っている。ロードフリードも内心ほっとした。
そのとき、かすかな声が耳に届いた。
ふたりとも、はっとして闇を見透かす。かぼそい声は、ヴィオラートが眠っている場所から聞こえてきた。
うなずき合うと、油断なく剣をとって、ヴィオラートに近づく。
「ヴィオ? どうした?」
覗き込んだロードフリードに、ヴィオラートのせつなげな声が突き刺さる。
「ダメぇ、お兄ちゃん・・・。そんなことしちゃ――」
「何だ、寝言か?」
特に異変がないことがわかり、ローラントはほっと息をつく。だが、寝言の内容は、どうやら聞き捨てならない。
苦しげに寝返りをうち、ヴィオラートの顔がたき火の方を向く。炎に浮かび上がった表情が哀しげに歪んでいる。
「いやぁ!! やめてぇ、お兄ちゃぁあん!!」
「ヴィオ!」
ロードフリードは、思わず声をかけ、肩に手を当てて揺り起こした。ローラントも心配げに覗き込む。
「“お兄ちゃん”というのは、あのバルトロメウスとかいう男のことか。体格はいいが、粗野で礼儀知らずなやつだと思っていたが、まさか――」
ローラントは剣呑な表情を浮かべる。
「ヴィオ、起きるんだ、ヴィオ」
「・・・あれ? ここ、どこ?」
ヴィオラートはぼんやりと目を開き、つぶやいた。
「目が覚めたかい、ヴィオ。うなされていたんだよ」
ロードフリードが優しく声をかける。押しのけるようにしたローラントが、かみつくように言う。
「兄に何をされたのだ!? 場合によっては――」
「ああ、お兄ちゃんが・・・」
ヴィオラートは、不意に悲しそうな表情になった。涙まで浮かんでいる。
いったい、血を分けた兄にどんな理不尽な仕打ちを受けたのか。夢に見るほどの苦しい記憶なのか――。ローラントは、胸が張り裂けそうになる。
ヴィオラートは、絞り出すように訴えた。
「あたしが大事にとっておいたチーズケーキを、お兄ちゃんが勝手に食べちゃったんです。しかも、あたしに見せびらかしながら・・・。『やめて』って必死に止めたのに――あれ、どうしたんですか、ローラントさん? 変な顔して」
こらえきれず、ロードフリードは吹き出した。


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