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恋のアトリエ・ドミノ Vol.5


第5章 第二の物語(2)

『渡り鳥亭』のあるハーフェンの中央広場から、南へ下って運河に架かる陸橋を渡ると、『職人通り』と呼ばれる街並みへ出る。通りの東側にある池の噴水は、詰まっていたのを以前ヴィオラートが修理したものだ。かつてはどんよりと濁っていた泉水も鏡のように澄みわたり、噴き上がる水の飛沫が陽光を浴びてクリスタルのようにきらめいている。噴水の周りには石畳の広場があり、普段は、日用雑貨を売る露店が出ているほかは、ゆったりとした雰囲気の、市民の憩いの場となっている。ヴィオラートもハーフェン滞在中は、調合や冒険に疲れると、よくベンチに座って空を見上げてはぼんやりとあたりをながめていたものだった。街路樹の枯葉が石畳の上を舞い、涼風が長い髪をなでて吹きすぎる中、時間はゆっくりと流れていた。
だが、今は風景が一変していた。
「うわあ、すごい、石畳が見えないよ。それに、空気が熱い!」
陸橋から噴水前の広場を見下ろし、ヴィオラートはあっけにとられて叫んだ。ロードフリードも腕組みをして立ち止まる。
「まったくすごい人だな。以前に俺が来たときも、こんなに混み合ってはいなかったよ」
広場を埋め尽くしていたのは、人の頭、頭、頭だった。帽子やターバンを着けている以外、黒や茶色や、一部はスキンヘッドも混じっているが、数え切れないほどの頭部がひしめきあい、波打っている。波打つように見えるのは、熱気で陽炎が立っているからかもしれない。人の隙間から、かすかにテーブルや、そこに並べられた骨董品や美術品が垣間見えるのがせいぜいだ。まるで3日目のビッグサイト東地区である――この世界にそんな表現はないが。
思わず引いてしまったふたりに対して、クラーラはますます萌えて――いや、燃えてきたようだ。
「さあ、行きましょう! あんなに人がいるんですもの、きっと、かわいいものや珍しいものがたくさんあるに決まっているわ! 売り切れないうちに、早く買い占めなくちゃ!」
「買い占めるって・・・本気ですか、クラーラさん?」
「早く早く!」
あきれたヴィオラートの言葉に耳も貸さず、クラーラは陸橋の階段を駆け下りると、怖じ気もせずに人波に飛び込んでいく。
「あ、待ってください、クラーラさん!」
あわてて、ヴィオラートとロードフリードも後を追った。
右往左往する人々の間を、クラーラは意外にも器用にすり抜けていく。執念のなせる技だろうか。ほとんどの人は、自分の探しものにしか注意が向いていないようで、ぶつかろうが足を踏まれようが、気にも留めない。ディアーナの言うとおり、これではスリが商売に精を出すのも無理はない、とヴィオラートは思った。
反射神経と判断力に優れたロードフリードは、人の動きを機敏に予測してはひょいひょいと身をかわし、クラーラを追う。身長の足りないヴィオラートが、いちばん大変だ。ロードフリードの背中から目を離さないようにして、必死についていくが、誰かに前に割り込まれると、すぐに幼馴染の姿が視界から消えてしまう。「すみません」と声をかけては、よろめきつつ先に進むが、ほかの人の肩の高さに頭があるため、圧迫感がすごい。人いきれの激しさに気分が悪くなりそうだった。
狭い通路の左右には骨董の露店が立ち並んでいるが、幾重にも客が取り巻いているため、陳列してある品を見ることもままならない。買い物を済ませて誰かが立ち退いた隙間に、タイミングよく入り込むしかない。
しかし、ようやくクラーラは、人垣のまばらな店を見つけ、隙間に身体をすべり込ませた。
目の前のテーブルには、奇妙な形の大小の置物が並べられている。球体にヘビが巻きついたような形の物や、そのバリエーションが多く、牙をむき出しにしたヘビの頭部はそれぞれに異なっている。台座のデザインも様々だ。
「うわあ、かわいい」
吸い寄せられたようにそれらの置物を見つめ、クラーラはうっとりとつぶやく。追いついて背後から覗き込んだロードフリードは肩をすくめ、横からひょいと顔を出したヴィオラートと顔を見合わせた。どこがかわいいのか、さっぱりわからない。どちらかといえば、無気味な印象である。
クラーラは手を伸ばすと、すべすべした球体をなでたり、にらめっこをするようにヘビの顔を覗き込んだり、すっかり心を奪われている様子だ。
「どうだい、お嬢さん、この『古代の美術品』は。カナーラント南方にある、人跡未踏の古代遺跡の奥地から発掘された、文字通りの掘り出し物だぜ」
見計らったように、テーブルの反対側に陣取った店主が威勢良く声をかけてくる。
「本当に、素敵だわ・・・」
「普段ならこっちの大きいのは8000コール、小さいのは3000コールもらうところだが、今日は初日だし、お嬢さんも気に入ってくれたようだし、大サービスだ。2割引でいいぜ」
「え? ほんとに? 買います! この大きいのと、中くらいのと、小さいのと、三つでいくらになるかしら」
クラーラは速戦即決だ。ヴィオラートが口を挟む間もない。
「あいよ! 毎度あり!」
景気のいい声をあげ、店主はいそいそと品物を包もうとする。そのとき、隣から静かな声がかかった。
「ちょっと待て」
クラーラは怪訝そうに振り返り、店主はじろりと鋭い目を向ける。
「お嬢さん、その買い物は、やめた方がいい」
声の主は、やせた中年の男性だった。地味な黒いシャツに薄茶色のベストを着て、茶色の髪を短く刈りそろえている。つり上がった目は、ただものではないことを感じさせるような鋭い光を放っている。
「あの・・・。どういうことでしょう?」
せっかくの掘り出し物を横取りされるのではないかと思ったのだろう、クラーラは幾分か警戒気味に男に尋ねる。
「そんな代物に何千コールも出すのはもったいないってことさ」
店主に冷ややかな目を向け、平然と男は言う。言われた店主も黙ってはいない。
「なんだと!? てめえ、うちの品にケチつけるつもりか」
「そうですよ、こんなにかわいいのに」
その美術品をすっかり気に入ったクラーラも、店主に味方する。再び、ロードフリードとヴィオラートは顔を見合わせた。どちらが正しいのかはわからないが、ふたりとも、もめごとになったら介入しようと身構える。ヴィオラートは、ポケットに潜ませている、睡眠効果のある『貴婦人のたしなみ』をまさぐった。
「まあ、こいつをかわいいと思うかどうかは、個人の自由だから、俺が文句を言う筋合いじゃないが――」
ちらりとクラーラに流し目をくれて、男は冷静な口調で言う。そして、前方へあごをしゃくり、
「向こうの端の店へ行ってみな。同じ美術品を500コールで売っているぜ。しかも、品はここと違って、正真正銘の真物だ」
「は?」
クラーラはきょとんとして、男と店主の顔を見比べる。
「ば、ばか言うんじゃねえ! ――お嬢さん、こんなよそ者の言うことを信用しちゃいけません。さあ、早く取引を済ませちまいましょう」
明らかにあわてた様子で、店主がクラーラにまくしたてる。ヴィオラートがそっとクラーラの服の裾を引いた。
「クラーラさん、ほかのお店を見てからでも、決めるのは遅くないんじゃないですか」
「でも、もし、その間に売れてしまったら――」
「そうですとも、こんな掘り出し物には、二度とお目にかかれるもんじゃありません」
「けっ、こんなガラクタを掘り出し物とは、よくも言ったもんだ。いや、ガラクタならまだいい。少なくとも、本物だからな」
歯に衣着せぬ男の言葉に、店主が顔を真っ赤にして怒鳴る。
「でたらめを言うのもいい加減にしろ! てめえ、どこまで商売の邪魔をすれば気が済むんだ! 事と次第によっちゃ――」
「ふん、言っただけじゃわからないようだな」
男は不意にポケットから小型のナイフを取り出すと、手近に置いてあった美術品に柄の先端をたたき付けた。
「何をする――!?」
店主の叫びと同時に、『古代の美術品』は軽い音をたててまっぷたつに割れ、真っ白な断面をさらけだした。
「あ、それって――」
ヴィオラートが小さく叫ぶ。ロードフリードも目を見張り、つぶやいた。
「石膏細工か」
「そうさ。石膏で大量生産して、泥を塗って古く見せかけた代物だ。つまり、完全な贋物ってことだな」
男はナイフをしまいこむと、銅貨を一枚、テーブルに放り出す。
「そらよ、壊した分の代金だ。10コールでも高すぎるだろうがな。おまけしといてやるよ」
そして、刺すような目で店主をにらむ。
「俺はな、真赤な贋物で素人衆を食い物にしようとする根性が、いちばん気に食わねえんだ。店じまいして、とっとと引き上げた方が身のためだぜ」
男は言い捨てると、くるりと背を向けて、人波に消えていく。
「くっ」
周囲にいた人々からも非難の視線を浴びせられ、悪徳店主は何も言い返せず、下を向いてしまう。ロードフリードは小さく口笛を吹いた。ヴィオラートも感嘆の眼差しで、男の背中を見送る。そして、がっくりとうつむいているクラーラに、慰めるように声をかける。
「がっかりしないでくださいよ、クラーラさん。騙されなくて、よかったじゃないですか」
クラーラは考えていたのは、別のことだった。口をへの字にして、口惜しそうに言う。
「あの人、わたしのことを、“素人”だって・・・」
だが、通路の端の店へ行ってみると、同じデザインの『古代の美術品』――今度はちゃんとした一級品だった――が、男が言った通りの良心的な価格で売られていたのだった。クラーラはぐうの音も出ない。それでも、しっかり買い込むことだけは忘れなかった。


その後も、クラーラは疲れも見せず、通路から通路へ、店から店へと歩き回った。人垣の隙間から隙間へ、と言った方が正しいかもしれない。ヴィオラートは、ついていくだけでへとへとになった。アイテムを探して野原や森を歩き回るのなら、いくらでも大丈夫な自信があるが、人波に押され、しかも無防備なクラーラがスリやごろつきの被害に遭わないように気を遣って、常に神経を張り詰めているのは、思いのほか疲れる。クラーラの動向にばかり気をとられているため、錬金術に役立ちそうなアイテムに目が止まっても、立ち止まることすらできないので、余計にストレスが溜まる。ロードフリードは黙々とクラーラの荷物持ちを務めていたが、両手に抱える荷物の量は、次第に増えていった。
同じところをぐるぐると何周もしているような気分だったが、実際には、まだ『ハーフェン掘り出し物市』の半分も回れてはいない。ついに、ロードフリードが音を上げた。
「クラーラさん、一度、酒場へ戻って、荷物を置いてきませんか。腕が疲れてしまって――」
たしかに、ずっしりとした置物やデリケートな壊れ物が収まった箱をいくつも抱えて、人ごみを歩き回るのは神経をすり減らす重労働だ。剣の素振りなら、1日に千回でもこなすロードフリードだが、使う筋肉が違うのだろう。『グラビ結晶』でもあれば、荷物につけるだけで軽くできるのだが、あいにくヴィオラートも今回は用意してきていない。
「え・・・? でも・・・」
クラーラは顔を曇らせる。掘り出し物探しの本番はこれからなのに――とでも言いたげな顔だ。ヴィオラーデンで買い物をして、高い交換品をヴィオラートが選んでしまったときの、いささか不機嫌な表情に似ている。
困ったような表情を浮かべるロードフリードに、ヴィオラートが妥協案を出す。
「それじゃ、ロードフリードさんはいったん荷物を酒場へ持って帰ってくださいよ。あたしはクラーラさんについて行きますから。荷物を置いて一休みしたら、また戻ってきてもらえますか」
「でも、ヴィオひとりで大丈夫かい」
ロードフリードは心配そうだ。荷物を持って行くのはヴィオラートに任せて、自分はクラーラについていた方が間違いがないかもしれない。しかし、これだけ重くて大量の荷物を、小さなヴィオラートに持たせるのは男として忍びない。
「大丈夫ですよ。ディアーナさんはああ言ってましたけど、そんなに怖い人や悪い人には出会っていませんし。少しの間なら、平気です」
ヴィオラートは胸を張った。
「そうかい。それじゃ、できるだけ早く戻るから。気をつけてくれよ、ヴィオ」
「はい、任せといてください」
ロードフリードは、腰を入れて荷物を持ち直すと、人波をかきわけて北の方へ歩き出す。見送るヴィオラートの背後では、早くも新たな獲物に目を止めたのか、クラーラのはずんだ声が聞こえる。
「あ、あれ、何かしら?」
「クラーラさん?」
あわてて振り返ったヴィオラートの目に、人波にとけこむ明るい茶色の豊かな髪がちらりと映った。そして、クラーラの姿は視界から消えた。
「クラーラさん、待ってください!」
張り上げた声も、ざわめきの中に消え失せ、何の反応もない。背伸びして、クラーラの姿を探そうにも、行き交う人の頭に邪魔されてしまう。
「クラーラさん!」
ヴィオラートは叫び、口をきっと引き結ぶと、行く手をさえぎる人の壁に突進していった。

クラーラは、次々と目の前に現れてくる掘り出し物以外、何も目に入っていなかった。ヴィオラートはついて来ているものと思い込んでいる。これまでの旅の間、ずっと気にかけてくれていたのだ。いなくなるはずがない。
主だった商人は、石畳に引かれたチョークの線に沿って小さなテーブルを規則正しく置き、そこに売り物を並べている。もちろん、使えるスペースはすべて使い、テーブルに棚を何段も重ねて陳列したり、背後に板を立てて絵やレリーフ、ペンダントなどを飾ったりしている。テーブルの下も、例外ではない。布を敷いて、壺や置物を所狭しと並べている。
ふと視線を下げたクラーラの目に、少し先に並んだ人々の足の隙間から、きらりとした輝きが飛び込んでくる。
「あら?」
本能的に、クラーラの足はそちらへ向かう。タイミングよく、先客が立ち去った。すぐにその隙間に身をすべり込ませると、腰をかがめて、テーブルの下に並んだ品物に目を走らせる。
たぶん、人気の商品ではないのだろう、そこにはいっぷう変わった妙な品がいろいろと置いてあった。先の折れた古い剣、植木鉢から植物が生えているのを模した金属の置物、銀色に光るハート型をした奇妙な石などだ。普通の人ならば、ほとんど目もくれない代物だろう。手入れもされていないらしく、埃にまみれているものさえある。
「まあ・・・」
クラーラの目が輝く。彼女の美的センスに強く訴えかけてくるものがあったのだ。こんな素晴らしい品を、テーブルの下に放り出しておくなんて、なんと見る目のない店主なのだろう。だが、そのために、これまで売れてしまわずにいたに違いない。しかも、ぞんざいに書かれた値札の金額は、驚くほど安い。クラーラにとっては、まさに天国だった。
奥の暗がりにも、なにか置いてあるようだ。よく見ようと、クラーラは腰をかがめたまま前のめりになって、頭をテーブルの影に突っ込む。外から見ると、お尻を突き出して四つん這いになった格好だ。クラーラが首を振って左右に目をこらすたびに、スカートに包まれた形のいいお尻もつられて動く。バルトロメウスが目撃したら、「こら、俺のクラーラさんをじろじろ見るんじゃねえ!」と激昂して人々の目をさえぎったかもしれないが、実はほとんどの人は掘り出し物探しに夢中で、気付きもしていなかった。
「決めたわ。これとこれと――これも買いましょう。・・・きゃっ」
クラーラは気に入った品物をつかむと、立ち上がろうとあとずさった。とたんに、したたかにお尻を蹴られ、小さな悲鳴をあげる。
誰かがわざと蹴ったわけではない。急ぎ足で通り過ぎようとした人を、下半身で通行妨害したのはクラーラの方だ。
「痛い・・・」
顔をしかめるクラーラを、優しい手が抱き起こす。ヴィオラートだと思い、その手にすがって身を起こそうとする。
「ヴィオ?」
「大丈夫かい?」
ヴィオラートでもロードフリードでもなかった。覗き込んでいるのは、見知らぬ若者だった。茶色の髪を無造作に長く伸ばし、頭には派手な柄のバンダナを巻いている。白いシャツの胸元を大胆にはだけ、こげ茶色のベストをラフに着こなし、いかにも遊び人風だ。見下ろされているため、顔は逆光ではっきりと見えないが、真っ白な歯が口元にきらめく。
「ごめんよ。急いでいたものだから、気付かなくて、ぶつかってしまった。けがはない?」
「いえ、大丈夫です」
膝を突き、立ち上がろうとすると、青年はかいがいしく肩を貸した。そして、クラーラが気付いて手を出すよりも早く、スカートについたほこりを払う。そして、あらためてクラーラの顔をしげしげとながめると、青年は底抜けの笑顔を向けてきた。
「うわあ、お姉さん、美人だね。こんなきれいな人にぶつかるなんて、今日のぼくはなんてついているんだろう」
「は、はあ・・・」
こんなにあけすけにほめ言葉をかけられたことのないクラーラは、どぎまぎして答える。若者はなおも熱意をこめて、言いつのる。
「ああ、これこそ『ハーフェン掘り出し物市』の神様がもたらしてくれた出会いだよ、きれいなお姉さん。きみこそ、ぼくにとっては最高の掘り出し物だ」
「あ、あの・・・」
買おうと選んだ品物をかき集めながら、クラーラは困ったような表情を浮かべる。今朝、ディアーナから聞いた話が、心によみがえってきたのだ。
(かわいい女の子と見れば、声をかけずにはいない連中もいるわ。世間知らずの若い女性がひとりで歩いていたりしたら、どんな目に遭わされるかわかったものではない・・・)
もしかしたら、この若者も、そういう危ない連中のひとりなのではないか。ぶつかったというのも偶然ではなく、実は声をかけるきっかけをつくるために、わざとしたことではないのか。そういえば、外見も軽薄そうで、口はよく回るし、恥ずかしげのない言葉が次々と出てくる。カロッテ村ではまったく見かけない種類の男だ。おしゃべりで、うまいことばかり言う男を信用してはいかん――祖父オイゲンも口癖のように言っていたではないか。
若者は、なおもなにくれと話しかけてくる。クラーラは伏し目がちになり、必死にあたりの様子をうかがった。ヴィオラートはどこにいるのだろう。ロードフリードが早く戻ってきてくれないものか。
このまま、誰も来てくれなかったら、どうなってしまうのだろう。見知らぬ男にどこかへ連れ去られ、売り飛ばされてしまうのではないだろうか。いつも読んでいるロマンス小説のヒロインは、必ず何度かはそういう目に遭っている。最後には必ず助け出されるのだが、ひどく危ない目や怖い目に遭うことだけはまちがいない。
(ヴィオ、助けて――!)
「どうしたの? 顔色がよくないよ」
なれなれしく話しかけながら、若者はクラーラの顔を覗き込む。クラーラは胸の前に腕を寄せ、身を守るように縮こまる。
「人ごみにあてられたのかな。静かなところへ行って、休んだ方がいいよ。よければ、一緒にお茶でも――」
とうとう来た――! クラーラは身を震わせた。親切に介抱するふりをして、誘拐してアジトへ連れ去るつもりだ。悲鳴をあげたくても、声が出ない。
(助けて、ヴィオ! ロードフリードさん!)
当然ながら、誰かの妄想とは違って、バルトロメウスの名前は出てこない。
「ねえ、本当に、大丈夫?」
若者が、クラーラの肩に手をかける。
(いや、触らないで!)
そのとき、天使の吹き鳴らすラッパのような、凛々しい声が響いた。一個小隊の騎士が駆けつけてくれるよりも、心強い。
「クラーラさんから手を離しなさい!」
「ヴィオ!」
振り返ると、小さな身体を精一杯大きく見せるように、肩をいからせたヴィオラートが仁王立ちしていた。こぶしを握りしめ、変なまねをしたらただではおかないという決意がみなぎっている。ただならぬ雰囲気に、周囲の人垣もざわつきだした。
殺気立った声に、若者はきょとんとして振り返る。緑の服をまとった小柄な錬金術士の姿を認めると、両腕を広げて立ち上がり、ますます開けっぴろげな笑みを浮かべた。
「やあ、カロッテ村のかわいこちゃんじゃないか。久しぶりだね。このきれいなお姉さんと、知り合いなのかい? ああ、美人とかわいこちゃん、こんな素敵な女性たちに一日でふたりもめぐり会えるなんて、今日のぼくはついてるなあ。やっぱり掘り出し物市を覗きに来て正解だったよ」
「グ――、グレールさん!?」
毒気を抜かれたように、ヴィオラートが目を丸くする。クラーラはわけがわからず、しゃがみこんだまま、ふたりの顔をきょろきょろと見比べる。とにもかくにも、どうやら危機は去ったようだ。
クラーラにぶつかり、第二の天性のようにナンパしようとした若者は、ハーフェンの雑貨店主でヴィオラーデンにも時おり顔を出す、グレール・フェルスだった。


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