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灰色の貴婦人 Vol.2


サラエムの門の内側へ入り込むと、アリスは足を止め、ひとつ息をついた。
石の側柱の向こうからは、まだステファンがぶつぶつ悪態をつく声が聞こえてくる。心ならずも垣間見てしまったおぞましい光景と共に、アリスはその声を心から締め出した。
あらためてマントをはおり、スカーフで頭と顔を深くおおう。初めての町では、目立たないに越したことはない。
足元から伸びた石畳の街路は、まっすぐ町の中央へ繋がっているようだ。アリスはゆっくりと歩を進めながら、人目を引かない程度の動きで左右に目を配り、様子をうかがった。
路上には、ほとんど人の姿はない。街路の両側に並ぶ家々も、粗末な木造で古ぼけたものが多く、壁は好き放題に落書きがされていたり、なにか鋭くとがったもので殴りつけられたかのようなぎざぎざの傷が無数に走っていたりする。道端には崩れた瓦礫が転がり、窓から投げ捨てられたと思われる生ごみが山となって異臭を放っている。やせこけた野良猫がごみの山に顔を突っ込むようにして餌をあさっていたが、アリスが近づくと、威嚇するようにひと声うなって、路地に逃げ込んだ。
中央広場に向かったアリスは、ねっとりと張り付くような視線が背後から注がれているように感じていた。特に悪意があるわけではないが、よそ者の闖入を非難し、値踏みするような、いくつもの視線。町全体が息をひそめて、新来者の行動を監視しているかのようだった。
だが、閉鎖的な辺境の町では、さほど珍しいことではない。
中央広場はさほど広くはないが、円形で、そこから町の各所へ通じる八本の道が放射状に伸びている。東西南北に走る四本は広く、残りは狭い。アリスが歩いてきたのも、西の外門からつながる広い方の一本だ。広場の中心には池が作られており、神々の姿を模したかと思われる石像が立っていたが、その上半身はもぎ取られたようになくなっている。これも、いまだに残る戦争の傷跡のひとつだろう。修復する者もいないに違いない。池は自然の泉の周囲に石を積み上げて作ったものらしく、縁からあふれた水がちょろちょろと広場の石の継ぎ目に沿って小さな流れを作っている。
その流れを避けるように、ぼろきれのかたまりのようなものがいくつも広場に横たわっていた。酸っぱい臭いや腐ったアルコールのような臭気が漂ってくる。アリスはそれらに近づかないように迂回して歩き、視線も向けないようにした。彼女の気配を感じたのか、身じろぎし、むっくりと起き上がる者もいる。予想通り、それは住む家すら持たないホームレスたちだった。日当たりのいい昼の間は広場で過ごし、夜は路地裏や廃屋へでも消えるのだろう。
アリスは注意深く歩いて広場を一周し、それぞれの街路をうかがった。しかし、どの道も似たようなもので、荒廃と退廃のにおいしかしなかった。
このままあてもなく町の探検を続けるよりは、どこかで情報を求めるべきだろう。それに、雨風をしのぐための当面の場所と、食い扶持稼ぎの手段も見つけなければならない。
とにかく、サラエムまでやって来たのだ。“黒き森”に最も近い町へ。ここで手がかりが見つからなければ、他のどこでも発見することはできまい。
「セルヌーム教会・・・か」
衛兵ジークの言葉を思い出して、アリスはつぶやいた。


シスター・セリーヌは、夕べの礼拝を簡単に終えると、作業に戻る前に、いつもの癖で祭壇を振り仰いだ。
月光を象徴する光背をまとった女神セルヌームの簡素な像が、変わらぬ暖かな慈悲の微笑をたたえてシスター・セリーヌを見下ろしている。背後をながめ渡せば、さして広くはない礼拝堂に並んだ木のベンチの列が、座る者もなく寒々とした姿をさらしている。西側の窓は、沈み行くエニッサスの光を浴びてまぶしくきらめいているが、そこにはめ込まれたステンドグラスは吹きさらしの風雨に汚れて色あせ、埃がこびりつき、図案化して描かれた神々の姿も霧に包まれたかのようにぼやけてしまっている。
いつか、時間に余裕ができたら、シスター総出でステンドグラスを磨きなおさなければならないわね・・・。
シスター・セリーヌはぼんやりと思った。だが、そのような時間の余裕がもたらされることは永久にないだろうということも、半ば諦めのように感じていた。
とにかく、ここサラエムには、助けを求めている人々が多すぎるのだ。救いをもたらさなければならない魂は、その数倍にも及ぶだろう。現実に、病に倒れ希望を失っている人々にささやかな食事と薬を与え、絶え間ないいざこざや喧嘩騒ぎで傷を負ったり手足を失った連中を手当てし、それらの努力も及ばずに天に召された人を弔う・・・。そのような仕事の繰り返しで日々は過ぎ去り、彼女がこの場所に赴任してから何年が過ぎたのか、もはや思い出せないような気がしていた。60歳の誕生日をささやかに祝ってもらったのが、この地の教会であったのか、前任地ヤンナガールの教会でのことだったのか、それすらも記憶の彼方であった。
だが、それはシスター・セリーヌが老いて衰えているということを意味しているのではない。過去に思いをはせれば、未来への扉は閉ざされてしまう。昔を思いわずらうようなことはせず、今、目の前にあるなすべきことに全力を尽くすこと・・・それがシスター・セリーヌの処世訓であり、その信念がなければ、サラエムのような町で若い未熟なシスターたちを取りまとめ、教会を運営していくことは不可能だったろう。
正面扉が開くかすかなきしみ音と共に、扉と連動したベルが鳴った。本来なら月光のように澄んだ音色で鳴るはずだが、油の差し方が足りないのか、その音は月に黒雲がかかったかのようにざらついている。 わずかに開いた扉の隙間から、小柄な人影がためらいがちに入ってくるのに気付いて、シスター・セリーヌはゆっくりと進み出た。またひとり、誰かがセルヌームの慈悲にすがりにやって来たのだ。けが人か、病人か、あるいは無一文で行き所のない旅人か・・・。そして希望すらも失った迷える魂か。
「あなたに祝福を。セルヌームはすべての民を受け入れます」
形どおりの挨拶の言葉を口にしながら、シスター・セリーヌは苦い思いをかみしめていた。
かつて、この言葉は言葉どおりの意味を持って使われていた。しかし、戦争後、“すべての民”は“すべての人間”と同義になった。人間と異なる種族は排斥され、恐怖と憎悪の対象となった。それに異を唱えて戦前と同様にあらゆる種族に慈悲を与えようとした一部の教会は焼き討ちに遭い、シスターらも悲惨な最期を遂げたという。
もしも、今、入ってきた相手が人間以外の種族だったとしたら、自分は同じ気持ちでこの言葉を使えるだろうか。
シスター・セリーヌは自問したが、納得のいく答えは出せなかった。
入り口のすぐそばで、落ち着かなげにたたずんでいた新来者は、シスター・セリーヌが近付くと、ゆっくりとマントを脱ぎ、頭と顔を深くおおっていたスカーフを取り去った。
シスター・セリーヌの足が止まる。
(まあ、なんてこと・・・。女の子じゃないの!)
シスター・セリーヌも小柄だが、相手はもっと小さかった。薄汚れた地味なブラウスとスカートをまとっているが、サイズが合わないのか、だぶだぶだ。左腕に通して持ったバスケットを守るかのように胸の前で手を組み、おどおどした様子でうつむいている。ふわふわした茶色の巻き毛が、自己主張するかのように大きく広がっていた。
シスター・セリーヌは、小さな子を相手にする時と同じように、しゃがみこんで下から少女を見上げた。微笑みを浮かべて、優しく話しかける。
「よく来てくれたわね。お腹が空いているんじゃないかしら?」
すぐに名前をきいたりどこから来たのかを尋ねたりするのは、愚の骨頂だ。それでは、相手の心を開くことはできない。町を支配している自警団とか称する荒くれどもがやっていることと同じになってしまう。
確かに、シスター・セリーヌはとまどっていた。こんな少女がサラエムの町に来るなど、信じられない。いや、こういう少女はサラエムの町にいてはいけない。
少女は、一瞬だけシスターと目を合せたが、すぐに視線をそらし、こくりとうなずいた。
シスター・セリーヌは、少女の瞳が深い青緑色をしているのに気付き、どきりとした。
(なんて澄んだきれいな瞳・・・。この子、きっと美人になるわ・・・)
だが、何事もなく成長できればのことだ。意地悪く留保条件をつけて考えている自分に気が付いて、シスター・セリーヌは心の中で苦笑した。
「奥へいらっしゃい。ここでは、落ち着かないでしょう? 座って、食事ができる部屋へ行きましょう。大丈夫、セルヌーム教会には、あなたに悪いことをする人はいないわ」
先に立って、少女を導くように歩き出す。
闇を浄化する月光の青白い色を模した修道服をまとったシスター・セリーヌは、民草を導く女神セルヌームの化身のような優しさを見せて、少女の警戒心を解きつつ、通路を進む。少女はかすかに好奇心を見せ、きょろきょろとあたりを見回しながら、後に続いた。
祭壇脇の戸口を通って、裏の小部屋へ向かおうとした時、反対側の戸口から、若手のシスター・マルグリッドが顔を出した。若手とは言っても、もう40に近い。シスター・マルグリッドは額から左の頬にかけて、赤黒い火傷の跡がある。“マリアの館”で料金の支払いをめぐって口論になった流れ者から、ぐらぐらに煮立ったやかんの熱湯を浴びせかけられたのだ。それ以降、マルグリッドは“館”での春をひさぐ商売に見切りをつけ、セルヌームに帰依したのだった。
「あの・・・。シスター・セリーヌ、準備ができましたので、出かけようと思いますが」
日暮れ前の1日1回、パンとスープのささやかな食事を、中央広場でホームレスらに振る舞いに行くのだ。数人のシスターが、交代で行っている。
「あ、ご苦労様ね。でも、その前に、食事をひとり分、奥の間に用意してくれないかしら?」
年かさのシスターの傍らにいる見知らぬ少女に気付いたシスター・マルグリッドは目を丸くしたが、黙ってうなずくと、厨房の方へ戻っていった。余計なことを口にしないだけの分別は身につけている。


祭壇の裏に作られた小部屋のひとつにしつらえられたテーブルに着き、アリスは木のスプーンを忙しく動かして、木のボウルに注がれた薄いスープをがつがつと口に運んでいた。
スープの具は、煮くずれたイモと野菜くずが中心で、肉類と思われるものは痕跡程度しかない。だが、滋養には富んでいるようだ。何種類かの薬草のエキスが入っているのだろう。
右手でスプーンをせわしなく動かしながら、左手で持ったパンをかじる。木の実をほおばったリスのように頬をふくらませ、口いっぱいになった食べ物をぐいと飲み下す。のどに詰まりそうになって目を白黒させると、部屋の隅で目立たないように優しく見守っていたシスターが、カップの水を手渡してくれる。
正直なところ、アリスはこれほどまでにがっついた態度を取るほど空腹だったわけではない。
初対面の相手の猜疑心を緩め、安心させるには、相手が自分に期待し、予想している態度と行動を取ることだ。
小部屋の壁は暖かな色調に塗られ、あまり上手とは言えない草花の絵が描かれていた。代々のシスターが、訪れる人の心を少しでも和ませようと、これらを描いたのだろう。
アリスがボウルを空にし、パンのかけらで舐め取るように残ったスープをぬぐうと、シスターがよい香りのするハーブティの入ったポットと2脚のカップを運んできて、自分もアリスの傍らに腰を下ろした。
シスターは、正方形の小さなテーブルの、アリスから見て左側に座った。正面に座らないのは、相手に緊張感を抱かせないための配慮だ。近付きすぎず、距離をとりすぎず・・・。経験を積んだシスターは、人間心理の機微を心得ている。
このシスターは、いい人だ。
アリスは思った。直接に触れなくとも、そのことは感じられる。
勧められるままに、アリスはハーブティをすすった。
ぬくもりを全身で感じ取ろうとしているかのように、ティーカップを両手でかかえる様は、ねぐらをなくした小鳥がようやく安心できる巣を見つけたかのようだ。
「もう一杯、いかが?」
シスターが微笑みながら、ポットを持ち上げて見せる。
アリスは、ぎこちなく笑みを浮かべて、うなずいた。
「さあ、どうぞ」
ハーブティを注ぎながら、シスターは不意に思い出したかのように言った。
「あ、ごめんなさい。自己紹介していなかったわね。わたしはシスター・セリーヌよ」
決して押し付けがましくない、計算を超えて身に着いたさりげなさだ。
湯気をたてるカップに視線を向けていたアリスは、ちらっと上目遣いにシスター・セリーヌの顔を見て、つぶやくように言った。
「アリス・・・です」
「そう・・・。いい名前ね」
単なる社交辞令のようには感じられなかった。シスター・セリーヌの言葉には、ひとつひとつに心がこもっている。
アリスの心が和んだとみて、シスター・セリーヌはもう一歩、踏み込むことにした。
「アリス・・・。もしよかったら、年を教えてくれるかしら」
さあ、ここだ。
アリスはしばらく、落ち着かない様子で視線を宙にさまよわせていたが、やがて伏目がちにおずおずと答える。
「ええと・・・、20歳です」
「そう・・・」
シスター・セリーヌはうなずいた。
この子は、ばかではない。それなりの、世渡りの知恵は心得ているようだ。
だが、サラエムでは、生半可な知恵は破滅を招きかねない。
シスター・セリーヌは優しい口調をくずさず、だがきっぱりと言った。
「アリス・・・。こちらを見て」
うつむいていたアリスが、勇気を奮い起こすように、ゆっくりと目を上げる。青緑色をした瞳は、心なしかうるんでいるようだ。
アリスの目を覗き込んだ瞬間、シスター・セリーヌはめまいに似た感覚を味わった。はるか昔の記憶が、心をよぎる。それは、彼女がまだ別の名前で、別の世界に暮らしていた頃の記憶だった。きらびやかなドレスをまとって贅沢な食事をし、毎日が偽りの輝きに満ちていた日々の記憶。世界に理不尽なことや悲惨な出来事、不幸な人々など何ひとつ存在しないと思い込んでいて、純粋無垢という美名の下に隠れた無知という名の罪悪を身にまとっていた時代。
その頃、彼女はアリスと同じ、青緑色の瞳をした少女に出会った。
だが、記憶のゆらぎは一瞬後には消え去り、シスター・セリーヌは内心の動揺を押し隠してアリスの瞳を見つめた。
「ここでは、偽りの仮面をかぶっている必要はないのよ、アリス。確かに、他の場所ではそういった方便も使い道はあるのかも知れないけれどね。でも、それは自分を偽ることになり、場合によっては危険な立場に自分を追い込むことになるの。さあ、正直に本当の年齢を教えてちょうだい」
「じ・・・16、です」
今にも泣き出しそうな顔をして、かすれた声でアリスが答える。
「そう・・・。それでいいわ」
シスター・セリーヌはうなずき、心の中で会心の笑みを浮かべた。
セルヌームの導きのおかげで、心を開かせることができた。これで、この少女の魂も救われるだろう。
だが、シスター・セリーヌは、アリスも胸の中で同じ笑みを浮かべていることには気付かなかった。
“偽りの仮面”か・・・。いい表現だ。仮面をひとつ外して見せれば、相手はその下から現れたのが素顔だと思い込んでしまう。特に、その仮面を外させたのが自分の力によるものだと思わせれば、完璧だ。
仕上げに、アリスは問わず語りに、これまでの旅の様子をぽつりぽつりと話した。一人旅の孤独や、遠くから聞こえる野獣の咆哮に怯えた野宿の夜、荒野でながめた夕焼けの美しさ・・・など。だが、核心に触れられる質問を招くような内容はひとつもなかった。
身寄りもなく、行き場を失って放浪の果てに辺境の町サラエムに流れ着いた、よるべない少女。
シスター・セリーヌは、すっかり納得していた。

「さて、あなたをどうしたものかしらね」
シスター・セリーヌは、軽く腕組みをしてアリスを見やった。
既に日は暮れかけており、小部屋のランプには灯が入っていた。
「あなたさえよければ、しばらくは教会にいても構わないのだけれど。・・・もちろん、それなりの仕事はしてもらいますけどね」
そして、早めに信用できる人間を見つけ、この町から連れ出してもらうことだ。町の害毒に染まる前に・・・。だが、そもそも信用できる人間など、この辺境の町に存在するだろうか。
シスター・セリーヌの問いかけに、しばらく真剣な表情で考え込んでいたアリスは、顔を上げた。
「あたし・・・、働きたい・・・です。お掃除とか、お洗濯とか・・・、お料理もできます。でも・・・」
そこで言葉を切り、思いをめぐらすように、視線を宙にさまよわせる。
うつむき、くちびるをかんだ後、もじもじと身じろぎをし、消え入りそうな声で、つぶやく。
「でも、教会は・・・、ちょっと・・・」
この親切でエネルギッシュな老女の下で、シスターの真似事をするのも悪くはないだろう。だが、シスターの生活には規律や制約が多い。自由に行動できる時間は限られてしまう。この際、それは避けたかった。
シスター・セリーヌは、鷹揚にうなずいた。人には誰しも事情がある。信教の自由は、尊重されなければならない。
「そう・・・。でも、困ったわね。他に、あなたが働けるようなところがあるかしら」
いちばん最初に頭に浮かんだ名前を、シスター・セリーヌは即座に打ち消した。“マリアの館”は、常に働き手を求めている。だが、あそこにアリスをやることなど、できはしない。下働きという名目で雇われたとしても、すぐに別の仕事をやらされる羽目になるのは目に見えている。若くみずみずしい身体は、それだけで極上の商品になるのだ。たとえ、まだ幼さが残る少女であっても。いや、それだからこそ。
軽いノックの音が響き、小部屋のドアが開いて、シスターがひとり、顔をのぞかせた。
「戸締りが終わりました、シスター・セリーヌ」
「ああ、シスター・アンナ、ご苦労様。変わったことはない?」
「はい・・・。ただ、書庫にまだ、お客様がひとり、残っていらっしゃいます」
「お客様・・・?」
シスター・セリーヌが眉をひそめた。
「いつもの、若い男のかたです。“貴婦人亭”に泊まっておいでの・・・」
「ああ、あの人ね」
2週間ほど前にサラエムを訪れたその青年は、セルヌーム教会が所蔵している歴史書や年代記を閲覧したいと申し出て、以来ずっと毎日、朝から晩まで教会の書庫にこもっているのだった。
シスター・セリーヌの目が光った。
“貴婦人亭”・・・。あそこなら、何とかなるかも知れない。
ハルト・ホフマンは品性も知性も高いとは言えないが、そんなことはサラエムでは珍しいことではない。重要なのは、彼はサディストでも強姦魔でもないということだ。酒に酔っての暴力沙汰はしょっちゅうだが、シスター・セリーヌが知る限り、女性に手を上げたことはない。金銭的理由からあまり足しげく通っているわけではなさそうだが、“マリアの館”でも悪い評判は立っていない。
ただ、あそこには別の問題がないこともないが・・・。
「アリス・・・。もしかしたら、働き口を紹介してあげられるかも知れないわ」
シスター・セリーヌは、迷いつつも口を開いた。他に選択の余地はない。
「街の東に“貴婦人亭”という宿屋があるの。あそこで、住み込みのメイドを募集していたはずよ」
(まあ、年がら年中、募集中なんだけどね)
と、心の中で付け加える。
アリスの顔が、ぱっと明るくなった。
「あ、ありがとうございますぅ。さっそく、行ってみます」
舌足らずだが、元気な口調で答える。
シスター・セリーヌは、すぐにでも飛び出して行きそうな少女を押しとどめ、
「今日は、もう遅いわ。今夜はここへ泊まっていきなさい。明日の朝、宿の主人に紹介状を書いてあげる。ただ・・・」
「ただ・・・?」
アリスはきょとんとして、シスターの次の言葉を待つ。
シスター・セリーヌは、極力さりげない口調を保って、続けた。
「あなたが、幽霊とかを苦手でなければいいのだけれど」
「はあ?」
アリスが、ますます目を丸くする。シスター・セリーヌは、誰かに聞かれるのを恐れるかのように、声をひそめた。
「出るのよ、あそこには・・・。灰色のドレスをまとった、貴婦人の幽霊がね」


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