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灰色の貴婦人 Vol.3


「ああ、くそっ」
ハルト・ホフマンはお気に入りのソファに崩れ落ちるように腰をうずめると、両手で頭を押さえて毒づいた。昨夜の安酒のおかげで、頭の中で嵐が荒れ狂っているような気分だ。
手を伸ばせば届くところに置いてある酒瓶をちらりと見たが、無理やり首を振って誘惑を抑えつける。首を動かしたせいでますます頭痛が増したが、その方がありがたい。ここで迎え酒をやれば、いっときは楽になった気がするだろうが、後から数倍のしっぺ返しが来るのだ。
(ちっ、あの客さえいなけりゃあ、昼過ぎまでベッドで寝ていられたのに・・・)
ぐらぐら揺れているように見える薄汚れた天井を見上げ、恨めしい気分になったが、すぐに思い直す。 なぜなら、あの客が現時点では唯一の金づるだからだ。高級宿屋“貴婦人亭”の宿泊客は、ここ半月ほどはたったひとりだった。だがそれは最悪の状態ではない。その前のふた月は、“貴婦人亭”の屋根の下にいる生きた人間はハルトひとりだけだったのだから。
それに、あの客は手がかからない。宿泊代は前金でひと月分を支払ってくれたし、料理にも文句をつけない。もっとも、ここで出すスープの肉が本当はウサギではなく、天井裏や壁の間を走り回っている小動物の肉だとわかったら、どうなるかわからないが。とにかく、朝晩の食事とお茶を切らさないようにして、後は放っておいてくれればいいというのだから、ものぐさな亭主にとっては理想的な客と言える。
今も、簡単な朝食をこしらえたハルトが酒くさい息をはきながら盆を運んで行っても、相手は眉ひとつ動かすことなく黙って受け取ったところだった。
しかし、今朝のハルトはそこまでが活動の限界だった。いつもの朝と同じように。
「ああ、メイドのひとりもいりゃあ、こんな苦労とはおさらばなんだがなあ」
ひとりごとを言い、自分の声が頭に響いてうめき声をもらす。
『メイド募集中、住み込み可』という張り紙は、常に“貴婦人亭”の入口で風に揺れている。だが、応募してくる者はいない。事情を知っている者なら、誰も応募しては来るまい。そして、事情を知らない者など、この街にはいない。
分不相応な年代もののソファに身をうずめ、がんがんする頭をかかえながら、ハルトは自分の運命を呪った。二日酔いの朝には必ず思い出す、2年前のことを。

その頃のハルトは、今よりもベルトの穴はふたつほど少なく、酒を無二の親友とするところまでは至っていなかった。酒は好きだったが、それなりに節度を保って付き合っていた。
彼がサラエムに流れ着くことになったのも、おおかたの例にもれず、中央や他の街にいられなくなったからだ。その辺の事情は、もはや思い出したくもないし、記憶もおぼろになっている。
借金に追われ、女と面倒を起こし、地元のやくざ連中ににらまれ、傭兵に身を投じ・・・といったお決まりのコースだったことは確かだ。そして、もっと確かだったのは、サラエムまで半日という三叉路の立て札を目にした時、ハルトの懐中には1枚の銀貨もなかったということだ。
このままではサラエムに着いたとしても、ろくなことにならないのは目に見えていた。
賭場でひと稼ぎする自信はあったが、仲間に入れてもらうには見せ金がいる。それ以前に、街に入れてもらえるかどうかが切実な問題だった。サラエムのような町の門番が相手であれば、それなりの賄賂を要求されるのは目に見えている。女性ならば、現金以外のものを差し出すことができるだろうが、くたびれ果てた中年男が趣味の門衛に当たるなどという偶然は期待できそうもない。もっとも、そんな偶然にぶち当たるくらいだったら、野垂れ死ぬ方がましだが。
そんなわけで、正直なところ、ハルトは途方にくれていたのだった。
あの時、空腹のために足がもつれ、土手の下に転がり落ちたのが幸運だったのか、悪魔の導きだったのか、それはわからない。今となっては、後者だと思う時の方が多いが。
したたかに打った腰をさすりながら起き上がろうとした時、ハルトは左手が草ではないものをつかんでいるのに気付いた。ぼろぼろになった服の残骸はハルトがつかんだせいでばらばらにちぎれ、落ち葉のように風に舞った。そして、その下から頭と両手足、背骨と肋骨まで揃ったひとり分の骸骨と、ひと山の銀貨を見つけたのだった。
行き倒れてそのままになったホトケなのか、魔物に襲われた哀れな被害者なのか、それはわからない。銀貨が残っていたということは、盗賊の襲撃を受けたのではなかろう。だがそんなことはどうでもよかった。
「この銀貨は、もうお前さんにゃ、何の役にも立たねえ。だから、俺が有効に使ってやるよ。ありがたく思うんだな」
と、勝手な理屈をつけ、いいかげんにセルヌームの祝福を与えると、ハルトは銀貨を1枚残らずかき集めた。遺体を埋めることもせず、元気百倍で土手をよじ登り、口笛を吹きながら、それまでとは打って変わった軽い足取りでサラエムへ向かったのだった。
(もしかしたら、ツキが回って来たのかも知れねえな・・・)
日暮れ前にサラエムの外門へたどり着く。ここでも彼はついていた。ハルトのみすぼらしい姿を見た門番は、相場から言えば最低の銀貨を差し出すだけで、門内に入れてくれたのだ。
すぐにハルトは酒場に向かった。
“マリアの館”という看板にも心を惹かれたが、まずは軍資金を増やす方が先だった。商売女はそう簡単に逃げはしないが、ツキの女神には前髪しかないという。今のツキを逃がす手はない。
宵の口だというのに、目をつけた酒場は盛況だった。どこの町にもいる“自警団”と称するごろつき連中や、まっとうな商売をしているのかどうかすら怪しい商店主たち、一攫千金を目指して辺境の地へやって来たあげくに食いっぱぐれた冒険者などでにぎわっている。
カウンターで最初の一杯を引っ掛けながら店内を観察し、カモがいそうなテーブルを探す。
こういう街では酒場が賭場を兼ねている場合が多い。それに、専門の賭場があるにしても、そこではどんな罠が待ち構えているかわかったものではない。賭け率は低いかも知れないが、酒場の方が安全だ。 すぐに、奥まった場所のテーブルが目に付いた。比較的シンプルなカードゲームをやっているようだ。
ルールは単純だが、奥は深い。4、5人の、どれも一癖ありそうな連中が真剣に自分の手札を覗き込んでいる。
ぶらぶらとテーブルに歩み寄り、椅子を引き寄せて座る。
初見参の挨拶代わりに、亭主に頼んでそこそこの値段の酒を一杯ずつテーブルのメンバーにおごってやる。そこそこというところがコツだ。安酒では相手にされないし、高価すぎる酒だとゲームの相手ではなく追剥ぎの標的にされかねない。
そんなこんなで、サラエムの町がとっぷりと闇に沈む頃には、ハルトはすっかりメンバーに溶け込み、ゲームに没頭していた。
そして、夜中を回る頃には、すっかりテーブルを席巻していた。
まさに、嵐のようなツキだった。
普段はめったにお目にかかれないような手札が、雑作もなくできる。相手の手の内が苦もなく読み取れ、押すところと引くところの決断がことごとく的中する。
途中から、イカサマを疑ったのか、背後に何人もの男がべったりと張り付いてハルトの手元をうかがっていたが、それも徒労に終わった。なにしろ、ハルトはイカサマなどやってはいなかったのだから。
メンバーのほとんどがすってんてんになり、お開きになった頃、はじめてハルトは我に返った。
こんなに大勝ちするんじゃなかった、と後悔しても後の祭りだ。
ふらりと現れて賭場で大勝ちした流れ者のことは、すぐに噂になるだろう。大負けした相手は面白くないだろうし、温かくなったふところを狙うやつも出てくるだろう。もう少しセーブして、ちびちびと勝つべきだったか。
だが――と、今もハルトは思う。あのツキの流れに乗らない手はなかった。
その時、最後の勝負でひと財産にも相当する金額を賭けてすべてを失った初老の男が、こんなことを言い出したのだ。
「すまないが、今は金がない。だが、その代わり、わしの宿屋を譲ろう」
最初は、男が泊まっている宿屋の部屋を明け渡そうとしているのかと思ったが、話をよくよく聞いてみると、そうではなかった。彼が所有し経営している高級宿の土地建物と権利を、負け分のカタにすべてくれてやるというのだ。何でも、もともとは戦前から建っていた大邸宅で、戦火に焼けなかった部分に増築して改装した、サラエムでも由緒ある宿屋だという。
大勝利に浮かれていたハルトは、鷹揚な気分で受け入れた。まさに渡りに船だと思えたのだ。この街に落ち着くのも悪くない。俺もいい歳だ。根無し草稼業から足を洗って、宿屋の亭主になるのもいいじゃないか。
酒場にいた連中も、口を揃えて“貴婦人亭”はいい宿だと請合った。だが、今では、あの初老の親父に――いや、町の連中全員に、一杯食わされたのだと確信している。誰も手を出さないいわくつきの物件を、何も知らないよそ者に押し付けたのだ。その証拠に、“貴婦人亭”の前の持ち主は、その後しばらくして町から姿をくらましてしまった。
確かに“貴婦人亭”は立派な建物だった。特に、戦災を焼け残った2階のバルコニーや階段、豪華な家具が揃った寝室など、ウィルクストパールの高級宿にすえつけても恥ずかしくない代物だ。無学な自分にも、歴史や文化の重みというものを感じさせてくれる。
だが、“貴婦人亭”という名前の由来は誰も教えてくれなかった。
貴婦人が住んでもおかしくない立派な造りの建物だからだろうと、単純に考えていたのだが、真相はそんな生易しいものではなかったのだ。
まさか本当に“貴婦人”が住んでいたとは――いや、取り憑いていようとは。
そのおかげで、客もほとんど寄り付かなければ、メイドや下働きのなり手もない。
宿を手放すことも考えたが、あの日のハルトのような何も知らないお人よしが町を訪れることもなかった。それに、ここを離れたら、後は中央広場にたむろするホームレスの仲間入りをするしかない。暖かいベッドと雨風をしのげる頑丈な壁と屋根があるだけでも、ありがたいことだと思わなければ。
でも、本当にそうなのだろうか。物理的な安全よりも、心の安寧の方が重要なのではないだろうか。
中央階段で、初めて“貴婦人”と顔を突き合わせてしまった晩以来、ハルトは酒をくらって正気を失う以外に、夜を安心して過ごすことができなくなってしまったのだ。
灰色のドレスをまとった貴婦人の幽霊が、びっくりして立ち尽くす自分の身体をすうっと通り抜けていった時のことを思い出して、ハルトはソファに身を丸めて、身体を震わせた。

その時、玄関のドアがかん高いきしみ音を立てて開き、ハルトは心臓が止まりそうになった。


年代ものの重い樫造りのドアを押し開けると、耳障りにきしんだので、アリスは軽く肩をすくめた。あまりに重かったので、ほんの少しだけパワーを使わなければならなかった。
油を差すこと、と心に書き留める。
一歩踏み込み、スカーフの陰からそっと建物の内部をうかがう。壁に掛かったタペストリーや、柱に刻まれた重厚な模様が、ここが由緒ある建物であることを示している。もしかしたら、戦前の建物かも知れない。だとすれば、なにか手がかりが隠されている可能性もある。
昨日、初めてサラエムを訪れた時と同じように、アリスはだぶだぶのブラウスとスカートに身を包み、スカーフで頭と顔を隠している。シスター・セリーヌから、教会で余っている衣服を持って行くよう勧められたのだが、丁重に断った。左手に提げたバスケットには、シスター・セリーヌがハルト・ホフマン宛にしたためてくれた紹介状が入っている。
ドアの正面は広間で、2階まで吹き抜けになっている。中央に大階段があり、突き当たりで左右に分かれて2階の廊下につながっているようだ。1階左側の両開きの大扉は、ダンスホールか食堂に通じているに違いない。右側には、他の調度品に比べると粗雑で新しい感じのカウンターがある。ここが帳場なのだろう。
身を伸ばすようにして、カウンターの奥を覗き込む。
そして、アリスは“貴婦人亭”の亭主のおびえた顔と対面したのだった。
「あ、あの・・・」
アリスがおずおずと声をかけると、ハルトはびくっと身を震わせ、目をしばたたく。
病的な赤ら顔と血走った目を見て、アリスは心の中でわずかに身構えた。
腕を上げて2、3度目をこすると、ハルトは頭痛に顔をしかめ、あらためて来訪者をしげしげと見た。
ようやく、幽霊でも押し込み強盗でもないと納得したらしい。
しゃべろうとしてせき込み、のどにからんだ痰を、派手な音を立てて無造作に床に吐き捨てる。
痰壺を用意すること、とアリスは心に書き留める。
「何だ、客か・・・? 押し売りなら、お断りだぞ」
「ええと・・・。違います・・・」
言いながら、アリスははらりとスカーフを取る。この手の相手には、言うより見せる方が早いだろう。
ふわりと広がった茶色の巻き毛と、青緑色の大きな瞳、ふっくらとした半開きのくちびるにぎこちなく浮かべた微笑を目にすると、ハルトは口をあんぐりと開け、目を丸くした。
アリスは内気そうにうつむいたまま、バスケットから紹介状を取り出して、おずおずと差し出す。
「あの・・・、あたし、昨日、この街に来たばっかりで・・・。それで・・・、教会のシスターに、ここでなら働かせてもらえるかも知れない・・・って言われて・・・」
舌足らずな口調に、ほんのわずか甘えるような調子を混じえ、アリスは言葉をつむぎ出す。
カウンターに手をついてよろよろと立ち上がったハルトは、ひったくるように手紙を取ると、顔をしかめながら目を通した。目の焦点が合わないのか、同じ箇所を何度も読み返し、ぶつぶつと口の中で言葉を繰り返す。
「あ、あの・・・」
アリスは小首をかしげ、もじもじと不安げに立ち尽くす。
ハルトは顔を上げると、上から下までなめるようにアリスを見た。
「よし、話はわかった」
無遠慮な視線を向けながら、ハルトは手紙で手のひらを叩く。
「シスターが言ってる通り、うちはメイドを雇いたい。あんたはメイドとして働きたい。――ここまではいいな」
「は・・・はい」
「だがな、うちとしても経営方針というものがある」
ハルトはもったいぶって言った。シスター・セリーヌが書いてきた内容を読む限り、このアリスとかいう娘には、他に行き場所はない。多少は条件をふっかけてもかまわないだろう。何も知らないよそ者をうちに紹介してくれるなんて、あのばあさんもなかなかいいところがあるじゃないか。
「雇ったはいいが、ひと月やふた月で辞められたんじゃ、困っちまうわけだ。わかるか?」
アリスはこっくりとうなずく。
「だから、お前さんがちゃんと仕事をこなせるってことがわかるまで、ふた月は給金なしだ。その代わり、1階の部屋に住み込んでかまわないし、食事も出してやる。まあ、食事はお前さんが作るんだがな」
「あたし・・・。それで、いいです」
少し考えた後で、アリスは答えた。ほっとしたような笑みを浮かべて見せる。
「よし、決まりだ。それじゃ、さっそく仕事にかかってもらうぞ」
小躍りしたい気持ちをぐっと抑え、厳しい表情を保ったまま、ハルトは広間に出る。いつの間にやら、頭痛も消え去っていた。
とにかく、これでしばらくの間は、雑用から解放されるのだ。この娘が“貴婦人”のことを知ったらどうなるかわからないが、その時はその時だ。
左側の扉からホールを抜け、奥の使用人部屋のひとつにアリスを連れて行く。
使用人部屋と言っても、もともとが大邸宅だっただけに、内装や調度はへたな宿屋よりも豪華だ。ベッドと衣装箱のほか、大きな姿見のついた化粧台まである。
「とりあえず、その不恰好な服を脱いで、ちゃんとした服に着替えな。メイド服はいろいろとその衣装箱に入っているから、ぴったりのサイズのが見つかるだろう。あと、身体もきれいにしとけよ。隣の部屋で湯も沸かせるし、湯船もある」
ハルトはベッドの脇の大きな衣装箱にあごをしゃくった。
「身支度が済んだら、俺のところに来い。仕事はいくらでもあるんだからな」
そして、くるりと背を向け、ハルトはすたすたと戻って行った。

「さて・・・と」
ハルトが去って行ったことを確かめると、アリスはベッドに腰掛けて、大きく伸びをした。
当面の目的は、これで達成できた。とりあえず、サラエムで比較的安全なねぐらを確保できたのだ。
だが、まだ確かめておかなければならないことがある。
シスター・セリーヌが言っていた貴婦人の幽霊のことではない。幽霊に関しては、これからいくらでも調べる時間はある。それに、経験から言って、幽霊よりも生身の人間の方がよほど怖い。
そういえば、アリスが入っていった時のハルトの表情は忘れられない。本当に、幽霊を見たかのようなおびえ方だった。
(いいこと、ハルトさんの前では、あの人から言い出さない限り、幽霊のことに触れない方がいいわ・・・)
シスター・セリーヌの助言が心に浮かんで来る。もちろん、アリスはその言いつけをしっかり守るつもりだ。
頭を振って幽霊のことを追い出すと、アリスは衣装箱を開け、もっと切実な確認作業に取り掛かった。
衣装箱の中は、かびくさかった。メイドや召使が身に着ける服が、雑然と放り込まれている。
虫干しをすること、とアリスは心に書き留める。
だが、服自体はどれも立派なデザインで、使われている布や糸も高級なものだった。もともとのお屋敷で使われていた衣装が、そのまま残されているのだろう。
紺の地に白いレースのフリルがついたクラシックなメイド服を、アリスは選び出し、ベッドに広げて置いた。これなら、サイズも合うだろう。
メイド服の隣に腰掛け、アリスは深呼吸した。
ここからだ。自分が聖域を手に入れたのか、悪魔の巣窟に投げ込まれたのか、これでわかる。シスター・セリーヌの言葉を疑うわけではないが、念には念を入れておきたかった。だからこそ、これまでアリスは生き延びて来られたのだ。
服に並ぶように横たわり、もうひとりの相手を抱きしめるかのように腕を回す。頬にレースのフリルが当たってくすぐったい。
その姿勢のまま、目を閉じて、心に張り巡らした防壁をそっと下げる。
いくつもの情景、多くのイメージのかけらが、心に流れ込んで来る。洪水に巻き込まれないよう、堤防の高さを調節するようにして、アリスはひとつひとつをながめていった。
しばらく、メイド服を抱きしめた格好のまま横たわっていたアリスは、ふうっと大きな息をついて、目を開いた。身を起こし、姿見に映った自分をながめる。鏡の中から見返すかわいらしい少女に、にっこりと笑いかけた。
「うん、大丈夫ね」
少なくとも、このメイド服をかつて身につけていた女性たちが、悲惨な経験をしたことはないようだ。それはとりも直さず、ハルト・ホフマンが使用人を手込めにしようなどという不埒なことを考える人間ではないことを意味している。
他にも2、3着、試してみたが、結果は同じだった。苦労、喜び、ささやかな幸せ、悲嘆、嫉みや憎しみもあったが、それらはすべて日常生活の範囲内のものだ。
「よぉし!」
メイド服を手に取ると、アリスは髪をかき上げながら廊下に出て、風呂場があると聞いた隣の部屋へ向かった。

その部屋のドアを開けると、アリスは失望を隠せなかった。
あてがわれた寝室のベッドや家具の豪華さから考えて、ウィルクストパールの貴族の屋敷に備え付けられているような純白の陶器のバスタブでもあるのではないかと思っていたのだが、予想はあっさりと裏切られた。
明らかに、屋敷そのものよりもかなり新しい時代に増築されたらしい。粗雑で無骨な造りで、高雅さなどかけらもない。
「はあ・・・」
小さくため息をついたが、すぐに思い直す。荒野の真ん中の、身を隠す岩陰もない塩辛い濁った池で水浴びすることを考えれば、これでも天国と言える。
そこは土間になっている狭い空間で、壁際にはかまどがあり、煙突が外壁に向かって突き出ているのがわかる。かまどの脇にはたきぎが積み上げられており、脇の棚には鍋や釜、大きなやかんなどが雑然と置いてある。手前側には円形をした浅い木製の風呂桶があるが、そこはからっぽだった。
「ふう・・・。水も汲んで運んで来いっていうことね」
風呂桶の脇の脱衣かごに着替えを放り込むと、アリスは腕まくりをして手桶を手に取った。
「さて、井戸はどこかしら?」


何度か、勝手口のドアが開閉する音がして、それに続く水をざあざあ空ける音がとだえてしばらくすると、ハルトはそっとカウンターを離れた。
井戸の場所を聞きに来たところを見ると、あの娘は身奇麗にする気になったらしい。
足音を忍ばせて、使用人部屋に通じる廊下を進む。気配の消し方は若い頃に覚えたものだが、まさかこんなところで役に立つとは思わなかった。
風呂場の中からは、たきぎがぱちぱちと燃える音、しゅんしゅんとお湯がたぎる音に混じって、かすかな衣擦れの音も聞こえてくる。
ドアの目立たぬ場所に節穴が開いていることは、何年も前から知っている。
(たまには、こういう役得があってもいいよな)
それ以上のことをする度胸はない。罪深い行為だということもわかっている。
だが、万が一、あの娘が亜人や異人だということも考えられる。それを確かめるのだ。これも街の平和を守るための、亭主としての義務だ。
勝手な理屈をつけて自分を納得させると、ハルトは舌なめずりをしてかがみこみ、節穴に目を押し当てた。

かまどにかけたやかんで沸かした湯を何度かに分けて風呂桶に満たし、ちょうどいい温度に調節すると、アリスは手早く着ているものを取った。
暴れ出しそうな髪の毛をスカーフに押し込んで邪魔にならないようにまとめると、腰に手を当て、自分の身体を見下ろす。
つややかな白い肌には、しみひとつない。腕を持ち上げて、あるかなきかのうぶ毛にそっと息を吹きかけると、胸に手をやり、ため息をつく。
「ほんとに、全然、成長しないんだから・・・」
ここ何年もまったく大きさが変わっていない胸のふくらみを恨めしそうにながめてつぶやくと、アリスは詮無い思いを断ち切るように首を振った。
「まあ、そのうち・・・ね」
手桶で肩から湯をかけ、湯船に腰から沈み込む。
とはいえ、風呂桶は浅いので、腰をすえても上半身は湯から出たままだ。風呂に入っているというよりも、行水をしているという方が正しい。アリスは頓着せず、棚に置いてあったシャボンを泡立てると、上機嫌で歌を口ずさみながら、身体を洗い始める。
ずっと、ドアには背を向けたままだ。
アリスはふと手を止め、眉をひそめた。だが、すぐに今まで通り、手を動かし始める。
それは、普通の人間には絶対に気付かない気配だったろう。
しかし、アリスにはわかった。そうかも知れないと予想していたことでもあった。水を汲んで運び込むために、何回かドアを開けて出入りした際、ドアの隅の腰の高さのところに小さな節穴が開いていることにも目ざとく気付いていた。
(ふうん、あのおじさん、そういう趣味があったのか・・・)
メイド服を探査しても、さすがにこんなことまでは読み取れなかった。それも無理はない。過去のメイドたちは、自分が亭主の目の保養になっていることなどまったく意識していなかったのだろう。
ねめつけるような視線を背中に感じながら、肩から腕にかかったシャボンの泡を湯で洗い流す。
たぶん、ハルトはアリスがずっと背中を向けているので、いらいらしているのではないか。
そ知らぬふりで、アリスは思いをめぐらす。
裸体を見られたくらいで騒ぎ立てる必要はないが、このような行為を野放しにしておくと、いつかハルトが余計なものを目にしないとも限らない。それはお互いのために良くないだろう。
(ちょっとお灸をすえてやろうかしら?)
アリスは相変わらずリラックスした様子で身体を洗いながら、かまどにかかったやかんに目をやる。
心の触手をそっと伸ばし、煮立った熱湯に触れる。もちろん物理的な接触ではないから熱さは感じない。
かまどはハルトの視界に入ってはいまい。だが念には念を入れて、伸びをするようにして身体の向きをわずかに変え、ハルトの視線を自分に集めるようにする。
ハルトがごくりとつばを飲み込む気配が伝わってきた。
アリスはやかんに視線を投げ、パワーを送った。
音もなく、やかんのふたが宙に浮く。そして、握りこぶしほどの大きさの熱湯のかたまりが、海に漂うくらげのようにゆらゆらと浮かび上がった。
まっすぐ伸びた心の腕が湯塊をとらえ、つかみ直す。大けがをさせるつもりはないので、周囲の空間に熱エネルギーを放散させ、湯の温度を下げる。
パワーの方向を変え、ひょいと押してやると、熱い湯のかたまりは、子供が投げた雪玉のように宙を飛んで、狙いたがわずドアの節穴と――ハルトの右目を直撃した。
「うぎゃあ!」
廊下から悲鳴が響き、なにかが床に倒れる音がしたかと思うと、どたどたとあわただしい足音が遠のいて行った。あわてて冷たい水を探しに行ったのだろう。何が起こったのかすら、わかっていないのに違いない。
「ふん、ばーか」
アリスは振り返り、ドアに向かって盛大にあかんべをしてみせると、再びお気に入りのメロディを口ずさみながら、つややかな肌を磨く作業に戻った。

同じ時、“貴婦人亭”の2階の客室では、ひとりの青年が書き物から目を上げ、眉をひそめた。
銀のフレームの眼鏡の奥で光る知的な緑色の瞳が、机の隅に置かれた水晶球を凝視する。
その水晶球は中空になっており、内部にはさらさらの細かな砂が半分ほど入っている。ランプの光を反射して虹色に輝く砂の表面に、波紋のような模様が浮き上がっていた。砂丘にできる風紋に似ている。
だが、もちろん水晶球の内部に風などは吹かない。そして、つい先ほど目をやった時には、このような模様など生じてはいなかった。青年がつぶやく。
「誰かが、魔力を使った・・・?」
青年は興味ありげに砂の表面に生じた模様を見つめていたが、それ以上の変化はない。やがて青年は口元にかすかな笑みを浮かべ、肩をすくめる。そして、再び目の前のノートに何事か書き込むのに集中し始めた。


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