戻る

前ページへ次ページへ

名探偵クライス 第1話

アカデミーの怪事件〔中編〕


「よっと」
掛け声をかけ、俺は『祝福のワイン』が入った箱をかつぎ、遠心分離器や乳鉢を詰め込んだ袋を左手で持つ。
マリーはマリーで、『ほうれんそう』等の、軽いがかさばる品物を詰めた布袋を肩に掛けた。
「ありがとうございました」
いくぶんか元気を取り戻したように感じられるアウラさんの声に見送られて、俺たちはショップのカウンターを離れる。

「アウラさん、心配しないで。あたしたちが必ず真犯人を見つけて、疑いを晴らしてあげるから」
振り返ったマリーが、アウラさんを元気付けるように声をかける。それを、眼鏡の奥からクライスの瞳が冷ややかに見つめている。

アカデミーに泥棒が出没し、ショップの品物が盗まれていること、そして、ショップの店員でクライスの姉でもあるアウラさんに疑いがかけられていることを聞いた俺とマリー、そしてクライスの3人は、この事件を自分たちの手で解決しようと決めたのだ。特に、実の姉を犯人扱いされたクライスは、強い決意をしているようだった。

しかし、とりあえずは、マリーが買い込んだ大量のアイテムや道具を持って帰らなければならない。それに、アカデミーの中で事件に関しておおっぴらに話をすることははばかられた。
「どこで誰が聞き耳を立てているかわかりませんからね。特にマルローネさんは、後先のことを考えない発言が多すぎますから、めったな場所で話し合うわけにはいきませんね」
というクライスの発言を受けて、俺たちはマリーの工房で今後のことを相談することに決めた。クライスも、後からやって来るという。

「もう! クライスったら! どうせうちに来るのだったら、今、荷物を運ぶのを手伝いなさいよ!」
と言うマリーにクライスは肩をすくめ、
「残念ですが、そのように単純な肉体労働をする趣味は、私は持ちあわせていません。それに、私なら、もっと量やバランスを考えた上で買い物をしますね。それでは、後で工房の方へお邪魔します。埃っぽくて乱雑で、好きこのんで行きたい場所ではありませんが、事情が事情だけに、やむを得ませんね。では失礼」
参考書を抱え、研究棟の方へ去って行く。
マリーはその後ろ姿に向かって口をぱくぱくさせたが、うまい言葉がみつからなかったのだろう、諦めたように出口の方へ向かう。

相変わらず、ロビーには錬金術服を着た学生たちが大勢歩き回ったり、立ち止まって言葉を交わしたりしている。重い荷物を持ってはいても、俺は器用にその間をすり抜けていく。冒険者として、このくらいの身のこなしは当然のことだ。
ところが、マリーはそうはいかない。あっちこっちで人にぶつかっては「きゃっ」とか「ごめんなさい!」とか声をあげている。やれやれ・・・。

その時、パタパタと軽い足音をさせて走ってきた小さな姿がマリーにぶつかって、床に転んだ。高級そうなピンクのドレスを着た10歳くらいの女の子だ。
「あ、ごめんなさい、大丈夫?」
マリーが助け起こす前に、女の子は自分で起き上がると、上品なしぐさでドレスに付いた埃を払う。そして、子供にありがちな無遠慮さで、じっとマリーの顔を見上げた。その大きな瞳はエメラルドのような深緑色で、すいこまれそうな感じだ。
「あ、あの・・・」
マリーがなにか言おうとする前に、その子はぷいと横を向き、来た時と同じような唐突さで、走り去ってしまった。

「何だい、今のは」
俺は尋ねた。アカデミーに入学できるのが15歳からなのは、俺だって知っている。あんな歳の生徒がいるわけがない。
「そうね・・・。たぶん、貴族か誰か、えらい人がアカデミーの見学に来ているんじゃないかしら。最近、多いのよ。きっと、その人が子供を連れて来てるのね」
「ふうん・・・。世の中、物好きが多いんだな・・・」
そして、俺とマリーはアカデミーを出、マリーの工房に向かった。


「こんにちは。来たくはなかったのですが、来ましたよ。相変わらず、足の踏み場もありませんね。これが女性の仕事場かと思うと、あきれてしまいます」
その日の午後、マリーの工房に現われたクライスは、冷ややかな視線でひとわたり工房の中を見回すと、肩をすくめ、ため息をついた。

たしかに、クライスの言うことは正しい。
石造りの工房の壁や床には、飛び散った薬品の染みや黒い焼け焦げが目立ち、壁際には得体の知れない黒っぽいかたまりが小さな山になっている。開いたままの参考書やなぐり書きのメモ用紙が床に散らばり、中和剤のびんや調合道具が無造作に転がされている。
部屋の奥にある作業台の上も同じようなもので、今朝買ってきた材料の入った袋が半分口を開けた状態で置かれ、乳鉢やビーカー、試験管などが埃まみれになって材料の中に埋もれている。
マリーの掃除嫌いは有名だが、いったいどんなふうに仕事をしていたらこんな状態にできるのか、俺ですら疑問に思う。いや、それよりも、こんな環境でまともに調合ができるのだろうか。その方が心配だ。

当のマリーは、クライスの皮肉などもう聞きあきたという様子で軽く聞き流し、椅子を部屋の中央に引きずり出す。椅子の脚を引きずった跡が、床に積もった埃にくっきりとついているのをちらりと見て、
「ま、ちょっと散らかってるけど、あと2、3日すればピッケが来るから、それまでの辛抱ね」
ピッケというのは、人間の手伝いをする妖精のひとりで、部屋の掃除を専門にしているらしい。2ヶ月ごとにやって来るのだと聞いたことがある。

「そうやって、2ヶ月に1回しか片付かないわけですか、この工房は。常識では考えられませんね」
とクライス。
「だって、自分で掃除したって、どうせまた汚れるんだもの。しなくても同じじゃない」
このめちゃくちゃな論理も、マリーが言うと正しいように聞こえるから不思議だ。
クライスは、椅子の1脚を引き寄せると、マントの端でわざとらしく埃を払い、腰を下ろす。
「やれやれ、あなたには何を言ってもむだのようですから、エネルギーを浪費するのはやめましょう。さて、本題ですが・・・」

「ちょっと待ってよ、クライス。お茶ぐらい入れるから」
と、マリーは部屋の奥に向かって声をかける。
「ピッコロ! ミスティカティをみっつ入れてくれない?」
その声に応えるように、作業台の下から茶色の服と帽子を身につけた小さな姿が現われる。
マリーが雇っている妖精のひとりだ。

ピッコロは顔を上げると、小さな声で、
「はい・・・。でも、おねえさん、ミスティカティの葉って、どこにあるんですか」
「わからないけど、その辺の戸棚を捜せば出てくるわよ。じゃ、お願いね」
これで、お願いしたことになっているのだろうか。
「はぁ・・・」
小さくため息をつくと、肩を落としてピッコロはよちよちと戸棚に向かう。

「あ、それから、お茶を入れ終わったら、緑の中和剤を調合しておいてね! たくさん使うんだから!」
その小さな後ろ姿に声をかけ、マリーも椅子を引き寄せると、逆向きに座って背もたれに頬杖をつき、クライスを見やる。
「じゃ、始めようか、作戦会議」
すっかりマリーのペースだ。

クライスは、気を取り直したように眼鏡の位置を整えると、落ち着いた口調で話し出す。
「では、これまでに私が集めた情報を、整理してお話ししましょう。姉の話では、最初に物がなくなったのに気付いたのは、2週間前だそうです。それ以来、5回ほど被害にあっています。だいたい、2、3日に1回というペースですね。鍵はしっかりかけられていたのに、壊された形跡もなく、品物だけがなくなっていたそうです」

「犯人は、煙みたいなやつだな」
俺が口をはさむ。
ちょっと考え込んでいたマリーが、はたと手を打つ。
「わかったわ!」
「ほう、何がわかったというのですか?」
「犯人の名前よ! 姿も見せず、何の証拠も残さずに盗みをはたらく・・・今、街で噂の怪盗デア・ヒメルに決まってるじゃない!」

意気込んで叫ぶマリーに、クライスは冷ややかな視線を投げ、首を横に振る。
「残念ながら、それは違いますね」
「何よぉ、あたしの推理のどこが間違ってるって言うの?」
「推理というには、あまりにもお粗末ですが・・・。では、反論するとしましょう。先日のワイマール家の宝石盗難事件でもわかるように、デア・ヒメルは必ず犯行現場に自分の名を書いたカードを残していきます。しかし、今回はそのようなものは残っていません。それともうひとつ、デア・ヒメルが狙うのは美術品や宝石など、高価なものばかりです。今回盗まれているのは、それとは似ても似つかぬものばかりです。これらのことから、この事件はデア・ヒメルの犯行ではないと断言できます」
「でも、トレーニングのために盗んでるとか・・・」
クライスにあきれたようににらまれ、マリーの声は、小さくなり自信なさげに消えて行く。

「で、話を戻すが、どんな物が盗まれてるんだい?」
俺は、ピッコロが運んできたミスティカティもどきの怪しげなお茶を一口すすると、尋ねた。
「高価な道具とか参考書とかじゃないの?」
マリーの言葉に、クライスは無言でふところからメモ用紙を取り出し、手渡す。
「そこに、盗まれた品物をリストアップしておきました。自分の目で確かめてください」

「どれどれ」
俺とマリーは、顔を突き合わせるようにして、その小さな紙に見入った。
「何だって?」
「何よ、これ」
ふたりの口から、驚きの声がもれる。
「なになに・・・『魔法の草』、『ズユース草』、『ヘーベル湖の水』、『フェスト』、『カノーネ岩』だってぇ!?」
「みんな、初歩的な錬金術の材料じゃないの!」

「そう・・・『錬金術の壷』や『解読書』などの高価なアイテムには見向きもせず、ちょっと採取に行けば手に入るようなものばかりを盗んでいます。この犯人は、いったい何を考えているのでしょうか」
「ふうん、こりゃあ、どう見ても、動機は金じゃないな・・・」
俺はつぶやいた。

「じゃあ、たちの悪い悪戯かしら・・・。で、量はどのくらい盗まれてるの?」
マリーの問いに、クライスは、
「それも、大したことはありません。そうですね・・・」
工房の中を見回し、部屋の隅に置いてあった妖精が使う小さな採取かごに目をとめて、
「ちょうど、あのかごに入る程度の量だそうです。何とも中途半端な量ですね。これもこの事件の不可解な点のひとつです」
意外と言えば意外な事実の連続に、張り切っていたマリーも、ティーカップを両手でかかえたまま、黙り込んでしまった。

クライスは続ける。
「以上のように、アカデミーが受けた被害は、金銭的にはさほど大きなものではありません。そのおかげで、事件はまだ表沙汰になっておらず、姉も疑いはかけられたものの店員を続けていられるわけです。しかし、私は何としてもこの事件の謎を解くつもりです。そこで、さっそく今夜、アカデミーに罠を仕掛けることにしました。ちょっと手がかかるので、ルーウェン君にも手伝っていただきたいのですが」
「おう、わかったぜ。何でも言いつけてくれよ」
俺は大きくうなずいた。

マリーが不審そうに言う。
「ねえ、なんで、ルーウェンにだけ頼んで、あたしには頼まないのよ?」
「これは、繊細で綿密な作業ですからね。大雑把でがさつで、工房を散らかしっぱなしにしているような人には向いていません」
「なによ、その言い方は! ほんと、むかつくわね! あたしを仲間外れにしようったって、そうはいきませんからね!」

口をとがらすマリーに、クライスはふっと冷笑を浮かべ、
「そうくるだろうと思っていましたよ。では、マルローネさんには別のことをお願いしましょう。『星の砂』か『月の粉』を一袋、今夜までに準備していただきたいのです。それと、アカデミー内では余計なことをせず、私の指示に従ってください。わかりましたね」
「ううう・・・わかったわよ」
観念したようにマリーが言う。

「それでは、今夜9時にアカデミーに集合ということで、よろしいですね」
「OK!」
「了解したぜ」
3人が椅子から立ち上がった時だ。

「わぁ!」
小さな悲鳴が上がり、作業台の下からシューッという音とともに白煙が吹き出す。
「ピッコロ! またやったのね!」
マリーが叫ぶ。
作業台の下から、茶妖精のピッコロが、緑色の産業廃棄物にまみれた姿でふらふらと姿を現す。
「ごめんなさい、おねえさん・・・。また失敗しちゃって・・・」
うつむくピッコロの目から、大粒の涙がこぼれる。

「もう! 緑の中和剤なんて、いちばん簡単な調合じゃないの! 何回失敗したら気が済むのよ! あ〜あ、また材料がむだになっちゃったじゃない・・・」
大げさに両腕を広げ、言いつのるマリー。ピッコロは、いたたまれない様子で小刻みに肩を震わせている。
「おい、マリー、言い過ぎだぜ。彼も反省してるみたいじゃないか」
見かねて俺が口をはさむ。
「だって・・・中和剤だけじゃないのよ。ピッコロったら、研磨剤とか燃える砂とかも、何度も失敗して・・・」

「おやおや、マルローネさんの口からそんな言葉が出るとは意外ですね。2年前の今ごろ、産業廃棄物を山のように生産していたのは誰でしたかねえ・・・。それに、こんな汚れた環境では、失敗しない方が不思議でしょう。まあ、落ちこぼれのアカデミー生には落ちこぼれの妖精さんがお似合いかもしれませんね」
クライスの強烈な皮肉に、ようやく黙り込むマリー。
腰に両手を当ててため息をつき、
「ま、仕方ないわね。今度は、注意して調合するのよ」
目をこすりながら、こくこくとうなずくピッコロ。

「では、一時解散としましょうか」
「そうね・・・。ねえ、ルーウェン、気分直しに『飛翔亭』へでも行かない?」
「ああ、そうだな。夜までは、まだ間があるし・・・」
クライスとマリーの後に続いて工房を出ようとする俺の耳に、ピッコロのかすかなつぶやきが届いた。
「グスン・・・。森へ、森へ帰りたい・・・」


その夜、9時。
俺たち3人は、アカデミーのショップ前に集合した。
昼間はあれほどにぎわっていたロビーも、今は人通りはまったくない。生徒たちは寮棟の自室にこもって研究や思索に励んでいるはずだ。

俺たちの他には、ショップを預かるアウラさんと、事情を聞いて立ち会うアカデミーの職員がひとり。
「では、姉さん、普段通りにショップを閉めてください」
カウンターの中にかがみこんで、何やらごそごそやっていたクライスが立ち上がると、アウラさんをうながす。
アウラさんは、黙ってうなずくと、壁際から丈夫そうな樫の板製の引き戸を引き出して、カウンターを囲むように、ショップの開けた2方向をふさぐ。そして、反対側の壁との間に錠を下ろし、鍵をアカデミーの職員に手渡した。

「これで、人は誰も出入りできないはずよ」
アウラさんが低い声でクライスに言う。
クライスもうなずくと、
「では、姉さんはもう引き上げてください。あとは、私たちが・・・」
と、俺とマリーを見やる。
アウラさんは、深みのある青緑色の瞳で俺たちを見つめると、一礼して去っていった。アカデミー職員の青年も事務棟へ帰って行く。

「さて、それでは作業を始めるとしましょう」
クライスは、金色の光沢をもつ細い糸を束ねたものを取り出すと、それをほぐし始めた。
「何それ? 『国宝虫の糸』じゃない。そんなもの、どうするの?」
気の抜けたようなマリーの声。秘密兵器のようなものが出てくるのを期待していたのだろうか。
「ふ・・・。これは、ただの『国宝虫の糸』ではありません。『地底湖の溜り』にさらして、もろくしてあるのですよ。何かが少しでも触れれば、すぐに切れてしまいます。では、これを、私の言う通りに張りめぐらしていってください」

こうして、俺たちは、ロビーの端から端まで、クライス特製の糸を次々に張っていった。位置はちょうど、人の腰の高さに当たるところだ。誰かが通れば、必ず糸が切れて、その痕跡が残るという仕掛けである。
ショップの周辺からロビーの出口に向かって糸を張りながら、壁に掛けられたランプを次々と吹き消していく。
案の定、マリーが張った糸は、たるんでいたり途中で切れてしまったりで、クライスから、
「もうマルローネさんは手を出さないで、じっとしていてください」
と言われる始末だ。マリーはふくれっつらをしながらも、素直に言うことを聞いて、ランプを消すのに専念していた。

「今夜の作業はこれで終わりです。私たちも帰るとしましょう」
外に出て大扉を閉めると、クライスが言った。
「えええ? 帰っちゃうの? 罠を仕掛けるって、待ち伏せするんじゃなかったの?」
マリーががっかりしたような声を上げる。
クライスは落ち着き払って眼鏡の位置を整え、
「おや、おかしなことを言う人ですね。私たちがいたら、怪しんで犯人が来ないかも知れないじゃないですか。今夜はまだ、小手調べの段階です。私たちが相手にしているのは、一筋縄ではいかない泥棒だと思いますよ。じっくりと、追いつめていかなければ・・・」

「何よぉ、せっかく犯人をふっ飛ばしてやろうと思って、いろいろと準備してきたのに」
と、マリーは赤黒い丸い固まりや緑色の小袋を取り出してみせる。
「マリー、それって・・・?」
俺の声に、マリーはすまして答える。
「『フラム』と『クラフト』だけど。残念だわぁ、使えないなんて」

クライスがあきれたように言う。
「まったく、何を考えているのですか。爆弾を持って来るなんて、さすがは『爆弾娘』と言うべきかも知れませんが、アカデミーを破壊するつもりだとしか思えませんね。あきれはてて、物も言えません」
「大丈夫よ、建物を壊さないように、『メガフラム』は持って来てないんだから」
「そういう問題ではありません。さ、帰りますよ。明日は早いのですからね。結果を見るために、他の生徒が起き出す前に来なければなりませんから」
言い捨てて、クライスはすたすたと研究棟の方へ歩いて行く。
「ちょっと、クライス、どっちへ行くのよ!?」
「今夜は眠れそうにありませんからね。研究室で実験して過ごすことにします。では失礼」

俺たちは、黙って顔を見合わせた。
「仕方ないわね。帰りましょうか」
「じゃ、俺も下宿へ帰るかな。マリー、寝坊して遅刻するなよ。夜明けにもう一度、集合だからな」
「わかってるわよ。これ以上、クライスに嫌みを言われてなるもんですか」
マリーは両手をぶんぶん振りまわすと、月明かりが照らす石畳の道を、先に立って職人通りへ向かった。


翌朝。
ほとんど眠れないまま、俺は下宿を出て、アカデミーに着いた。
クライスは、相変わらず白い錬金術服を優雅に着こなしている。それに対して、マリーは寝癖でくしゃくしゃになった金髪を整えようともしていない。まあ、ちゃんと起きてきたのだから、立派なものだ。

「それでは、確認するとしましょう」
クライスが先頭に立って、大扉を引き開ける。
そして、昨夜張った糸がどんな状態になっているか、順番に確かめていく。
だが、調べるたびに、俺たちの悩みは深くなっていった。
結論から言おう。糸は1本も切れていなかったのだ。

もちろん、昨夜は犯人が現われなかったのだと考えるのが、もっとも順当な答だろう。
「ふ・・・。どうやら、昨夜の作業は無駄足だったようですね。今夜、もう一度試してみるとしましょうか」
すべての糸を片付け終わると、静かにクライスが言った。もちろん、俺たちにも否やはない。

8時になり、アウラさんが出勤してきた。
クライスが、手短に結果を報告する。アウラさんはほっとしたように、鍵を開け、引き戸を収納する。
「どうですか、姉さん、何も変わったことはないでしょう?」
カウンターの中に入って、商品の状態を確かめるアウラさんに、クライスが声をかける。
ところが・・・。

アウラさんが「あっ!」と小さな叫びを上げた。
「どうしました、姉さん?」
「ないわ・・・。なくなっている・・・」
うつろな声で、アウラさんが力なくつぶやくように言う。
「何です? 何がなくなっているんですか!?」
「『魔法の草』よ・・・。在庫が半分になっているわ。昨日は、棚いっぱいにあったのに・・・」
クライスがくちびるを噛み締めるのが、俺にもわかった。マリーは呆然と見ているばかりだ。

「ちょっと失礼」
クライスは気を取り直したように、マントをひるがえしてカウンターの中へ入る。
『魔法の草』が置いてあった棚を調べ、床にじっと目を凝らす。
やがて、ロビーに出てきたクライスは、ひとつ咳払いをすると、俺とマリーを順々に見つめ、ゆっくりと口を開いた。

「どうやら、犯人の見当がついたようです」
そして、眼鏡を外すと、レンズを丁寧に拭き、再びかけ直す。
銀のフレームが、きらりと光った。

前ページへ次ページへ

戻る