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恋のアトリエ・ドミノ Vol.2


第2章 第三の物語(1)

相も変わらず、カロッテ村は平穏だった。
共同井戸の近くの陽だまりでは野良猫がのんびりと昼寝をし、すぐそばでは大胆なニワトリが地面をつつきまわって餌をあさっている。昼間から営業している酒場『月光亭』からは、早くもいい具合にでき上がった中年男性がふらふらと出てきて、上機嫌で鼻歌を歌いながら千鳥足で歩いている。今のカロッテ村を象徴するような、緩やかな時の流れを感じさせるのどかな風景だ。
そこに突然、一陣の嵐が乱入してきた。
「もう! いったいどうなっているの!?」
目をつり上げ、口をへの字に引き結んだブリギットは、行く手にあるものをすべて跳ね飛ばしてしまいそうなものすごい勢いで、共同井戸のそばを疾風のように通り過ぎる。殺気立つブリギットの様子に、野良猫は毛を逆立てて飛びのくと背を丸めてうなり、ニワトリは羽根をばたつかせて一目散に逃れる。一杯機嫌でふらついていた酔っ払い男性は、避けようとして足をもつれさせ、持ち帰り自由のにんじんの山の中に頭から倒れこむ。ブリギットは見向きもせず、ヴィオラーデンのドアに向かってつかつかと大またで突き進んでいく。
ヴィオラーデンの店内は、先ほどまでの表の風景と同様、のんべんだらりとしたものだった。
レジカウンターの後ろで、バルトロメウスは椅子にもたれ、うとうととまどろんでいた。ヴィオラートに見つかると、「お兄ちゃん、また居眠りしてサボってる!」と叱られるのだが、お目付け役の妹は、今はいない。そうなれば、ヴィオラーデンはバルトロメウスの天下である。カロッテ村の人はみな善人だから、店番が居眠りしていても邪魔をせず、勝手に代金を置いて買い物をして行ってくれる。商品は売れるのだから、それでいいではないか。
ヴィオラートは今朝、旅支度もそこそこに、ホーニヒドルフへ向けていそいそと出発したらしい。らしい――というのは、いつものように朝寝坊をしたバルトロメウスが目を覚ますと、既に妹の姿はなかったからだ。留守を頼むというメモと、季節の特売品とプレミア品のリストがテーブルの上に置いてあった。本当なら、開店前に特売品とプレミア品の値札を該当の商品に貼らなければならないのだが、まだ手をつけてもいない。そこには、バルトロメウスのしたたかな――と本人は思っている――計算がある。
クラーラがヴィオラーデンに買い物に来るのは、いつも午後の半ばだ。その時刻が近くなったら目を覚まして、忙しく値札を貼る作業を始める。店を訪れたクラーラは、バルトロメウスの勤勉さに目を見張るだろう。もしかしたら、手伝いましょうかと言ってくれるかもしれない。でも、まだ今日の段階では、大丈夫だからと丁寧に断る。もちろん、感謝の言葉は忘れない。クラーラの優しさに感動して見せて、好印象をゲットするのだ。
だが、もしその時になっても居眠りしたままで、クラーラにみっともない姿を見られてしまったら――?
そこも、ちゃんと考えてある。きっと、クラーラは心配して、優しく揺り起こしてくれるだろう。そうしたら、はっと赤面して、言うのだ。
「あ、すみません。ヴィオが急用で出かけてしまって、今日はひとりきりで店番をしていたものですから・・・。ずっと気を張っていたもので、お客さんが途切れてほっとしたら、つい気が緩んでしまったみたいです」
「まあ、大丈夫ですか、バルトロメウスさん・・・。ご無理をなさってはいけませんよ」
夢うつつのうちに、バルトロメウスの妄想は続く。
「いえ、お恥ずかしいところをお見せしました。勤務中に居眠りしてしまうなんて、店番として失格ですよね、ははは」
「とんでもありません。バルトロメウスさんが一生懸命なのは、わたしがいちばんよくわかっています」
妄想の中のバルトロメウスは、真っ白な歯を見せ、照れくささと凛々しさが入り混じった男らしい表情で、クラーラを見つめる。
「クラーラさん・・・」
「バルトロメウスさん・・・」
「クラーラさん・・・」
「――いいかげんに起きなさい!」
「うわっ!」
クラーラがいきなり鬼女の形相になって怒鳴ったので、バルトロメウスは椅子から飛び上がった。 カウンターで身を支え、目を白黒させる。
「ど、どうしたってんだ、いったい」
激しく頭を振って眠気を追い払う。ようやく、カウンターの向こうに誰かが仁王立ちになって、こちらを見下ろしているのに気付いた。
今にも雷鳴がとどろき、豪雨が荒れ狂おうとしているかのような、張り詰めた剣呑な空気が店内にみなぎっている。
「ようやくお目覚めですのね。営業中のお店の中で、真昼間から居眠りしていらっしゃるなんて、さすがは田舎の方、モラルやエチケットというものに無縁ですこと」
いつも以上にとげとげしい口調で、鬼女――ではなかった、ブリギットは言い放った。格闘家のように足をやや開き気味にしてしっかと床を踏みしめ、腕組みをして胸をそらし、つり上がった目は炎を秘めてバルトロメウスをにらみつけている。
「な、なんだ、あんたか・・・。脅かすなよ」
バルトロメウスはちらっと壁の時計を見て、ほっと息をつく。クラーラが訪れるはずの時刻まで、まだしばらくある。クラーラが来る前に、この厄介な客を追い払ってしまわなければ。でないと、甘いひと時(あくまでバルトロメウスの主観である)を過ごせなくなってしまう。バルトロメウスは金持ちの家でただで飲み食いするのは好きだが、金持ちを相手にするのは苦手だ。特にブリギットが村へ引っ越して来て間もない頃、ロードフリードと一緒に食事に招かれ(実際に招待されていたのは、ロードフリードだけである)、ワインを飲みすぎて醜態をさらしたこともあって(バルトロメウス自身はまったく記憶にないが)、ブリギットが彼を見る目にはいつも険しいものが感じられる。ヴィオラートがいれば、うまくあしらってくれるのだが。しばらくハーフェンの実家へ帰っていると聞いていたのに、いつの間に戻って来たのだろうか。
気を取り直して、バルトロメウスは精一杯の愛想笑いを見せる。
「あ、いらっしゃいませ。何を差し上げましょう?」
ブリギットの表情と口調は変わらない。
「その前に、よだれをお拭きになってはいかが? 接客にふさわしい姿とは思えませんわ」
「あん?」
だが、身に覚えがあったのだろう、バルトロメウスはあわてて両手の袖で、口元と頬からあごをごしごしとぬぐう。そして、濡れた袖を今度はズボンにこすりつける。
「さあ、これでいいだろ? ――何を差し上げましょう?」
「買い物に来たのではありません」
「なら、何なんだよ」
再び、バルトロメウスは時計を気にし、窓の外やドアに目を走らせる。それが気に障ったのか、ブリギットはカウンターに両手をたたきつけた。
「ロードフリード様のことですわ!」
「ロードフリードがどうしたって?」
「もう! わからない方ね! わたしが馬車を仕立てて、大急ぎでハーフェンから戻って来たのは、一刻も早くロードフリード様にお目にかかりたかったからですわ。それなのに――」
まくしたてるブリギットに、バルトロメウスはぽかんとしている。今回だけは、話についていけないのは彼の責任ではない。ブリギットは、こぶしで何度もカウンターを叩きながら、声を震わせて続ける。
「夜通し馬車を走らせて、ようやく今朝方、カロッテ村に着きました。すぐに、胸を高鳴らせながら、久しぶりに昼食をご一緒したいという手紙をロードフリード様に届けさせましたわ。そうしたら、なんという運命の悪戯でしょう、ロードフリード様は――」
効果を高めるかのようにいったん言葉を切ると、大きく息を吸い込み、ブリギットは一気に吐き出した。
「ちょうど今朝、わたしと行き違いに、ハーフェンの方へ旅立たれた後でした。――ヴィオラートと一緒にね!」
「だからって、何で俺に文句を言いに来るんだ?」
ようやく話が見えてきたバルトロメウスは、うんざりした気分で言う。いつクラーラが顔を見せるかと思うと、気が気ではない。ブリギットは、そんなバルトロメウスの鼻先に、指を突きつける。
「ロードフリード様がヴィオラートの護衛をすることになったのは、あなたのせいだからに決まっているでしょう!」
「おいおい、どこからそういう理屈が出てくるんだよ」
「兄でしたら、危険な冒険の旅に出る妹に、一緒について行くのが当たり前ではありませんの!? あなたが義務を果たさないから、優しいロードフリード様が代わりに護衛を申し出たのに決まっています!」
「それは違うぞ。ヴィオは最初から、俺なんか当てにしていなかったよ。ホーニヒドルフに行こうと決めるとすぐ、ロードフリードに頼みに行ったんだぜ」
バルトロメウスはうそぶく。だがブリギットの攻撃は止まらない。
「ほらごらんなさい。護衛として頼りにならないあなたが、悪いんじゃありませんか! だから仕方なく、ヴィオラートはロードフリード様を頼ることになったのですわ。ロードフリード様は、頼まれたら嫌とおっしゃれない方ですから――」
かなり自分勝手な理屈だが、ブリギットはどうしてもバルトロメウスを悪者にしたいらしい。バルトロメウスも意地になって反撃する。
「世の中にはだな、止むに止まれぬ事情ってものがあるんだ。今はヴィオラーデンにとって、大事な時期なんだ。店主が留守にするって言っても、閉店しておくわけにはいかない。ヴィオが店を空けるときには、誰か頼りになるやつが店番をしてやらないとな。店のことをヴィオの次によく知っているのは、俺以外にはいない。俺だって、妹についていってやりたかったさ。護衛を取るか、店番を取るか――。護衛なら、ロードフリードにもできるが、店番は俺にしかできない。だから――、ええと、その、あれだ、葛湯の選択をして、ここに残ったんだよ」
「それをおっしゃるなら、苦渋の選択ではなくって?」
「とにかくだ、俺がいなければ、ヴィオラーデンの経営は立ち行かないんだよ!」
「さあ、どうだか。ヴィオラートから以前、お兄ちゃんが店番をやっていると売り上げが上がらない――と、愚痴をこぼされたことがありましたわ」
「くそ、ヴィオのやつ、ぺらぺらしゃべりやがって――あ、いや、違う、ヴィオは身内のことを謙遜してるだけだ」
もう時間がない。議論も面倒になってきた。バルトロメウスはうんざりした口調で言う。
「で、結局、あんたは何が言いたいんだ。俺にどうしてほしいんだよ?」
「償いをしていただきたいですわ」
再び腕組みをしてあごをつんと上げ、ブリギットは答える。
「はあ? つぐない――? つまり、謝れってことか」
頭を下げるだけで帰ってもらえるなら、土下座でも何でもしてやろう。早くしないと、クラーラがやって来てしまう。バルトロメウスには、貴族のようなプライドはない。
「わかった。俺が悪かった。この通り、謝るよ。だから、機嫌を直して帰ってくれ」
バルトロメウスはカウンターに両手をつき、深々と頭を下げた。ブリギットは何も言わない。
しばらくして目を上げると、ブリギットは相変わらずの姿勢だったが、表情は変わっていた。にんまりと、なにか企んでいるような笑みを浮かべている。
「ご自分が悪いと、認めましたわね」
「そ――それが、どうしたってんだよ」
なにか、とんでもない判断ミスをしてしまったのではないかという不安が、バルトロメウスの背筋を這い上ってくる。
「では、謝罪の気持ちを行動で示していただきたいですわ」
「へ? 行動?」
「そうです」
ブリギットは、勝ち誇ったように言い放つ。
「わたしの護衛として、すぐに一緒にハーフェンへ発ってください。ロードフリード様を追いかけるのです」
「何だって? 無茶言うな。ハーフェンへ行きたかったら、乗って来たっていう馬車をもう一度使えばいいじゃねえか」
バルトロメウスにしては、まともな提案だ。
「馬車はもう、帰してしまいました」
ブリギットは、いかにも無念だというように、ため息をつく。
「ですから、自力で追いかけるしかありません。道中の危険に備えて、護衛が必要です。残念ですが、今のカロッテ村には、護衛として雇える冒険者はあなたしかいないのです。たとえ最低ランクでも、いないよりはましですからね。わたしとしても、不安は大いにありますが、背に腹は変えられません」
「最低ランクの護衛で、悪かったな」
ぶすっとして答えながらも、バルトロメウスは気が気ではない。既に、いつもクラーラが買い物に来る時刻を回っている。いつ現れても不思議ではないのだ。早くブリギットを追い払わねば。
ところが、追い討ちをかけるようにブリギットが言う。
「賃金は相場の3倍、お支払いしますわ」
思わず、バルトロメウスはブリギットをまじまじと見つめる。冗談を言っている様子はない。
(こいつ、マジかよ・・・)
これには、少なからず心が動いた。ここで賃金ゼロの店番をしているよりも、よほど得だ。だが、すぐにクラーラの顔が心に浮かぶ。心ひかれる提案ではあるが、話を聞くのは後回しにせざるを得ない。
バルトロメウスは、まじめな表情を保とうと努力しながら答える。
「話はわかった。だが、こっちにも都合ってものがあるんだ。これから大事なお客が来るから、後でもう一度、来てくれないか」
「わたしは急いでいるのです。でも、接客の邪魔をするつもりはございませんわ。お客様がいらっしゃったら、商談が終わるまで店の隅で待たせていただきます」
ブリギットの答えに、バルトロメウスはあわてた。クラーラとの間に思い描いているシナリオは、店内でふたりきりになるというのが前提だ。第三者に居座られては困る。
「いや、その、今度の客っていうのは特別でな。ええと、誰にも知られず、内密で取引したいって言うんだよ」
「ふうん。なにやら怪しげですわね」
ブリギットが眉をひそめた。墓穴を掘ってしまい、バルトロメウスはますますあわてる。
「あ、いや、別に賄賂とか裏取引とか、後ろ暗いところがあるわけじゃないぞ。クラーラさんは――あっ!」
バルトロメウスははっと口を押さえたが、もう遅い。
「クラーラさん? お客様というのは、クラーラさんですの?」
ブリギットはきょとんとする。
「あ、いや、その、ええと――なんだ、その」
口ごもり、まともにしゃべれないでいるバルトロメウスを不思議そうに見ながら、ブリギットが言った。
「おかしいですわね。クラーラさんは、村にはいませんわよ」
バルトロメウスが目をむく。
「何だとぉ? でたらめ言うと承知しねえぞ」
「嘘つき呼ばわりは心外ですわ。村長さんから、クラーラさんは今朝早く、ヴィオラートやロードフリード様と一緒にハーフェンへ向けて発ったとうかがいましたけれど」
ブリギットはすまして答えた。


「よし、支度は済んだ! すぐに出かけようぜ!」
なめし皮の軽鎧をまとって、腰に広刃の剣を手挟んだバルトロメウスが叫んだ。ヴィオラーデンの店内に立ち尽くしたまま、ブリギットはあきれたように見ている。
あれから半刻と経っていない。クラーラがヴィオラートたちとハーフェンへ旅立ったという話を聞いて、バルトロメウスは人が変わったようにあわただしく旅支度を整えた。
「あんたも、早く支度をして来いよ。魔物が出る場所を抜けていくんだ。武器も必要だぜ」
「ご心配なく。わたしは、このふたつのこぶしがあれば、それで十分ですわ」
ブリギットは両の手を打ち合わせた。いつのまにか、鉄の棘を埋め込んだ革製の小手を着けている。たしかに、あれで殴られたらただでは済むまい。
「よし、それじゃ、出発だ! 『迷いの森』を抜けて、最短距離でハーフェンへ向かうぞ! クラーラさん、待っててください、俺が今、助けに行きます!」
「別に、クラーラさんは助けを求めているわけではありませんわ。村長さんの話では、クラーラさんはハーフェンで開かれる骨董市に行っただけです」
「ヴィオとロードフリードの野郎が護衛じゃ、頼りなくて心配なんだよ。やっぱり俺が護衛しなくちゃな」
「あら、先ほどとは随分、おっしゃることが違いますことね」
「まあ、細かいことはどうでもいいじゃねえか。あんただって、早くロードフリードに逢いたいんだろ?」
「――そうはっきりおっしゃらないで! 本当にデリカシーのない方ですわね!」
とはいえ、ふたりの目的はいみじくも一致していた。
「行くぞ!」
「急ぎましょう!」
ヴィオラーデンを出て、共同井戸の前にさしかかった時、ふと思い出したようにブリギットが尋ねる。
「ちょっとお待ちになって。お店をあのまま放ってきて、よろしいのですか?」
ついさっきまで、バルトロメウスはヴィオラーデンの経営の大切さについて、滔々と力説していたはずだ。ところがこのままでは、店は開店休業状態になってしまう。
「ああ、そうか」
バルトロメウスは気のない返事をする。クラーラが来ないヴィオラーデンなど、バルトロメウスにとって意味はないのだ。
そのとき、酒場『月光亭』のドアが開いて、クリエムヒルトが出てきた。彼女は酒場の建物の一画を借りて小さな雑貨屋を営んでいる。
「あら、バルトロメウスさん・・・」
クリエムヒルトはバルトロメウスの姿を認めると、かすかに頬を染め、恥ずかしそうに微笑んで見せた。精一杯の、気持ちの表現である。
「あ、クリエムヒルトさん、いいところに」
バルトロメウスが向き直った。
「あの〜、ちょっと出かけてくるんで、お店を見ておいてもらえませんか」
「は、はあ・・・」
クリエムヒルトは曖昧にうなずく。
「じゃあ、お願いします。すぐ戻りますから!」
「え、ええ」
「これでよし」
バルトロメウスは、先に立って村はずれへ向かっているブリギットに追いつこうと、足を速めた。まぶしそうに、クリエムヒルトが見送る。
バルトロメウスの姿が見えなくなるまで見送っていたクリエムヒルトは、いったん自分の店へ戻った。早仕舞いして、日暮れまでヴィオラーデンで店番をするつもりだ。
バルトロメウスが自分を頼ってくれた。いっときでも、バルトロメウスの役に立てる――それだけでも、クリエムヒルトは嬉しかった。


カロッテ村を出ると、ふたりは一路西へ進んだ。
しばらく歩くと、前方に鬱蒼とした森が見え始める。濃い緑をなす森の向こうには険しい山がそびえ、むき出しになった茶色の岩肌をさらしている。カナーラント中央部にそびえ、王国の東部と西部を分かつ『神々の食卓』と呼ばれる高峰だ。森を抜け、『神のいろり』と呼ばれる峠を越えて、ふもとに広がる『失意の森』を再び抜ければ、ハーフェンが見えてくるはずだ。街道も十分には整備されておらず、強い魔物が出没する悪路だが、カロッテ村から首都ハーフェンへ行くには最短のルートである。
一般の旅人は、時間はかかるが、より安全な北回りのルートを取る。ヴィオラート一行が、どちらを選んだのかはわからない。旅慣れていないクラーラが同行しているのであれば、キッセル湾岸街道を北上して、ワインの町ファスビンダー経由で王国横断道を南下するコースを選ぶのが普通だろう。ブリギットが馬車を飛ばして帰って来たルートの逆である。ファスビンダーまで行けば、ハーフェン行きの乗り合い馬車がいくらでも出ている。
「しかしな、ヴィオのことだから、近道を行ったかもしれないぜ。こっちの方が採取できるアイテムが多いって、何度も言ってたからな」
バルトロメウスは言う。
「どちらであろうと、関係ありませんわ。とにかくわたしたちは、少しでも早くハーフェンへたどり着くだけです」
ブリギットの意思は固い。ロードフリードたちが北回りのルートを選んだのであれば、こちらが先にハーフェンへ着く可能性は高い。たとえ同じルートの先を行っていたとしても、半日しか遅れをとってはいないのだ。しかも、先行組は足の遅いクラーラが一緒である。急げば、明日のうちにも追いつけるかもしれない。
ブリギットとバルトロメウスは、どちらからともなくうなずき合うと、昼なお暗い森に足を踏み入れた。
しばらく行くと、開けた場所に立札が立っている。
『この森迷いの森! 危険! 入るな! カロッテ村青年会』とある。
しかし、ふたりともちらりと目を向けただけで、すぐに奥へと進んでいく。
「あの立札、何のために立ててあるんですの?」
せかせかと足を動かしながら、ブリギットが尋ねる。
「ああ? 村のガキどもが迷い込まないようにするために決まってるじゃねえか。魔物が出たりして、危ないからな」
バルトロメウスも、一応はカロッテ村青年会の一員である。とはいえ、クラーラが出席する数少ない機会だけ活動に参加するという、ややいいかげんなメンバーだが。
「なるほど、そういうことですのね。『迷いの森』などという縁起でもない名前ですもの、もっと別の由来があるのかと思っていましたわ」
ブリギットは、ややほっとした表情を見せる。たしかに、これから踏み込もうという場所にそんな名前がついていたら、不安になるのも無理からぬところだ。
「安心しろよ、俺は何度もヴィオと一緒にここを抜けて、ハーフェンへ行ったことがあるんだ。とにかく道をたどって西へ西へと行きゃあいい。迷うはずがないさ」
バルトロメウスは胸を張った。
「確かなのですね。間違っていたら、承知しませんわよ」
だが、案の定、バルトロメウスは間違っていた。

森の中をうねうねと縫っていく、けものみちと変わらないような頼りない細道は、やがて北西に進路を変えた。頭上の枝はますます厚くおおいかぶさり、下生えをかき分けるたびに、ヘビやトカゲなどの小動物が驚いて逃げ散る。
先頭に立って進路を切り開くのは、バルトロメウスの役目だ。
「なんで俺ばっかりが、面倒な役目を押し付けられなきゃならないんだよ?」
ぼやくバルトロメウスに、ブリギットは目をつり上げて反論した。
「かよわいレディに、そんな汚れ仕事をやらせようなんて、それでも殿方ですの? ちゃんと賃金は払うと約束したでしょう。賃金分の仕事は果たしていただきます」
“かよわい”かどうかは別にして、ブリギットの言うことの方が正論だろう。それに加えて、
「もし、しっかりやってくださったら、クラーラさんに『バルトロメウスさんはとても頼りになった』と話して差し上げますわ」
という言葉がだめ押しになった。
一方、ブリギットもいつになく我慢強かった。普段のブリギットならば、こんな悪路を行く破目になったら、とっくに愛想をつかして引き返すか、癇癪を起こしていただろう。しかし、ロードフリードに逢いたいという一心で、苦手な虫やヘビが出ても騒がず、ひたすら前へと進んでいる。
「てえい!」
垂れ下がる蔓草をバルトロメウスが剣で切り払うと、ようやく落ち着ける空間へ出た。そこだけぽっかりと森が開け、真ん中に、入口にあったのと同じような立札が立っている。
今度の立札の文字は『死に急ぐな! まだ人生はこれからだ! カロッテ村青年会』だった。しかし、バルトロメウスもブリギットも、死に急ぐつもりなど微塵もない。
「ああ、腹が減った。ここで一休みしようぜ」
立札の脇に、丸太を転がして表面を平らに削っただけのベンチがある。バルトロメウスはブリギットの返事も待たず、丸太にもたれて座り込み、だらしなく脚を伸ばした。
ブリギットは不満げになにか言おうとしたが、すぐに思い直した。お腹が鳴るのをバルトロメウスに聞かれるような、恥ずかしい思いはしたくない。そうなる前に、お腹になにか入れておこう。
「仕方がないですわね。半刻だけ、食事休憩にいたしましょう。食べ物を出していただけません?」
「――ったく、なんで俺が荷物を全部、持たされなくちゃいけねえんだ」
ぶつぶつ言いながらも、バルトロメウスはいそいそと『アルファルの糧食』を取り出す。栄養価が高く、味もいい保存食だ。店に並んでいた売り物で、売ればかなりの高値になるプレミア品だが、バルトロメウスは気にしていない。
「いっただきま〜す!」
バルトロメウスは、あきれたように眉をひそめるブリギットに構わず、自分の分をがつがつと食べ終える。ブリギットは、田舎者は食事のマナーがどうのこうのとぶつぶつ言いながら、携帯用のナイフとフォークで上品に口に運ぶ。
手持ち無沙汰になったバルトロメウスは、ナイフを取り出すと、丸太のベンチに何事か刻みつけ始めた。頭の中では、ふたたび妄想が渦巻き始めている。
ハーフェンは危険な街だ。田舎育ちで世間知らずの、しかも美しいクラーラにとって、無数の罠が待ち受けているといってもいい。ひとりで散歩しているクラーラを、突然ごろつきが取り囲むかもしれない。恐ろしさに足がすくみ、がたがたと震えるクラーラ・・・。
「へへへ、姉ちゃん、俺たちと遊ぼうぜ」
「いや! 放してください」
「いいじゃねえか、一緒に楽しいことをしようや」
「やめて――。助けて、バルトロメウスさん!!」
「騒いだって、誰も来やしねえよ、へっへっへ」
しかし、そこへ颯爽とバルトロメウスが現れるのだ。
「待て、ごろつきどもめ、クラーラさんを放せ!」
「なんだとぉ! おい、野郎ども、やっちまえ!」
「フッ、できるかな・・・」
戦いは一瞬で片がついてしまう。さんざんにやられたごろつきどもは逃げ去り、息ひとつ乱していないバルトロメウスに、クラーラがしがみついてくる。
「バルトロメウスさん・・・。やっぱり、来てくださったんですね」
「当たり前じゃないですか、クラーラさん。もう二度と、俺から離れてどこかへ行ったりしてはいけませんよ」
「はい・・・」
クラーラは心から感謝してくれるだろう。感謝の気持ちは、いつしか愛情に変わり、そして――。
「バルトロメウスさん・・・」
潤んだ瞳で、クラーラが見つめる。
「はい、何でしょう、クラーラさん」
「――ぼんやりしてるんじゃありません! しゃんとなさい!」
「うわっ!」
クラーラがいきなり鬼女の形相になって怒鳴ったので、バルトロメウスは飛び上がった。あわてて周囲をきょろきょろと見回し、目を白黒させる。
「休憩中だからといって、ぼうっとしているようでは、護衛失格ですわね」
鬼女――ではなかった、ブリギットは冷ややかに言った。
「さあ、出発しましょう。日が暮れてしまいますわ・・・あら?」
ブリギットはバルトロメウスの手元を覗き込む。丸太の表面に、なにか真新しい傷のようなものがついていた。バルトロメウスが、無意識のうちにナイフで刻み込んでいたものだ。気付いたバルトロメウスがあわてて隠そうとしたが、ブリギットは鍛えられた握力で、あっさりと手をどけてしまう。バルトロメウスは口をぱくぱくさせ、ブリギットは目を丸くしてまじまじと見入る。
「まあ・・・。まるで子供ですわね」
口元を押さえ、ブリギットは楽しそうにくすくす笑った。バルトロメウスは、トマトのように真赤な顔をしている。
「と――とにかく、行こうぜ! まだ先は長いんだ」
ぷいと顔をそむけると、バルトロメウスはさっさと西側の木々の間に姿を消した。笑いをかみ殺しながら、ブリギットが後に続く。何事もなかったかのように、立札とベンチを木の間風が吹きすぎる。
丸太のベンチには、バルトロメウスとクラーラの名前が入った相合傘が、刻み込まれていた。


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