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灰色の貴婦人 Vol.1


神暦75年(精暦1074年)――。

まばゆい陽光が、悠久の大地にふりそそいでいる。
はるか天空から大地を見下ろせば、そこは緑なす平原が広がり、うねうねとくねり流れるいく筋かの大河がきらきらと光りつつ生命の源を運んでいる。さらに大地に近づけば、色とりどりの花を咲かせた無数の草が、風にうねり海のように波うち、じゅうたんのように地上をおおっている。広大な草原のそこここに、互いにかなりの距離をおいて、地面から湧き出したかのように見えるでこぼこした積み木細工のかたまりのようなものが散らばっている。その輪郭は、あるいは円く、あるいは四角く、大きさもまちまちである。それらを結んで、銀の糸のように見える細い筋がいくつも、あるいはくっきりと、あるいは途切れ途切れに、緑の大地を縫うように走っている。
積み木細工のかたまりのひとつひとつが村や町であり、銀の糸はそれらを結ぶ街道であった。
この地は、そこで生活する者からは、ただ“中原”と呼ばれていた。
もちろん、この世界には“中原”以外にも様々な相貌を持つ土地が存在している。現在の生ある者がひとりとして足を踏み入れたことすらなく、ただ伝説の中で語られるだけの場所も、枚挙にいとまがない。北の果ての大雪原、永遠に燃え続ける火の山、巨大なる竜の棲まう谷、あらゆる生き物を侵す瘴気が立ち込める湿原、打ち捨てられた地下帝国、この世の法則が通用せずただ混沌のみが支配するという暗黒の地・・・。
だが、それらについて語られるのは、まだ先のこととなろう。

“中原”の東南に向かって伸びる、ひと筋の銀の糸。それはサラエム街道と呼ばれていた。
このあたりでは、大地をおおう草原の中に転々と、ねじくれた外見の潅木が混じり始める。そして、街道から南を見はるかせば、草の波の向こうに地平線の代わりに盛り上がる、黒々とした深い森林地帯の前縁を目にすることができるだろう。ここは、“中原”の南端に近いところであった。
そのサラエム街道を、とぼとぼと南に向かって歩いてゆく小さな人影がある。
風とほこりをよけるためか、薄汚れた布のマントで身体をくるみ、大きめのスカーフで顔と頭をおおっている。スカーフは、もともとはきれいな赤だったのだろうが、何度も洗いざらしにされたためか、縁はほつれてすり切れ、全体がしらっ茶けたまだら模様になっている。スカーフの下からはみ出た茶褐色の髪は、何日も洗っていないかのようにくしゃくしゃだ。
人影が歩を進める先で、街道はふた筋に分かれ、一方の道は南へ、もう一方の道は東へと伸びている。
その三叉路に面して、大きな道標が立っている。その脇の、草原がわずかにくぼんだ場所にはこんこんと泉が湧き出ており、ここを通るさして多くはない旅人たちが手や顔を洗い、のどを潤すのに役立っていた。
だが、人影は三叉路の手前で街道をはずれ、少し離れたところに湧き出ている小さな別の泉のほとりに降り立った。
“中原”は水に恵まれた土地で、草原のそこここに自然の泉が湧き出ている。ほとんどの場合、水は冷たく澄み、旅の人々にひと時の休息を与えてくれる。が、中には毒の泉や魔法をかけられたものもあり、そのような場合には旅人に害をなすこともある。三叉路のところの泉の水は安全なはずだが、この旅人はどのような理由によってか、そこを避けて安全性も定かでない別の泉に向かったのだった。
マントとスカーフで身をくるんだその旅人は、顔を上げて周囲を見回す。しばらく聞き耳を立てるようにじっとしていたが、やがて危険はないと判断したのか、泉の岸辺にしゃがみこんだ。
昼日中だから、このあたりに邪悪な魔の物が出没する可能性は少ない。だが、ここまで辺境に来ると、白昼堂々、旅人を襲う野盗や山賊もいるという。用心するに越したことはない。
ごそごそとマントの陰で身を動かすと、左手に下げたバスケットが見えた。バスケットに右手を突っ込んで中をかき回すと、金属製のマグカップを取り出す。泉に身をかがめて慎重に水をすくうと、これもバスケットから取り出したガラス瓶から中身の粉末をわずかにカップの水に落とす。
しばらくそれを見つめた後、旅人は得心がいったのか、ひとつうなずくとスカーフを取り去った。それまで狭いところに押し込められていたうっぷんを晴らすかのように、茶色の巻き毛がふわりと広がる。土ぼこりにまみれてぼさぼさだが、髪の一本一本は絹のように細く、豊かに波打っており、ちゃんと手入れされればそれなりに見栄えがいいだろうと想像できる。
マントをはずすと、髪の毛と同じような色合いのブラウスとスカートが現れた。どちらも厚手の布地で作られており、風と日差しの双方を防げるようになっている。スカーフと同様、元の色が何色だったのかも判断に迷うくらい、色はさめて薄汚れている。しかも小柄な身体に比べてサイズがひとまわり大きいようだ。スカートは裾が地面に届くほど長く、ブラウスは余った部分を襟元で重ねてピンで留め、だぶだぶになった裾を、まとめて腰のところで大雑把に結んである。
旅人は、乱れた髪をなでつけようともせず、そのまま水際に広げた両手を突いて、顔ごと泉の中にざぶんと浸した。しばらく、冷たい清水の感触を楽しむかのように首を軽く左右に動かしていたが、やがて息が続かなくなったのか、不意に顔を上げ上体を起こすと、
「ぷはあ!」
と大きく息をついた。
そして、おもむろにスカーフの裏側を使って、濡れそぼった顔をごしごしとぬぐう。スカーフの表面は草の切れ端やほこりがこびりついていたが、裏の布地はまだしもきれいなのだ。
「ふう・・・いい気持ち。生き返ったー!」
鈴の音のようなかわいらしい声と共にスカーフの影から現れたのは、まだ子供と言ってもいいあどけなさの残る少女の顔だった。
顔をぬぐい終わった少女は、再び身を乗り出して、鏡のように澄み渡った水面を覗き込んだ。水面に映る自分の顔を、じっと見つめる。
どちらかと言えば丸顔で、青緑色をした大きな瞳が目立つ。鼻は高くはないが形はよく、くちびるはやや厚めでふっくらとしている。全体的にどことなくおっとりとしており、見る人を安心させるような顔つきだ。土ぼこりで灰褐色のまだらになっていた肌は、清水に洗われ、きめこまやかで透き通るような白に変わっていた。
しばらく水面を凝視していた少女は、凝り固まっていた顔の筋肉をほぐすように、顔の表情をいろいろと変え始めた。眉をひそめ、しかめ面をしたかと思うと、口をとがらせてあごをぷいと上げ、怒ったようににらむ。びっくりしたように目を見開き、口をぽかんと開けたかと思えば、次の瞬間にはすまし顔で流し目をくれてみせる。あごを引き、うらめしそうな上目遣いをした直後に、脅えたようにおどおどとうつろな視線をさまよわせる。最後に、小首をかしげ、きょとんとした目つきをして、軽く半開きにした口元に微笑を浮かべて見せた。
「よし!」
満足した様子で百面相を終えると、少女はマントを広げた上に腰を下ろし、バスケットから取り出したビスケットのかけらをかじりながら、泉の水をマグカップに汲んで何杯も飲んだ。
座ったまま上体だけで大きく伸びをすると、あらためて周囲を見回す。
三叉路の脇の道標に目をとめると、少女はゆっくりと荷物をまとめ、立ち上がると道標の方へ歩を進めた。相変わらずビスケットをかじりながら、マントはたたんで手に持ち、スカーフだけを元通りに着けている。三叉路に着くと、ビスケットをほおばった口をもごもごと動かしながら、スカーフの縁を跳ね上げて、道標を見上げた。
垂直に立った一枚岩に彫られた道標は、少女の身長をはるかに越えており、上の方に彫られた文字を読みとるためには、頭をそらして見上げなければならなかった。岩の道標には、三方向に向かう別々の矢印が刻み付けられている。戦争以前からそこに立てられていたものらしく、風雨にさらされ、文字はすり減っていたが、判読するのは難しくはなかった。
矢印のひとつは、北――少女がやって来た方向を向き、ただひとこと『中央へ』と案内が添えられていた。反対の南を向いた矢印には『エルド砦』と記されていたが、ここの文字の上には血を思わせる赤黒い塗料で大きな×印が書きなぐられ、不気味な髑髏の絵が描き足されていた。さらにその周囲には、読むに堪えない冒涜的で猥雑な無数の落書きが、これでもかというほど執拗に書き連ねられていた。
そして、最後の、東を指す矢印には『サラエム』という文字が添えられている。ここには南向きの矢印のような落書きはなかったが、それ以上に大きな毒々しい文字で、

『異人・亜人の立ち入りを禁ず』

とはっきりと記され、文字の傍らに断頭台と火刑台の絵が描いてあった。この禁令を犯した者がどのような運命に見舞われるかは明瞭だ。
しばらくその文字と絵をじっと見つめていた少女は、口元をわずかにゆがめて笑みを浮かべると、小さく肩をすくめる。そして、器用にマントをはおると、東へ向かうくねくねとした道を歩き出した。
その所作は、この年齢の少女のものとは思えないほど大人びたものだった。


「ふあああ、退屈だな」
ステファンはぼやいた。
相棒のジークと一緒にこのサラエムの町へ流れ着いてから、もう何ヶ月になるだろうか。
“ちょいとほとぼりを冷ますだけ”のつもりで身を隠したのだが、路銀も底をつき、町の自警団に雇われて外門を守る仕事についている。
サラエムは、他の多くの“中原”の町と同じく、城壁に囲まれている。岩を組み上げて造られた頑丈な壁は、戦争以前にさかのぼるものだ。だが、肝心の門は戦争で焼かれ、今はありあわせの廃材で作られた粗雑な両開きの扉がすえられているに過ぎない。ちょっとした軍隊が破城槌を持って攻め寄せてくれば、すぐに破られてしまうだろう。しかし、そんな軍隊はもはやどこにも存在してはいない。
門柱脇の石壁にだらしなくもたれ、ステファンは大きなあくびをした。兵士らしからぬ不摂生な生活を続けているせいか、身長に比べて横幅が広く、身につけた胸当てと腰当ての隙間から、たるんだ腹の肉がはみ出している。頭はつるつるのスキンヘッドだ。戦士としての凄みを増すためだとは本人の弁だが、傭兵仲間の間では、若ハゲを隠すためではないかとまことしやかに噂されている。
「よう、ジーク・・・。ちょっと、一服してきてもいいかな」
反対側の門柱の方を向き、声をかける。
しっかと両の足で大地を踏みしめ、腕組みをして不動の姿勢をとっているジークが、目だけをステファンに向けた。鷹のように鋭い視線がステファンをかすめる。
「好きにするといい」
感情のこもらない口調で低く言うと、すぐに視線を西の街道の方へ戻す。
ステファンとは対照的に、ジークは長身痩躯、ぜい肉のかけらもない研ぎ澄まされた外見をしている。褐色の髪を短く切りそろえ、口を固く引き結んだその姿には、一点の隙もない。
あきれたようにそれを眺め、ステファンが言う。
「なあ、俺が言うのも何だけどよ・・・。もうちっと、その、楽をしようとか思わねえのかい? いつもそんなふうにピリピリしててよ。そんなこっちゃ、人生、楽しくねえだろう」
ジークは再び、目だけで相棒を見た。そして、答える必要もない、というように、すぐに視線を戻した。
「ああ、はいはい、わかってるよ、余計なお世話だってんだろ。じゃあ、仕事熱心なあんたに任せて、俺は休憩してくるぜ」
身を起こして、門の中へ向かおうとしたステファンを、ジークが鋭い身振りで制した。
「待て」
「ん? 何だい」
「客だ・・・」
「何だって」
ステファンはあわててジークの視線を追い、目を凝らした。
サラエムの外門は、西に向かって開いている。サラエム街道がその方向に伸びているからだ。
傾きかけた陽光に照らされた街道に、ぽつんと小さな影が見えた。ゆっくりと、こちらへ近づいてくるようだ。逆光になっているので、その姿ははっきりとはわからない。
「おい、まさか・・・」
不安げに身じろぎし、ステファンは腰に差した剣の柄を握りしめる。
まだ日は天空にあるとはいえ、ここは辺境の地だ。白昼に魔界の生き物が出現して人間を襲ったという噂は後を絶たない。
そんなステファンを冷ややかに見下ろし、ジークは微動だにせずに言った。
「心配するな・・・。邪気も殺気もない」
「へ、そうかい。こういう時は、あんたがいてくれると心強いぜ」
ふたりが言葉を交わしている間に、人影は近づき、その様子が見分けられるようになった。ステファンやジークと比べると小柄で、茶褐色のマントとフードですっぽりと身体をおおっているように見える。
「けっ、さえねえなりをしてやがる。大方、食いっぱぐれた坊さんか、どこかの町を夜逃げしてきた商人だろうぜ」
吐き捨てるようにステファンが言う。
ジークはじっと目を凝らしていたが、やがてつぶやくように言った。
「相変わらず、お前の目は節穴のようだな・・・」
「何だって?」
「あれは、女だ」
ジークの言葉に、ステファンは口をあんぐりと開けて、近づいてくる人影を見つめた。
やがて、目をぎらつかせ、舌なめずりするような口調で言う。
「ちっとは楽しめそうだな」


サラエムの町を囲う城壁が、大きく目の前に広がっていた。
ずっと背中を西日にさらし、マントに身を包んで歩き通しだったために、少女の身体はじっとりと汗ばんでいた。風に舞う土ほこりを浴びて、顔もうっすらと汚れている。早く町に入って、水浴びでもしたい気分だった。もっとも、サラエムの町に女性が安心して水浴びができるような施設があるかは定かではなかったが。
まだ日暮れ前なので、町の門は開かれていた。
近づくと、門の左右に衛兵が立っているのが見えた。ひとりは背が高くやせており、もうひとりはずんぐりとした体つきをしている。どちらも、使い古されたような皮鎧を身につけており、腰に長剣を手挟んでいる。
門まで10歩ほどのところまで着くと、ずんぐりした方の男が進み出て、身振りで止まるように命じた。男のスキンヘッドは脂ぎってぎらついており、その目にはどろどろした剣呑な光が宿っている。
仕方がない。これも、新たな町へ入る時の入信儀礼のようなものだ。試練ではあっても、そう長くは続かない。
少女は足を止め、不安げに体重を左右の足に移し変えながらたたずんだ。
「よし、まずは、そのかぶりものを取ってもらおうか」
警戒してなのか、数歩離れたところから男が命令する。少女はマントの陰から右手を出し、ゆっくりとスカーフを取り去った。
「なんでえ、まだガキじゃねえか」
半分がっかりしたように男が言う。少女は一瞬、顔を上げて男の顔を見たが、すぐに目を伏せて地面に 視線をさまよわせた。
男は安心したのか、すぐそばまで近寄り、なめるように少女の顔を覗き込んで、言った。
「次は、マントの下を見せてくれ。武器を持っていないことを確かめたいんでな」
少女は少しためらってから、マントの止め具を外そうとした。手先が震え、数回試みてからマントが外れる。ぎこちない手つきでマントを丸めると、右手に抱えた。左手に提げたバスケットがゆらゆらと揺れ、少女の心中の不安を表しているかのようだ。
男は一歩下がって、上から下まで少女の身体をねめつけるように見た。
そして、澄ました口調で言う。
「よし、武器は持ってないようだな。それじゃ、鑑札を見せてもらおうか。鑑札がなけりゃ、町には入れない規則なんでな」
背後から見ていたジークは、軽く舌打ちした。ステファンは、明らかにこの旅人をいたぶって楽しんでいる。町に入るのに鑑札が必要だという規則など、戦前から残っている名目上のものに過ぎず、今では守られることなどない。この辺境の地でちゃんとした鑑札を持っている者がいるとすれば、聖職者か軍人か、中央の正式なギルドに加入している商人や職人だけだ。もちろん流れ者のジークもステファンも、鑑札など持っていない。だいたい、鑑札が持てる身分なら、最初からこんな辺鄙な場所にやって来たりはするまい。
少女はきょとんとした顔でステファンを見上げ、小首をかしげてつぶやくように言った。
「鑑札・・・? 何それ・・・。わかんない・・・」
それを聞いたステファンは、両手を広げ、大仰に驚いて見せる。
「何だと? そいつは困ったな。鑑札を持ってないとなると、あんたの身分を証明するものは何もないってわけだ。ひょっとしたら、あんたは人間に化けた魔物かも知れねえなあ・・・」
ずいと進み出る。
「ちょいと確かめさせてもらうぜ」
言いざま、ステファンの無骨な手が伸びて、ブラウス越しに少女の胸をわしづかみにした。
「きゃっ」
小さく悲鳴をあげた少女は、身をよじって逃れる。足をもつれさせて転び、その拍子にバスケットのふたが開いて、中身がぶちまけられてしまった。櫛やマグカップ、ガラス瓶や裁縫道具などがころころと転がり、石畳の路上に散らばる。
「ああ、確かに女にゃ違いねえ。だが、まだまだ発展途上だな。それにしても、生娘にぶち当たるのは、久しぶりだぜ」
下卑たにやにや笑いを浮かべながら、ステファンが言った。
「どうだ、町へ入れてやる代わりに、俺の宿舎へ来ねえか。いろいろと教えてやるぜ、女の悦びってやつをよ」
少女は地面に倒れたまま両手で胸をかばい、目をぎゅっと閉じていた。
胸をつかまれるのが不意打ちだったので、一瞬、心に張り巡らした障壁が崩れてしまった。その時、垣間見た光景は、二度と見たくもないようなものだった。
こいつは、下司野郎だ。だが、最低の、というわけではない。もっとひどい情景を、何度も見ている。
「そのへんにしておけ」
少女の耳に、別の声が聞こえた。
目を開けると、もうひとりの男が冷たい視線を下司野郎に向けていた。
「いいじゃねえか、固いこと言いっこなしだぜ、ジーク」
「相手はまだ子供だ・・・。つっこみたいなら、その辺の壁の穴にでもつっこんでろ」
即物的なものの言い方だが、効き目はあったようだ。しぶしぶとステファンが言う。
「ちっ、わかったよ。まったく、堅物のあんたとつるんでると、損することが多いぜ」
ジークと一緒だったおかげで何度も命が助かったことがあるのを、ステファンは都合よく忘れていた。
少女はのろのろと起き上がると、散らばった小物を拾い集め始める。
「おい」
ジークがステファンに言う。
「なんだよ」
「手伝ってやれ」
ステファンはむっとした顔をしたが、ジークの氷のような視線にさらされると、不承不承、身をかがめて、遠くへ転がっていっていたカップやガラス玉のようなものを拾い上げた。
「ほらよ」
少女はひったくるように受け取ると、大切そうにバスケットにしまいこむ。
他に拾い残したものがないか確かめるように周囲を見回すと、少女は物問いたげな上目遣いでジークを見上げた。
「ああ、もう行っていいぞ」
少女の青緑色の目を見たジークは、初めて少女の左右の瞳の色調が微妙に違っているのに気付いた。
ぺこりと頭を下げて門内へ向かおうとする少女に、ジークが呼びかける。
「待て」
少女が振り返る。
「腹が減っているなら、セルヌーム教会へ行け。町の南側にある」
「セルヌーム・・・教会・・・」
小首をかしげ、少女がつぶやく。その視線はジークを通り過ぎ、どこか遠くを見ているかのようだった。
「けっ、ご親切なことだぜ」
あざけるような口調でステファンが言うが、ジークは無視した。
ジークを見上げる少女の顔からこわばりが取れ、おずおずとぎこちない笑みが浮かぶ。
「へっ、少しここが足りねえんじゃねえか」
自分の頭を指差し、ステファンが言い捨てる。お楽しみを邪魔されたせいか、ステファンの憎まれ口は収まりそうにない。
ジークは、ふと気付いて、言った。
「そうだ、名前を聞かせてくれ。これは、規則だからな」
ステファンが自己流に捻じ曲げて解釈した“規則”ではないと暗にほのめかすように、ジークは相棒に流し目をくれる。町に出入りする人間の名前を記録しておくことは、衛兵としての最低限の義務だ。
「アリス・・・。アリス・マルリオン」
少女はゆっくりと言うと、にっこりと微笑んだ。


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