第3章 デア・ヒメル参上!
エンバッハ家の書斎は、広い屋敷の2階中央にある。
部屋の入口は、中央回廊に面した一ヶ所だけで、その反対側に、中庭に面した南向きの出窓がひとつある。窓の外は小さなバルコニーになっており、木々が点々と植えられた中庭が見下ろせる。
出窓の両側と、部屋の東側の壁は、床から天井まで届く書棚に占領されているが、西側の壁には大きな暖炉が作られている。
暖炉脇のマントルピースの上に、何気なく置かれているのが、今回デア・ヒメルに狙われている純金の壷だ。
「実は、この壷は、ふたつで一組になるものなのです」
と、シアがきれいな布で磨きながら言う。
「もう一方の純銀の壷は、トーレンス家に伝わっていました。でも・・・」
「先日、デア・ヒメルに盗まれてしまった壷が、それなのですね」
クライスが静かに言い、うなずく。
既に日は落ち、デア・ヒメルが予告した真夜中まで、それほどの時間は残っていない。
室内には、シアとクライスの他、準備を終えたエリー、アイゼル、ノルディス、ナタリエの全員が顔を揃えている。書斎の中央に置かれたテーブルには、シアの心尽くしのお茶と軽食が並べられ、一同はその周りに集っている。
「シアさんも、そろそろ避難した方が・・・」
不安を隠せないアイゼルが、シアをうながす。
クライスの指示によって、エンバッハ家の使用人は休みを与えられ、みな外出してしまっている。また、シアのひとり息子のルドルフは、昼のうちにシアの実家であるドナースターク家に預けられている。
シアも、真夜中になる前に息子の待つ実家に避難する手はずになっている。
「そうね、それじゃ、そろそろ失礼しようかしら。皆さん、がんばってくださいね・・・あっ!」
椅子につまずいたシアが、足をもつれさせる。
シアは手を振ってバランスを取ろうとしたが、そのまま正面にいたナタリエにぶつかり、ふたりはもつれ合うようにして床に転がった。
「大丈夫ですか、シアさん?」
エリーとアイゼルが、心配そうにシアを抱き起こす。シアは恥ずかしそうに微笑み、
「ごめんなさい・・・。だめね、わたしって、鈍くさくて。ナタリエさん、けがはなかった?」
ナタリエはすぐに立ち上がり、いくぶんわざとらしく服の埃を払う。
「別に、なんてことないよ。さ、ここはあたしたちに任せて、早く行きなよ」
シアは、何度も丁寧におじぎをして、部屋を出て行く。しばらくたって、玄関の大扉が閉まる音が聞こえた。
それを聞いて、5人は部屋の内外の仕掛けに仕上げをほどこした。
「さてと・・・もうすぐ、予告の時間ですが、最後にもう一度、手はずを確認しておきましょう」
クライスが一同を見回す。
「この部屋には、入口は3ヶ所しかありません。廊下からのドアと、出窓、そして、暖炉の煙突です。今日の午後、半日かけて調べてみましたが、秘密の入口のようなものは一切ありませんでした。
つまり、いかにデア・ヒメルとは言え、入り込む手段はみっつしかないわけです。ここを、わたしたちで集中的に固めるのです。ローネンハイム家の時のように、屋敷中に見張りを置いても、戦力を分散させるだけですからね」
言葉を切り、クライスはエリーを見やる。
「エルフィールさん、出窓は?」
「はい、ばっちりです。鎧戸を下ろして内側からかんぬきを掛けて、生きてるナワでしっかりと縛ってあります。バルコニーには、元気なホウキを置いておきましたから、誰か来れば大騒ぎになって、すぐにわかりますよ」
「結構です。廊下の方は?」
ノルディスとアイゼルが、うなずく。
「ドアの前の床にはロウをたっぷりと塗って、ツルツルにしておきました。空でも飛ばない限り、こちらからは入って来られないでしょう」
「よろしい。さて、そうなると、残りは暖炉の煙突だけです。おそらく、ここが侵入路となる確率が、いちばん高いでしょう。ナタリエさん?」
「ああ、ちゃんと準備してあるよ。内側のレンガを外して、人が隠れていられる空間を作るのは、ちょいと骨だったけどね」
「それが、わたしたちの切り札です。ナタリエさん、よろしく頼みますよ」
「わかったよ。デア・ヒメルが忍び込んできたら、あたしが隠れ場所から飛び出して、退路をふさぐわけだね」
「そう。あとは、わたしたちの魔法アイテムが、ものを言います。相手を傷付けたり屋敷を壊したりしてはいけませんから、爆弾のたぐいは使えませんが、時の石版や影縫い針がありますからね」
「ねえ、そろそろ真夜中じゃないこと?」
アイゼルがささやくように言う。
「そうですね。では、全員、配置についてください」
クライスの声と共に、ナタリエが暖炉に姿を消す。エリーは出窓の脇に、ノルディスとアイゼルはドアの左右に。そして、クライスは中央のテーブルの影にうずくまった。
そして、待つ。
屋敷のどこかで、大時計が真夜中の訪れを告げた。
その時、暖炉の影から音もなく手が伸びた。手には、小さなガラスの容器が握られている。指先で器用にふたを取ると、その手は容器をそっと床に転がした。
容器からは目に見えない気体が漏れ出し、すぐに部屋中に広がる。
「ん? どうしたのでしょう、気分が・・・」
クライスが胸を押さえ、そのまま床にくずおれる。
「どうしたんですか、クライスさん!」
叫んだエリーも、一歩踏み出そうとしたところで、凍り付いたようになり、床に倒れる。
その時には、ノルディスもアイゼルも、ドアの脇に折り重なるようにして倒れていた。
しばらくの後、暖炉の奥からナタリエが姿を現わした。
「ふ、ばかなやつらだ。いくら入口を固めたところで、その前に、中に入り込まれていては、どうにもならないのさ」
倒れてぴくりとも動かない4人の錬金術師に近付くと、順に脈を取り、息を確かめる。
誰ひとり、脈は感じられず、呼吸も止まっていた。
「ほう・・・。今回の薬は、いやに効き目があったようだな。全員、もう死んでしまっているとは・・・。われわれの恨みをはらすためには、もう少し苦しんでもらいたかったが・・・」
つかつかとマントルピースに歩み寄り、純金の壷を手に取る。
そして、ドアの前に倒れているノルディスの身体を乱暴に足で押しのけた。
「この屋敷には、もう誰もいない。堂々と、玄関から出ていってやるさ」
ドアを押し開け、暖炉の前に敷かれていた敷物を、床に敷く。これで、ロウの床の効き目もなくなる。
そして、ナタリエ・・・いや、怪盗デア・ヒメルは、書斎に最後の一瞥を投げた。
「なに・・・!?」
その視線が凍りつく。まるで、幽霊でも見たかのようだ。
「くらえ!」
クライスの叫びと共に、銀色に光る針が飛んでくる。足に突き刺さると、その周囲がしびれたようになり、思うように動けなくなる。
「うに!」
エリーが投げつけた、とげの生えた実が右手に命中し、純金の壷が床に落ちる。すばやく手を伸ばしたノルディスが、壷を確保する。
「さっきはよくも殺してくれたわね。許さなくてよ!」
アイゼルが精霊の光球を投げる。デア・ヒメルは身をかわそうとしたが、驚いているのと、クライスの影縫い針のせいで動きが鈍っており、光球はまともに顔面に当たった。
床に倒れたデア・ヒメルは、しかしよろよろと立ち上がると、顔から垂れ下がった皮膚をむしりとった。
その下から、とがった耳と釣り上がった目が現れる。
「いやあっ!!!」
アイゼルが悲鳴を上げる。
「人間じゃないよぉ!」
エリーも叫ぶ。
クライスが気を取り直して、怪盗に呼びかける。
「怪盗デア・ヒメル・・・いや、こういう呼び方をしていいのかどうかわかりませんが・・・。あなたは、エルフですね」
「エルフ!?」
エリーもアイゼルも、息をのむ。
たしかに、エルフとは東の台地の周辺やエアフォルクの塔で戦ったことがある。だが、ザールブルグの町の中でエルフに出会おうとは、思ってもみないことだった。
正体を暴かれたデア・ヒメルは、ぜいぜい息をつきながらも、まともな人間の言葉で答える。
「ああ、そうともさ。おまえたち人間は、俺たちをメディアの森から追い払った・・・。その復讐を果たそうとしたのさ・・・。
だが、教えてくれ。おまえたちは、さっきは間違いなく死んでいた。なのに、どうして・・・」
「答は簡単ですよ。あなたが撒いたのは、毒薬ではなかったのです。効力がEランクの、非常にできの悪い死にまねのお香だったのですよ。ですから、数分で効き目が切れ、ちょうどうまいタイミングで、全員が生き返ったというわけです」
「しかし、なぜだ? いつ、すりかわったというのだ・・・」
うなり、黙り込むエルフ。その時、廊下の端からシアの落ち着いた声が聞こえた。
「すりかえたのは、あたしです」
近付いてくると、シアは腰に手を当て、胸を張った。
「部屋を出て行く前に、転んであなたと一緒に倒れたでしょう。その時に、入れ物をすりかえたのよ」
エルフは驚いたように、首を振る。
「ばかな・・・。ただの貴族の娘に、俺に気付かせずそんなまねができるわけがない・・・」
<Illustration by なかじまゆら様> |
これを聞いたシアは、上品な口調から一転した。高笑いしてマスクをはぎとる。
「はははは、本家デア・ヒメルをなめるんじゃないよ。変装だって、この通り。おまえごときから毒薬をすり取るなんざ、お茶の子さ」
本物のナタリエ・コーデリアは、威勢よく啖呵を切ると、親指を立てて偽のデア・ヒメルに突きつける。
「さあ、もう観念するんだね。おとなしくお縄につきな!」
「くっ!」
エルフは、思ったより素早い動きで身体をひねると、ナタリエと反対側の廊下へ逃げ出そうとした。
しかし、2、3歩動いたところで、足が止まる。
「逃がさないわよ!」
廊下の端に現れたのは、三日月をかたどった魔法の杖を振りかざした、錬金術師の姿だった。
「マルローネさん!」
エリーとアイゼルの叫びが重なる。
進退きわまったエルフは反転し、身体ごとナタリエにぶつかっていった。ナタリエは相手の勢いを利用して、投げ飛ばす。そして、壁にぶつかったエルフに組み付いていく。
しかし、体力が勝るエルフは、ナタリエを蹴ってもぎはなし、そのまま廊下の端の窓を突き破って外へ飛び出した。
「あ、逃げた!」
エリーが叫ぶ。
だが、その直後、長く尾を引く悲鳴が中庭から聞こえ、そのまま静かになった。
「あ〜あ、ばかね、おとなしく捕まっていれば、命は助かったかも知れないのに」
近付いてきたマルローネが、ため息をつく。
「いったい、どうなったんですか」
と、ノルディス。マルローネが答える。
「あたしがここへ来る前に、騎士団にも知らせておいたのよ。だから、あの偽デア・ヒメルは、エンデルク様の剣の真正面に飛び出しちゃったってわけ」
ほっとしたような、気の抜けたような沈黙が、一同に下りる。
と、エリーが思い出したように言う。
「あ、そうだ、解毒剤! 早く解毒剤を手に入れなくちゃ。あの偽デア・ヒメルが持ってるはずですよ」
「そうか、中庭へ行こう」
走り出そうとするノルディスに、ナタリエがのんびりと声をかけた。
「解毒剤なら、ここにあるよ」
ガラスの小びんを振って見せる。
「え? どうして?」
「何回も言ってるじゃない。本家デア・ヒメルの腕をばかにしちゃいけないって。さっき、取っ組み合った時に、すり取っておいたのさ」
クライスに向き直り、
「さあ、早く、おねえさんや他の人たちを助けてあげなよ」
と、薬びんを手渡す。
クライスは、一瞬、感きわまったように黙って小びんを押しいただいた。だが、すぐに顔を上げ、後輩たちに声をかける。
「いきましょう、アカデミーへ。すぐにこの解毒剤を分析し、量産しなければ。皆さん、最後の大仕事ですよ」
「はい!」
声を揃えて答え、3人は階下へ向かう。
後を追おうとするクライスとマルローネの目が、一瞬、合った。クライスが、そっと頭を下げる。その目には、彼が普段は決して見せない表情が浮かんでいた。