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灰色の貴婦人 Vol.4


少しばかりパワーを使って、うっとうしいハルトの視線を追い払った後、アリスはのんびりと湯で背中を流し、長旅で溜まった疲れと垢を落とした。昨夜、泊まったセルヌーム教会では、井戸水で顔と手足を洗うことしかできなかったので、全身で温かい湯をかぶるのは何ヶ月ぶりになるのかわからないほどだ。人目を気にすることなく、背中から腹から腰から、体中をくまなくごしごしとこするのは、それだけで至福だった。
「大丈夫みたいね・・・。よぉし、やっちゃえ」
髪の毛をまとめていたスカーフを取ると、茶色の巻き毛がふわりと広がる。アリスはシャボンをつけて髪の毛をごしごしとこすった。手桶に汲んだ湯で髪にまとわりついた泡を洗い流すと、湯は泥水のように茶褐色に染まる。水分を含んで倍以上の重さになった豊かな髪は、支えるだけでも首の筋肉が疲れるほどだ。
「ふう・・・」
満足げにため息をついて風呂桶を出る。
犬のように首を振って、髪にまとわりついた湯を振り払うと、アリスは眉をひそめて、姿見に映る自分をながめた。
うっとりするほどの体形というには程遠い。それはわかっている。肌は真珠のようにつややかで白いが、余計な厄介ごとを防ぐためには、なるべく露出を避けなければならない。顔や手足の先など、むき出しにならざるを得ない部分は、白さを目立たせないよう細工する必要がある。
そして、最大の問題は、この豊かな巻き毛だ。シャボンで茶色の染料が洗い落とされた髪は、きらびやかな黄金色の輝きとなって、姿見の上半分を埋め尽くしている。
生まれついての金髪――これがアリス最大の悩みの種だった。これだけは、何があろうと隠し通さなければならない。人目の多い町で暮らすからには、慎重に慎重を期さなければ。
いっそ、髪をすべて剃ってしまって、鬘を使った方が楽なのではないか――そう考えたこともないではない。だが、それはできない相談だった。顔も知らぬ父親から受け継いだ、ただひとつのしるしでもあるのだから、失うわけにはいかない。
丹念に髪をぬぐって水分をふき取ると、再びドアの外をうかがう。人の気配はない。ハルトは何が起こったかもわからず、痛む目を押さえて帳場の指定席に縮こまっているのだろう。
部屋の隅に置いたバスケットから褐色の液体が入った小瓶を取り出す。中身を手にたらすと、姿見をながめながら、漏れが無いよう細心の注意を払って髪の毛にすり込んでいく。
やがて、アリスは“貴婦人亭”へやって来た時と同じ、茶色い巻き毛の髪の、野暮ったい少女へと戻った。
湯と火の始末を終えると、アリスは使用人部屋から持って来ておいたメイド服を身にまとった。
紺色を基調に、白のフリルが目立つ。このようなデザインは、中央でも辺境でもあまり変わりがない。というよりも、サラエムが中央と同じように豊かだった時代の遺物なのだろう。
丈はぴったりだったが、前の持ち主は豊かな肉体の持ち主だったのだろう、特に胸の部分がぶかぶかで、頼りないことおびただしい。
アリスは腹立たしげに、姿見に映る小柄でやせっぽちのメイドをにらんだ。童顔とメイド服が相まって、なおさら幼く見える。
「見てらっしゃい、いつか、あたしだって・・・」
まだまだ成長途上にあるのだと言い聞かせて、自分を慰めた。

「あの・・・。お待たせ、しました」
小走りに玄関前の広間に戻ると、アリスは口ごもりながら、おずおずとハルトに声をかけた。
「あ、ああ」
ハルトは水に浸した布を右目に当てていた。
鈍くさい娘だという印象を強めるため、アリスはかなり身支度に時間をかけていたので、怒鳴られるか嫌味のひとつも言われても仕方がないと思っていた。しかし、先ほどの一件がこたえているのか、ハルトは頭痛がぶり返したかのような冴えない表情をしている。
(まあ、冷やすのは二日酔いにも効くしね)
意地悪くアリスは思ったが、表情には出さない。
「ええと、あの・・・。あたし、どうしたら・・・?」
両手を前で組み合わせ、小首をかしげ、不安げな表情で上目遣いに主人を見やる。指示を待つ姿はいかにも頼りなげだ。
ハルトは顔をしかめ、左目でねめつけるようにアリスをにらむと、不機嫌そうに鼻を鳴らす。右目に当てた布を取ると、周囲が赤く腫れているのがわかった。思ったより湯の温度が高かったらしい。
(やり過ぎちゃったわ、ごめんなさい)
アリスは心の中でぺこりと頭を下げた。
ハルトは何か言おうとしてせき込み、ぺっと痰を吐き捨てた。
最優先で痰壺を用意すること、とアリスはあらためて心に書き留める。
ソファから身を起こそうともせず、ハルトは獣のようにうなった。
「ああ・・・? やることは決まってるだろう?」
「はい・・・でも、ええと・・・」
もじもじするアリスに業を煮やしたように、怒鳴る。
「掃除に床磨き、夕食の仕込み、シーツの洗濯に薪割り、やることはいくらでもあるじゃねえか。ぼさっとしてるんじゃねえ!」
「は、はい」
「仕事は自分で見つけるもんだ、言われたことだけやりゃあいいってもんじゃないぞ!」
(そう言うあなたはどうなのよ?)
思ったが、もちろん口には出さない。
恐れ入ったようにぴょこんとお辞儀をすると、あわてて道具部屋に向かう。
背後から、ハルトが声をかけた。
「おい、おまえ、さっき――」
「はい?」
振り返り、緑色の目をきょとんと見開く。
ハルトはしばらく、何か言いたげににらんでいたが、やがて目をそらすとソファに沈み込んだ。
「いや、何でもねえ。さっさと仕事をしろ」
動作はのろのろと、しかし内心は晴れ晴れとして、アリスは掃除道具を取りに宿の奥へ向かった。
これで、かなりの自由は確保できた。ハルトはメイドの仕事ぶりなど監視しそうにない。ポイントさえ押さえておけば、自分の調査にかなりの時間を割くことができそうだ。
まずは、2、3日中に、お礼を言うという口実でセルヌーム教会へ行ってみよう。シスター・セリーヌなら、このあたりの古い噂を知っているかも知れない。勉強したいという名目で(若い娘の勉学への意欲は、シスター・セリーヌを喜ばせるだろう)、書庫で古い文献を見せてもらうこともできる。
「あ、その前に、痰壺に使えるなにかを見つけなきゃ。それと、ドアに差す油ね」
三角巾を結び直して気合を入れると、アリスは“貴婦人亭”での初仕事にかかった。


翌朝、アリスは夜明けと共に起き出して、朝食の準備にかかっていた。
仕込みは昨夜のうちに済んでいる。半分はハルトがやってくれた。何しろ、肉の調達というのは宿のあちこちに仕掛けたネズミ捕りに掛かった獲物を回収したり、草ぼうぼうの裏庭でトカゲやヘビを捕まえることだったのだから。最初からあまり刺激が強すぎる仕事をさせて、逃げ出されては困ると思ったのだろう。ネズミを目にして真っ青になって見せただけで、ハルトは面倒くさそうな表情を浮かべながらも、厨房で自分で包丁を振るった。手馴れているらしく、手さばきはしっかりしたものだった。夕方になれば酔いがさめるということもあったのだろう。ともかく、「お前もそのうち、やらなきゃいけないんだぞ、ちゃんと飯にありつきたければな」と言いながら、ハルトは手早く下ごしらえをしてくれた。目を丸くし、怖ろしそうに見つめているアリスが内心で、過去に試してみたネズミ料理のレパートリーをいろいろと思い出していると知ったら、ハルトもたまげただろう。
スープを火にかけて煮込みつつ、お気に入りのメロディを口ずさみながらアリスはお茶の準備をする。常にお茶を絶やさないことというのが、2階に泊まっている“貴婦人亭”唯一のお客の注文なのだそうだ。朝食前にハーブティーのポットを届けるように、ハルトは厳命していた。もっとも、本人がちゃんとそれをしていたのかどうか、怪しいものだとアリスは思ったが。
昨夜、下ごしらえを済ませ、翌朝の仕事を指示すると、ハルトはそそくさと酒瓶を抱えて自分の部屋へこもってしまった。どうやら、シスター・セリーヌが話していた幽霊のことを、本気で怖れているらしい。だが、使用人部屋で眠ったアリスは、何も異変には気付かなかった。
きれいに洗ったティーカップとお茶が入ったポットを盆に載せると、アリスは厨房を出た。
朝の冷気がたゆたう廊下を進み、広間から中央階段をとことこと上っていく。宿泊客がいるのは2階のいちばん奥の部屋だ。
昨日は、その客と顔を合わせる機会がなかった。どんな人物なのか、早めに確かめておくに越したことはない。アリスとしては、未知の要素はできるだけ身の周りから取り除いておきたかった。
客間の扉の前で立ち止まると、左手で気取って盆を支え、右手で軽くノックする。
返事はない。
「返事がなかったら、お茶はそのまま廊下へ置いて来りゃいいぞ。あの客はいつ寝て、いつ起きてるんだか、さっぱりわからねえからな」
ハルトはそう言っていた。だがアリスは従う気はない。
もう一度ノックした後、間をおいてそっとドアを押してみる。鍵がかかっていれば諦めるつもりだった。
ドアはわずかに動いた。鍵はかかっていないし、かんぬきも下りていない。
だが、すぐに抵抗にあって動かなくなる。
(家具でも置いて、開かないようにしてあるのかしら?)
アリスは思ったが、そのような手ごたえではない。何か柔らかなものが包み込むように、向こう側からドア全体を押し返しているという感じなのだ。
(何だろう?)
ハルトの指示通り、お茶を廊下に置いて帰ろうかとも思った。しかし、好奇心が勝った。未知のものは、常に潜在的な危険要素だ。確かめておかなければ。
それに、今はドアの向こうに危険な気配は感じられない。
もう一度、押してみる。手の力の他に、パワーを少しだけこめてみた。
抵抗が強まり――そして、あっけなく消えた。
壁を突き破ったかのように、ドアは不意に音もなく開き、アリスは勢い余って盆を取り落としそうになった。あわてて心の触手を伸ばし、支える。さもなければ、床にハーブティーをぶちまけていたところだ。
ブラインドは下りておらず、カーテンを通して朝の光に照らされ、部屋の様子はおぼろに見て取れた。 室内はきちんと片付いていた。ここの客は滞在して2週間になるというが、部屋にはあまり生活感はない。アリスは足を忍ばせてサイドテーブルに近付き、空いた場所に盆を置いた。
テーブルには古ぼけたノートと何冊かの本が無造作に置かれている。何気なく本に目をやったアリスは、ひくりと身を震わせた。
この書物は――!?
はっとしてベッドを振り向く。
ベッドでは、きちんと毛布をかけ、部屋の主がすやすやと眠っていた。
年齢は20代半ばだろうか。褐色の髪と白い肌、やせぎすだが整った顔立ちで、冒険者という感じには程遠い。中央の貴族の書庫で目録作りをしている書生の方が似合いそうだ。少なくとも、サラエムのような辺境の町にいるようなタイプではない。それを言うなら、アリス自身も同じことなのだが。
アリスは思わず、青年の顔を覗きこむようにしげしげとながめた。触れたらどんなものが見えるだろうかと興味を引かれたが、危険は冒さないことにする。
ともかく、この青年には注意を向けておく必要がありそうだ。自分にとって危険な存在になるのか助けとなるのか、それはまだわからないが。テーブルの上の書物が本物だとしたら、両方かもしれない。
そろそろ階下へ戻ろうと、目をそらそうとしたとたん、青年の目がぱっと開いた。
アリスの目と同じような深みのある緑色の瞳が、至近距離からまじまじとアリスを見つめる。アリスもあっけにとられ、何の反応もできない。
「どうして――!?」
青年の口からかすれた声が漏れる。
アリスが返事できないうちに、青年は毛布をはねのけると、身を守るように腕を伸ばしてアリスを押しのけようとした。
「きゃっ」
青年の手が肩にかかり、アリスは小さな悲鳴を上げた。不意を突かれ、心が無防備なまま他人に触れられてしまったのだ。
だが、青年はアリスよりも動転しているようだった。
目を大きく見開き、攻撃されるのを防ぐように顔の前で両手をクロスさせ、口の中で何事かをつぶやいているようだったが、やがて、床にぺたんと座り込んで身をすくませているアリスに気付く。ぴりぴりと緊張していた青年の表情が、やや緩んだ。
青年は、枕元に置いてあった銀のフレームの眼鏡をかけると、左手で慎重に位置を整える。
そして、テーブルの端に置いてあった水晶球のようなものを取り上げると、じっと見た。
軽くうなずくと、冷静な目をアリスに向ける。早くも落ち着きを取り戻したようだ。アリスの方は、まだどぎまぎしている。
青年は、実験動物を観察するような目でアリスをながめ、口を開いた。
「あなたは・・・どうして、ここにいるのです?」
青年の問いには、幾重にも意味が重なり合っていたはずだが、アリスは気付かない。
「はい、え、ええと・・・」
床に座り込んだままではお客様に失礼だと思って、アリスはあわてて立ち上がった。ベッドに座った青年に向かって、ぺこりと頭を下げる。
「あ、あの・・・、あたし、アリスって言いますぅ。昨日から、ここの宿屋で、働くことになりました・・・」
伏せていた目を上げて、ちらりと青年を見る。青年は無表情だ。
「えっと・・・。ご主人から、朝一番で、お茶をお届けするようにって言われて・・・。で、あの・・・」
両手を組み、もじもじと口ごもる。
「それで、勝手に部屋に入り込んだというわけですか」
「その・・・ごめんなさい・・・。鍵が、かかっていなかったもので・・・」
「ふむ、鍵が・・・。そうですか」
青年は目を上げ、アリスの瞳を真っ向から見つめた。アリスは不安げに身じろぎする。青年の視線には、門番のステファンや亭主のハルトのような下劣なものは感じられない。かといって、シスター・セリーヌのような好意のこもった関心でもない。これまで、あまり出会ったことのないものだ。それがかえってアリスを怯えさせた。
青年はふっと息をつき、肩をすくめると視線をそらす。アリスもほっと息をついた。
「まあ、いいでしょう。ひとつだけ、言っておきます」
「は、はい・・・」
「私の許可なく、絶対に部屋には入って来ないようにしてください。掃除をしてほしい時は、事前にその旨、申し入れます。いいですね」
「わ、わかりました」
「まったく・・・。ガーディアンを置いていたら、ただでは済まなかったはずですよ・・・」
「はあ・・・?」
アリスはきょとんとして、小首をかしげて見せた。青年の最後の言葉は、ひとりごとのようだ。
「いえ、こちらのことです。――もう行ってください。必要な時は呼びますから」
言葉は丁寧だが冷たい口調で言うと、青年は犬を追い払うような仕草で手を振った。アリスは何度もぺこぺことお辞儀をしながら部屋を出る。

階下へ戻ると、アリスはいったん自分の部屋へ帰った。崩れるようにベッドに身を投げ出す。胸がどきどきし、足の震えを抑えられない。
いったい、どうしたというのだろう?
衣装箱を開け、昨日も探査したメイド服で試してみる。
昨日と同じものが見えた。ということは、自分の能力が消えてしまったわけではない。
では、やはりあの青年の側になんらかの理由があるのだ。
不意をつかれ、心の城壁を張り巡らす間もなく身体に触れられてしまったのだが、昨日のステファンの時とはまったく違っていた。
何も見えなかった。まったくの無だ。あの青年からは、アリスの心に何ひとつとして伝わっては来なかったのだ。
彼は、何者なのだろうか。
テーブルの上にあった書物も気になる。あのうちの一冊は、アリスが名前だけを頼りにずっと探し続けてきた、古い時代に書かれた本のひとつだ。持っているところをある種の人々に見つかったら、それだけで過酷な拷問を科され、処刑されてしまう可能性すらある。あんなものを無造作に机に放り出しておくとは、命知らずと言ってもいい。
それに、最後に青年がつぶやいていた“ガーディアン”という言葉――。あれは、普通の人々が知らない秘められた領域に、あの青年が深く関わりを持っている証拠に他ならない。
あの青年に関しては、もっと情報を集める必要があるだろう。
ふと思いついて、アリスは帳場へ向かった。
当然ながら、ハルトはまだ起き出してきていない。アリスがいるのをいいことに、午前中は二日酔いの頭を抱えてベッドで過ごすつもりだろう。だが、その方が都合がいい。
カウンターの下の棚から、古ぼけて薄汚れた大判の宿帳を探し出す。
ぺらぺらとめくると、いちばん新しいページに、日付と共に宿泊客の名前が書いてあった。日付から言って、あの青年のことに違いない。
「ふうん・・・。パロス・エイヴォンか・・・」
複雑な表情を浮かべて、アリスは心に刻み付けるように、何度もその名前をつぶやいた。

2階の客間では、アリスが用意したお茶をすすりながら、同じような表情を浮かべて青年パロスがつぶやいていた。
「あの、アリスというメイド・・・。少し、注意しておく必要がありますね・・・」
手にした水晶球を、あらためてながめる。内部に封じ込められた細やかな白砂の表面には、鮮やかに波紋が浮き出ていた。
「間違いなく、彼女は魔力の持ち主・・・。それも、生半可なものではない・・・。さして強力ではないものとは言え、私がめぐらしておいた安眠用の結界を、あっさり破ってしまったのですから・・・」

不定期で<つづく>


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