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エルローネの日記


※おことわり
本作品では、ゲームの中には出て来ないキャラクターが主人公として登場します。
あらかじめご了承ください。


Episode−1

空は、青く晴れ渡っていた。
日差しは強いが、吹きすぎる風には、秋の気配が感じられる。
その日の朝、フローベル教会の前には、街の子供たちが集まっていた。
今日は9月29日。アルテナ降誕祭の日である。
女神アルテナは、医薬をつかさどる神であると同時に、子供たちを育み慈しむ慈愛の神でもある。
子供たちには、今日1日、フローベル教会が主催する催し物に参加するために集まっていたのだ。
まずは、シスターらに引率されて、近くの森までピクニックを楽しみ、緑の中で昼食をとる。そして、教会に戻って午後の礼拝に参加した後、パーティーが開かれるのだ。パーティーではたくさんのお菓子や飲み物が出され、プレゼント交換なども行われる。
中央広場に集まった、思い思いのいでたちをした子供たちは、みな一様に、胸をときめかしていた。
フローベル教会のクルト神父が常々話しているように、女神アルテナの慈悲に地位は関係ない。ぺちゃくちゃとおしゃべりをし、笑い合っている子供たちの中には、貴族の子弟もいれば、職人の娘、近在の農家の息子、孤児院の子供たちもいた。
そして、その中にエルもいた。
本名はエルローネ。エルというのは愛称である。
栗色の巻毛と、大きな緑色の目。目の色は母親譲りだ。白いブラウスに、活動しやすいピンク色のジャンパースカート。大勢の中にいてもかなり目立つ格好だ。
手には、母親手作りのお弁当が入ったバスケットを下げている。
エルがこの催しに参加するのは、今年が初めてなのだ。エルは、胸がどきどきしていた。時々、胸に手を当て、深呼吸する。
そうしている間に、出発の時間になった。
「さあ、みなさん、並んでくださ〜い。出発しますよ」
引率するシスター、ミルカッセの声が響く。
「は〜い!」
元気よく答え、数十人の子供たちは、笑いさざめきながらザールブルグの城門を抜け、近くの森に向かった。
森に着くと、しばらくは自由時間になった。子供たちは、いくつかの仲良しグループに分かれ、思い思いに遊び始めた。木登りをしたり、追いかけっこをしたり、木の実を拾い集めたり。花をつんで花輪を作っている女の子たちもいる。でも、エルはその中にはいなかった。
森の奥まった方角から、子供たちの元気のよい声が聞こえてくる。
「うにっ!」
「きゃっ!」
「あははは、命中!」
「もう、痛いじゃないの!」
「だめだよ、当たったら、十数える間は動いちゃいけないんだぞ」
茂みから木陰へ、切り株の後ろから倒木の裏へと子供たちが走る。それをめがけて、「うに!」という叫びとともに、ちくちくととげが生えた茶色の木の実が投げつけられる。
エルも、下生えのなかにいくらでも落ちている“うに”を拾い集めては、スカートをたくし上げてかかえ、“敵”の姿を追っては夢中になって投げつけている。
かれらがしているのは、ザールブルグ伝統の遊び、“うに合戦”だった。これを遊ぶと、誰もが切り傷やすり傷だらけになるので、大人たちは眉をひそめるのだが、子供たちはいくら注意されてもやめようとはしない。もっとも、注意する側の親も、昔は夢中になって遊んでいた時代があるのだから、半分は仕方ないと思っているのかも知れない。
「はあ、はあ・・・」
半時ほど、夢中になって“うに合戦”に熱中していたエルたちは、息をはずませて、森の中の広場に集まった。
「ああ、面白かった。こんな楽しい遊びがあるなんて、知らなかったわ」
金髪の長い髪とリボンをくしゃくしゃにして、ローザが言う。ローザは貴族のマクスハイム家の娘で、普段はおしとやかにしているのだが。親が見たら目を丸くするだろう。
「おう、おまえ、なかなか才能あるな。見直したぜ」
ガキ大将格のハンスが、感心したように言う。ハンスはフローベル教会の孤児院にいるが、親のいない寂しさなど、つゆとも感じさせない。
「あ〜あ、いっぱい遊んだら、おなかすいちゃったわ」
「そうだな。それじゃ、お昼にしようか」
他にも、雑貨屋の息子フランツ、ケシ農家の跡取フェル、花屋の娘アンナなど、“うに合戦”に参加していた子供たちは、丸くなって座り、お弁当を広げた。
ランドージャムのサンドイッチをほおばりながら、エルが言う。
「ねえ、帰ったら、教会でお祈りをするんだよね」
「うん。あれ、つまんねえんだよな。神父さんの話を聞いたり、聖歌を歌ったりさ」
フランツが答える。
「でも、それをがまんしてれば、その後はパーティーさ。ごちそうがたくさん食べれるんだぜ」
フェルは言うと、家から持って来たしぼりたてのシャリオミルクを飲みほした。
「そうだ! 面白いことを思いついたぞ!」
ハンスが叫んだ。
「みんな、ちょっと耳貸せ」
言うと、こそこそとささやきかける。
「ええっ!?」
小さく驚きの声があがる。
「な、面白いだろ」
「でも・・・」
アンナがためらいがちに口を開く。
「そんなことして、怒られないかしら」
「そりゃあ、怒られるさ」
ハンスは平気な顔で言う。
「でも、よく言うじゃないか。“エアフォルクの塔も、みんなで上れば怖くない”ってさ。な、やろうぜ」
「よし、じゃあ、おれ、みんなに声をかけてくるよ」
フランツが立ち上がると、他のグループがお昼を食べている方へ歩いていった。
エルも、サンドイッチを食べ終わると、ハンスの“計画”にわくわくしながら、“うに”を拾い集めにかかった。

ピクニックは、事故もなく無事に終わった。もちろん、切り傷、すり傷、打ち身、虫刺されなどはいくらでもあったが、そんなことは事故のうちには入らない。
子供たちはフローベル教会の礼拝堂に入り、祭壇近くに設けられた席に行儀よく座っていた。
その背後の一般席にも、次々と人々が集まりだしている。
エルの両親、アイゼルとノルディスも、姿を見せた。めざとく見つけたエルが、振りかえって手を振る。アイゼルは元気そうな娘の姿を見てほっとし、ノルディスと微笑みを交わして席についた。
ここでも、子供たちと同様、集まってくる人々は身分や地位を問わず、種々雑多だった。たくましい腕をした製鉄職人の隣に、高級なドレスをまとった貴族の奥方が座っていたりする。年によっては、国王自らが出席する時もあるが、今年はブレドルフ国王はいないようだ。その代わりなのか、王国秘密情報部のゲマイナー卿が、奥方と一緒に、片隅の席にひっそりと身を置いている。
パイプオルガンの荘重な音色が、教会の中に響くと、人々のざわめきがやんだ。
クルト神父が、説教台に進み出る。オルガンを弾いているのは、筆頭シスターのエルザだ。
賛美歌が歌われ、一同は女神アルテナに祈りを捧げる。そして、クルトがアルテナ聖書の一節をひもとき、女神の慈悲と恵みについて講話をする。
子供たちの席では、いつもならあくびをかみころす子や、退屈で身体を揺らす子などがいるものだが、今回はみんな姿勢を正して、一心に聞き入っているように見える。
「妙だな・・・」
一般席から前方を見やったゲマイナーがつぶやいた。
「どうしましたの、あなた?」
ヘートヴィッヒがささやくように尋ねる。
「おとなしすぎるんだよ、今日のこどもたちは。どうも不自然だ・・・」
それは、長年鍛えられたゲマイナーの勘だったのだろう。
クルト神父は、いつも唱えている最後の言葉で講話を締めくくろうとしていた。
「アルテナ様のご加護が、ありますよ・・・」
「うに!!」
語尾に重なるようにして、子供たちが一斉に叫んだ。そして、祭壇に向かって、ポケットから取り出した“うに”を投げつける。
肩や頭をちくちくした実がかすめ、クルトはあわてて説教台の陰へ隠れた。
数十個の“うに”が、祭壇に当たってはじけ、埃が舞う。子供たちの歓声があがる。
一般席の大人たちは、唖然として身動きもできない。
いちばん最初に反応したのは、オルガンを弾いていたエルザだった。
振り向きざま、修道服をひるがえして説教台の上へ上ると、両手を腰に当てて子供たちをにらみすえた。
「こらあっ! あんたたち、なんてことをするの! いたずらにも程があるわ。今から、アルテナ様に代わって、エルザおばちゃんがみっちりお説教してあげるわ。こら、そこ、よそ見しない!」
エルザの説教は30分以上続き、とりあえず(表面上だけでも)悔い改めた子供たちは、祭壇の回りを掃除させられた後、怒りと恥ずかしさに震える両親に引き渡された。(罰として、パーティーは無期延期となった)
エルも、目をつりあげたアイゼルに引きずられるようにして家に帰り、部屋に閉じ込められて、夕食抜きを宣告された。
でも、ノルディスが、「ママに内緒だよ」と言ってチーズケーキを差し入れしてくれたので、エルは飢え死にせずに済んだのだった。


〜エルローネの日記−1〜

きょうは、アルテナさまのおまつりだった。
ピクニックのあと、きょうかいで、みんなでおいのりをした。
おともだちも、いっしょだった。
ちょっとみんなでいたずらをしたら、ママにおこられた。
でも、おもしろかった。
また、やりたいな。


Episode−2

冬の、ある日のこと。
アイゼルが買い物かごを手にしているのを見て、エルが言った。
「あ、ママ、どこかおでかけするの?」
アイゼルはにっこり笑って答えた。
「ええ、『職人通り』まで買い物に行こうと思って。エルも行く?」
「うん! いっしょに行く!」
ザールブルグ・アカデミーの上級研究員であるノルディスは、アカデミーに仕事に行っており、留守だ。同じくアカデミーで講師をしているアイゼルだが、今日は彼女が担当する授業はない。
アイゼルは、鍵を確かめると、エルの手を引いて、石畳の道を『職人通り』へと向かった。
途中、中央広場を通り過ぎる。
広場では、今日もキャラバンが店開きしており、南の国の陽気な音楽に乗って踊り子が見事な舞いを見せ、軽業師が人間とも思えないような宙返りを披露している。珍しい異国の果物や装飾品を売る屋台がところ狭しと並び、呼び込みの声がにぎやかに聞こえてくる。
好奇心旺盛なエルは、なにか気になるものを見つけるたびに、アイゼルの手を離れてはちょこちょこと走って行ってしまうので、アイゼルは気が気ではない。
「もう! エルったら。どこへ行くのよ」
言ってみても、エルはどこ吹く風だ。
「ねえ、この果物、なんて言うの?」
「わあ、きれいな石!」
「見て見て! あんな高いところに人がいるよ!」
「あ、占いだ! ねえママ、占ってもらっちゃダメ?」
どこまでも元気なエルに、アイゼルは圧倒されそうだったが、なんとか母親としての威厳を保ち、きっぱりした口調で宣言した。
「わかった! わかったから、まず先にお買い物を済ませてしまいましょう。さあ、『職人通り』へ行くわよ」
『職人通り』も、中央広場に劣らず、にぎやかで喧騒に満ちていた。
「ねえ、ママ、どこでお買い物するの?」
「まず最初はエリーのところよ。それから、片手鍋に穴が空いちゃったから、製鉄工房で修理してもらうの」
「わあ、エリーおばちゃんのところへ行くんだね」
エルははしゃいだ。
「こら。“おばちゃん”なんて呼ぶと、またエリーがむくれちゃうわよ。お世辞でも“おねえちゃん”て呼んであげなさい」
言いながら、アイゼルはくすっと笑った。アカデミーで同期生だったエリーは、長かった旅から戻って、今は昔のように『職人通り』で工房を開いている。アイゼルと同い年なのだから、エルに“おばちゃん”と呼ばれても仕方ないはずなのだが、エリーはいつまでも若いつもりでいるらしい。
(そりゃまあ、エリーはいつまでも子供っぽさが抜けないものねえ)
アイゼルは心の中でつぶやいた。
幸いなことに、エリーは工房にいた。
「わあ、アイゼル、いらっしゃい。あ、エルちゃんも一緒なんだね」
エリーは、にこやかに出迎えてくれた。お手伝いの妖精に言って、お茶の用意をさせる。
お世辞にもあまり片付いているとは言えない作業場から工房の2階へ移り、3人は午後のお茶のひとときを楽しんだ。
「ところでエリー、例のものはできていて?」
とりとめのない世間話がひとくぎりつくと、アイゼルは用件を切り出した。
「あ、うん、できてるよ。じゃあ、下へ行こうか」
階下へ下りると、エリーは緑色をしたガラス壜をアイゼルに渡した。中には、なにやらどろりとした液体が入っている。
「でも、アイゼルも知ってると思うけど、これの効果はそんなに長続きしないよ」
「わかってるわよ。だからあたしが、これから改良するんじゃない。ノルディスのためですもの。絶対に素晴らしいものにしてみせるわ」
「それなら、いいけど・・・。あれ、エルちゃんは?」
エリーがきょろきょろとあたりを見まわす。
工房の奥、木でできた作業台に向かっている小さな姿が目に入った。
ところ狭しと並んだビーカーやフラスコを興味深そうに見つめている。
「ふうん、やっぱり錬金術に興味があるのかな? 血は争えないね」
エリーがアイゼルを振りかえった時だ。
エルは、作業台の上にあった赤い液体が入ったフラスコをひょいと持ち上げ、中身の液体を、そばにあった青い液体のビーカーにあけようとした。
「エル! さわっちゃだめ!」
アイゼルが叫んだが、遅かった。
ボフッ・・・と鈍い爆発音がして、煙が吹き上がる。
「エル!」
「大丈夫!? エルちゃん!」
エリーとアイゼルが駆け寄る。振り向いたエルは、顔をすすで真っ黒にしていたが、けがや火傷はないようだ。
エルは、緑色の瞳を大きく見開き、ぽつりとひとこと言った。
「あ〜、びっくりした」
アイゼルは、ハンカチでエルの顔についたすすをぬぐい、ケガがないことを確かめると、ほっとして胸に抱きしめた。
「もう! 心配させるんだから!」
そして、エリーに向き直り、きっとした口調で言う。
「エリーもエリーよ! 子供の手の届くところに、危ない薬品なんか置いておかないでちょうだい!」
「そんなあ・・・。子供を連れてきたのは、アイゼルじゃない」
「そんなもこんなもないわ! 工房の管理責任ってものがあるんですからね」
(それじゃ、親としての子供の管理責任はどうなるのよ・・・)
とエリーは思ったが、口に出すのはやめた。口では、どうやってもアイゼルにはかなうはずもない。
エリーをにらみつけていたアイゼルの目が、ふっと和んだ。
エルの頭をなで、
「それにしても、いきなり薬品を爆発させるなんて・・・。やっぱりもらった名前が悪かったのかしら?」
エルローネという名前は、アイゼルにとって恩人でも友人でもあるふたりの錬金術師、マルローネとエリー(エルフィール)にちなんで付けられたものなのだ。
「そうだね。でも、エルちゃんって、錬金術の素質はあるよ、きっと」
エリーが言い、親友同士は笑い合った。それをきょとんとエルが見つめていた。

エリーの工房を辞したアイゼルは、エルを連れて『職人通り』の2丁目へ向かった。目的地は、カロッゾ製鉄工房である。
ずっと昔、シグザール王国が他国と戦争を繰り返していた頃には、この『職人通り』の一帯は、鍛冶屋や製鉄工房であふれかえっていたそうだ。しかし、世の中が平和になり、武器の需要が少なくなってくると、製鉄工房は次々と閉鎖したり商売変えを余儀なくされた。有名なファブリック製鉄工房も今はなく、鍛冶屋や鋳掛け屋は、数えるほどしかない。
その中で、カロッゾの店は、3代続いている鋳掛け屋である。
アイゼルが店へ入ると、店番のカロッゾ老人が、膝の上に猫を抱いて気持ち良さそうに居眠りをしていた。
「あ、あの・・・」
そっと老人を揺り起こす。
「ん・・・。ああ、いらっしゃい」
カロッゾが身動きすると、膝の上の猫も身体の向きを変えた。
「あ!」
最初に気付いたのはエルだった。
みゃあ、というかわいい声とともに、小さな子猫が母猫の陰から顔をのぞかせたのだ。
「わあ、子猫だ! かわいい!」
エルがそっと手を出すと、その茶色の毛をした子猫は、のどを鳴らしてエルの腕に上ってきた。
「わあい!」
エルは子猫を抱き、頬ずりする。子猫は目を細め、みゃあ、と鳴いた。
「ほほう、どうやら、お嬢ちゃんはその子猫に気に入られたようじゃのう。お母さんの用が済むまで、遊んでいるといい」
カロッゾ老人は、にこにこして言った。
「ねえ、この子、何て名前なの?」
エルが尋ねる。
「いや、つい先日に生まれたばかりでのう。まだ名前をつけておらんのじゃよ」
「なんだか野暮ったくてぱっとしない猫ね。まるでエリーみたい」
アイゼルの言葉には遠慮がない。
エルはその言葉を聞いて、目を輝かせた。
「そうだ! じゃあ、この子の名前、エリーにしようよ。うん、決めた!」
「エリーか。なかなか、よい名じゃな」
カロッゾ老人は鷹揚にうなずく。
片手鍋の修理が終わるまでの間に、エルと子猫のエリーは、すっかり仲良くなっていた。


〜エルローネの日記−2〜

ママと『しょくにんどおり』へ、おかいものにいった。
カロッゾさんのおみせで、こねことあそんだ。
エリーって、なまえをつけてあげた。
ふわふわして、とってもかわいかった。


Episode−3

「エル、ちょっといい?」
「はあい、ママ、なあに?」
「今日は、ちょっとママのお手伝いをしてくれない?」
「うん、いいよ」
「それじゃ、こっちへ来て」
と、アイゼルは実験室へとエルを連れていった。自宅でも錬金術の研究をするために、ノルディスとアイゼルが共同で使っている部屋だ。危険な薬品も置いてあるので、普段はエルは立ち入り禁止になっている。
エルは、棚に並んだ様々な色のガラス壜やランプ、天秤などを、目を丸くして見つめている。
ノルディスは、今日もアカデミーへ出かけて、留守である。
アイゼルは、声をひそめてエルに言った。
「今日はね、パパにあげるプレゼントを作ろうと思うのよ。ほら、来月は、パパの誕生日でしょ。ふたりでプレゼントを作ってあげて、パパをびっくりさせてやりましょうよ」
エルは、目を丸くしたままうなずいた。
アイゼルは、乳鉢をエルに渡すと、棚の布袋から蒸留石の固まりを取り出した。
「さ、エルはこれをすりつぶしてほしいの。トンカチで細かく砕いた後、この棒を使って、すりつぶすのよ。粉になったら、蒸留水と中和剤を混ぜれば超純水ができるからね・・・あ、でも、こんなこと言っても、まだエルにはわからないわね」
「うん・・・。わからなけど、わかるよ。『れんきんじゅつ』なんだね」
「そうよ。それじゃ、始めてちょうだい。気をつけて、他のものには触らないようにするのよ」
「うん、わかった」
エルは、穴だらけの軽い石を手に取ると、言われた通りに砕き、すりつぶし始めた。
アイゼルは分厚い書物を開くと、ひとりごとを言いながら、目を走らせ始めた。
「ええと、『緑のアロマ』を作る準備はできたわね。たぶん、この薬品の作り方を応用すれば、持続力を付加することができるはず・・・。だから、このレシピの、これをあれに変えて・・・」
母娘で協力しながらの作業は、ノルディスに気付かれないように、何日も続けられた。

そして、2月11日。
その日、アイゼルもノルディスも仕事だったが、アイゼルは一足早く帰宅し、ささやかなお祝いの席の仕度を整えた。
そして、疲れて帰ってきたノルディスを待っていたのは、暖かい晩餐と、妻と娘の笑顔だった。
「パパ、お誕生日おめでとう!」
「おめでとう、ノルディス」
「え・・・? ああ、そうか、今日、ぼくの誕生日か」
ノルディスは頭をかいた。
「もう! 研究に夢中になって自分の誕生日を忘れるなんて、ほんと、ノルディスらしいわ」
アイゼルは笑いながら、ノルディスのグラスにワインを満たした。
笑い声と会話がはずむ中、夕食を終えると、アイゼルがエルに目配せした。
エルが、テーブルの下から、小さな紙包みを取り出す。きれいにラッピングされ、リボンで結ばれている。そして、エルとアイゼルからのカードが添えられていた。
「はい、パパ、誕生日プレゼントだよ。ママとエルで、一緒につくったんだよ」
エルが満面の笑みを浮かべてプレゼントを差し出す。アイゼルが拍手する。
ノルディスは赤くなりながら、受け取った。
「ありがとう。開けてみてもいいかな」
「ええ、どうぞ」
包みを開けると、ガラス壜が出てきた。中には、薄い緑色をいた澄んだ液体が入っている。
ノルディスは、いぶかしげな顔をした。薬品なのだろうが、こういう色のものは見たことがない。
「何かな、これ?」
エルが答えようとする。
「えっとね、それはね、じ・・・じ・・・ええと、何だっけ?」
助けを求めるようにアイゼルを見る。アイゼルが代わって答える。
「『持続性育毛剤』よ。参考書に出ていた『持続性栄養剤』を、ラフ調合してみたの。原材料はエリーが作った育毛剤だけど、効果はずっと持続されるはずよ」
アイゼルは、にっこり笑ってノルディスを見た。
「へ・・・? 育毛剤・・・? あ、ああ、ははは」
ノルディスは、笑っていいのか怒っていいのか、きわめて複雑な表情を浮かべていた。


〜エルローネの日記−3〜

きょうは、パパのおたんじょうびだった。
ママといっしょにつくった、ぷれぜんとをあげた。
パパは、ちょっとあかくなっていた。
でも、『いくもうざい』って、なんだろう?


Episode−4

季節はめぐり、春が訪れていた。
その日はアカデミーは休みで、ノルディスとアイゼルは、久しぶりに夫婦そろって買い物に出かけた。もちろん、エルも一緒である。
『職人通り』に着くと、エルはアイゼルの服の裾を引いて、言った。
「あたし、エリーと遊んでくる!」
「え? エリーと? 突然行ったら、仕事の邪魔になるんじゃないかな」
眉をひそめるノルディスに、アイゼルは笑いながら言った。
「違うわよ、ノルディス。エルが言ってるのは、カロッゾさんのところの、猫のエリーのことよ」
「なんだ、そうか。いいよ、エル、行っておいで」
「お買い物が済んだら迎えに行くから、いたずらしないで待っているのよ」
「はあい、行ってきま〜す!」
エルはとことこと、人ごみの中を駆け出していった。
相変わらず、カロッゾ老人は母猫を抱いて、居眠りをしていた。
その足元で、茶色の毛の玉のように丸くなって寝ているのが、エリーだった。
初めて出会った時から数ヶ月が経ち、すっかり大きくなっている。
エルがそっと呼ぶと、エリーの耳がぴん、と立った。
続いて、ゆっくりと目を開ける。
「エリー、おいで!」
エルがもう一度呼ぶと、エリーはあくびをし、大きく伸びをした後、のろのろとエルに近付いてきた。
「もう、エリーってば、お寝坊さんね! 外はいい天気よ、散歩に行こう!」
エリーを抱き上げて、エルは製鉄工房の外に連れ出した。
もとより、そう遠くまで行く気はない。
だから、その事件が起こったのは、まったく不運な偶然というしかなかった。
角を曲がったとたん、エルは地面に寝ていた大きな野良犬の尻尾を踏んづけてしまったのである。
犬はびっくりして、エルに吠えかかった。
そして、エリーはもっとびっくりした。
びくっと震えると、一声鳴いて、エリーはエルの腕から逃れ、ヨーゼフ雑貨屋の方へ、一直線に逃げ出した。
その方向に、『職人通り』の共同井戸があった。
犬の吠え声にパニックを起こした猫のエリーは、ぴょんとジャンプして、石造りの井戸の縁を飛び越え、そして・・・井戸の中へ落ちていった。
「エリー!!」
後を追って、その光景を目にしたエルは、悲鳴のような叫びを上げた。
あわてて、井戸に駆け寄る。だが、井戸の縁は高く、エルの身長では、覗き込むこともできない。
エルは泣き叫んだ。
忙しげに行き交う人々の流れが、つと止まる。買い物途中のおかみさんや、届け物を運んでいる商人の丁稚などが、泣いている女の子を振りかえる。
(あららら、あんなに泣いて・・・。きっと迷子になったんだねえ、かわいそうに)
(親は、いったい何をしているのかしらね。きっと買い物に夢中になっているのよ。自覚がないことおびただしいわね)
(ちょっと、誰か、王室騎士隊に知らせた方がいいじゃないのかい)
そんなささやきが交わされるうち、エルに声をかける人も現われた。
「お嬢ちゃん、どうしたんだい? 迷子になったのかい?」
「名前は? 何ていうんだい?」
それでも、エルは声にならない声をあげて泣くばかりだ。
「エリーが・・・エリーが・・・」
人々が、事情をのみこめないままに、数分が過ぎた。
「すみません、ちょっと通してください」
女の子が泣いている、という噂を聞いて、もしやと思ったノルディスとアイゼルがようやく到着したのだ。
母親の姿を見て、アイゼルはわあっと泣いて抱きついた。
迷子が親と会えたんだ、よかったよかった・・・と、取り巻いていた人垣は崩れ、人々は再び自分の目的に向かって歩き出した。
しかし、エルにとっては、事態はまったく解決してはいなかった。
アイゼルの胸に顔をうずめ、しゃくりあげながら、切れ切れに訴える。
「助けて・・・。エリーが、井戸に・・・」
娘の背中をさすりながら、なだめていたアイゼルも、ようやくエルの言葉に耳を傾けられるようになった。
ノルディスと顔を見合わせる。
「猫が、井戸に落ちたって・・・!?」
ノルディスが身を乗り出して井戸を覗きこむ。
井戸の底は暗く、何も見えない。しかし、耳をすますと、かすかに猫の鳴き声が聞こえるような気がした。
「大丈夫、生きているみたいだ」
父親の声に、泣き止んだエルが、決意に満ちた表情で井戸に近付く。
「あたし、助けに行ってくる!」
「だめよ! ばかなこと言うんじゃないの!」
アイゼルがあわてて娘を抱き寄せる。
「だって、このままじゃ、エリーが・・・」
再び、エルが涙声になる。
エルの肩に、ノルディスの手が置かれた。
「よし、助けに行こう、エル・・・」
びっくりしたようにエルが見上げる。アイゼルも唖然としている。
「ちょっと待って、ノルディス、そんな・・・」
「ただ、少し、準備が必要だ。アイゼル、ぼくが戻って来るまで、エルをなだめておいてくれるね」
言うと、ノルディスは足早にその場を離れた。

いったん自宅に帰ったノルディスが、井戸のところに戻って来たのは、30分ほど後のことだった。
今では、事情を聞いた街の暇人たちが、井戸の周りを取り巻いて、あれやこれやと声高に話し合っていた。
ノルディスは、手になにやら布を折りたたんだようなものを持っている。
エルは、アイゼルに寄りそうようにして、心配そうな表情で待っていた。
ノルディスは、もう一度、ランプを手に井戸を覗きこんだ。底までは、深すぎてランプの光も届かない。ただ、ランプの灯に気付いたのか、訴えかけるような猫の鳴き声ははっきりと聞こえた。
「よし!」
ノルディスは、娘を振り向いて、力強く言った。
「さあ、エリーを助けに行こう」
そして、持ってきた布のようなものを広げる。
「ノルディス! それって・・・」
アイゼルが叫ぶ。
ノルディスは落ち着いた口調で言う。
「そう、『グラビ布』で作った服だよ。空を飛ぶことまではできないけれど、身体を空中に保っておくくらいはできる。これを着れば、井戸の底まで無事に下りていけるはずさ」
「でも・・・! 効果が思ったように発揮されなかったら・・・」
「アイゼル・・・」
ノルディスはアイゼルの目を見た。
「ぼくたちの錬金術は、そんなに自信の持てないものなのかい? 違うだろう。ぼくたちは、依頼してくれた人の期待に十分に応えられる、それだけの物が作れる技術を持っているはずだ。だから・・・安心して、待っていてよ」
そして、ノルディスは『グラビ布』製の上着を着こみ、エルにも着せた。
エルにランプを持たせ、そのまま抱き上げる。
『グラビ布』の効果で、エルの重みをほとんど感じない。
井戸の縁に足をかけ、つるべのロープをつかむ。
そして、そのまま井戸の縁を蹴った。
ゆっくりと、ゆっくりと、ランプのオレンジ色の灯に包まれて、エルとノルディスは井戸の底目指して下っていく。
エルは、目を皿のようにして、下りていく先を見つめている。
みゃう・・・と、はっきりとした泣き声が聞こえた。
「エリー!」
エルが叫んだ。
みゃあ・・・と、応えが返る。
やがて、ふたりは水面のすぐそばまで着いた。
ノルディスが、足と背中を井戸の壁につけて、落下を止める。
子猫のエリーは、水面に半分沈んだ、つるべの先の桶の縁に前足をかけ、なんとか水の中に没するのを防いでいた。
エルが思いきり手を伸ばす。子猫も、身を伸ばすようにして、エルの腕に取りついた。
「やった!」
水にぬれた猫の体は、普段の倍もの重さに感じたが、エルはしっかりと抱きしめた。髪の毛や服がびしょぬれになるのも構わず。
「よし、じゃあ、上るよ、エル」
ノルディスが優しく言った。
「うん・・・。パパ、ありがとう・・・」
エルの頬は、先ほどまでとは別の涙でぬれていた。

井戸を取り巻いた野次馬たちから歓声が上がったのは、そのすぐ後のことである。


〜エルローネの日記−4〜

こねこのエリーが、いどにおちてしまった。
たすけにいこうとしたら、ママにとめられた。
でも、パパがたすけるのをてつだってくれた。
エリーは、ぬれてたけど、げんきだった。
よかったね、エリー。

<おわり>


<付録>

−<持続性育毛剤・レシピ>−
育毛剤『海藻』1.0
緑のアロマ1.0
ハチミツ1.0
中和剤(緑)1.0
ろ過器・遠心分離器を使用

−<グラビ布・レシピ>−
グラビ結晶2.0
フォルメル織布1.0
中和剤(緑)1.0
裁縫道具を使用


○にのあとがき>

「ふかしぎダンジョン」の55000HIT、ジャスト申告がありませんでしたので、54997番を踏まれた理珈さんにリクエスト権を差し上げました。で、いただいたお題が「エルローネとお父さん」。
ん? エルローネって、誰だっけ。と数秒。ああそうかと思い出して、更に、お父さんって誰よ? と、こちらはJ10秒以上考え込んでしまいました。存在感薄いぞ、ノルよ・・・(哀)。
改めて説明しますと、うちの勝手な設定ではアイゼルとノルディスはマイスターランク卒業後に結婚し、一人娘がいることになっています。その娘の名がエルローネ。エリーとマリーのふたりから名前をもらったものです(その辺の経緯は、こちらをお読みください)。
そんなわけで、今回はエルローネちゃんの生活を中心に、“ザールブルグの日常”というテーマに挑んでみたのですが・・・(目標は山形さんの「南からの留学生」の、あの雰囲気)。どうも思うようにはいかなかったようで。
ちなみに、今回登場したカロッゾ老人というのは、「リリー」でヨーゼフ雑貨屋の張り紙に「かわいい子猫を差し上げます」と掲示していた、職人通り2丁目の住人です。


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