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名探偵クライス 番外編

危険なお茶会:疑惑の章


「さて・・・。みなさん、お揃いのようですね」
窓辺で『職人通り』の雑踏を見下ろし、考えにふけっていたクライス・キュールは、振り返ると銀縁眼鏡の奥から室内に集まった人々を鋭い目で見渡した。
細身で色白のクライスは、普段からあまり健康そうな外見はしていない。だが、今日はいつになく頬がこけ、顔色もさえない。しかも、額や頬、あごにかけてはいくつも絆創膏が貼られ、左手首には包帯が巻かれている。
足も痛めているようで、杖なしではまともに歩くこともできないようだ。
クライスの前には円形の大きなテーブルが置かれ、テーブルを囲んで8脚の椅子が均等に配置されている。そしてその椅子のひとつひとつに、錬金術服に身を包んだ男女が腰を下ろしている。テーブルには美しい季節の花を生けた花瓶が飾られ、上等のティーポットと人数分のティーカップ、そしてチーズケーキやマシュマロといったお茶請けの菓子類が、全員に行き渡るに十分な量、皿に盛られて準備されている。いかにも、のどかな午後のお茶会が開催されようとしているかのようだ。
ここは、錬金術士マルローネとエルフィール(愛称エリー)が共同で経営している錬金術工房の2階である。王立魔術学校ザールブルグ・アカデミーを卒業した先輩後輩にあたるマルローネとエリーは、何年かにおよぶ修行の旅から戻った後、アカデミー生時代を過ごした『職人通り』に新たな工房を開いたのだ。いろいろな意味で高まっていたふたりの評判も相まって、工房は繁盛している。そして、マルローネの親友シアの発案で、工房の2階を小ぎれいなティールームにしつらえ、仕事の合間に友人たちを招いてはお茶会を開くのが、ふたりの習慣となっていた。お茶の時間になると、ティールームにはアカデミーの卒業生や昔なじみの冒険者が集い、楽しい時間が流れるのが常だった。
しかし、今日のティールームは雰囲気が違う。いつもなら少ない人数でゆったりとお茶を楽しむのだが、今日は部屋が窮屈に感じられるほどの人数が集まり、ぎすぎすした空気すら漂っている。アカデミーの“竜虎”の異名を持つ筆頭講師のイングリドとヘルミーナが厳しい顔つきで互いににらみ合い、マイスターランクの卒業生であるノルディスとアイゼルは不安げに顔を見合わせ、工房の主のひとりエリーも椅子に身を縮めている。普段のお茶会では大いに騒いで場を盛り上げるマルローネにも、いつもの元気はなく、軽口も叩かずに浮かない表情で黙りこくっている。普段とあまり変わらない様子なのは、初めてティールームに通されて物珍しそうにあたりを見回しているショップ店員ルイーゼと、泰然とした姿で椅子にもたれているアカデミーのドルニエ校長だけだ。
気まずい沈黙が続く中、マルローネとエリーに雇われているお手伝い妖精のピコが、ひとりひとりのティーカップにハーブティを注いでいく。妖精は背が低く、床からでは手が届かないため、小さな脚立を持ち運びながらの給仕である。時間がかかって仕方がないが、手伝おうとする者もいない。
お茶会の給仕はすべてピコに任せること――これが、今日の主催者であるクライスが出した条件だった。その理由を知る者は、クライスただひとり。
全員のカップにお茶が注がれたのを確認すると、クライスも自分のカップを手に取り、窓辺にもたれてひと口すする。メインテーブルに、クライスの椅子は用意されていない。これも異例のことだ。
窓際のサイドテーブルにカップを置くと、クライスは気取った様子で眼鏡の位置を整え、口を開く。
「それではこれより、昨日アカデミーで発生した、ヘルミーナ先生の『究極の錬金術アイテム』盗難事件の真相を解明したいと思います」


前日まで、クライスは実家のベッドで寝込んでいた。火傷と打撲傷に加え、悪性の風邪にやられて高熱を発し、1週間近くも起き上がることができないでいたのだ。姉のアウラが嫁ぎ先から戻って、つきっきりで看病してくれていたが、こじらせたせいで病状は長引き、おかげで、間近に迫ったザールブルグ・アカデミーの講師や研究員による特別研究発表会への参加も辞退しなければならなかった。
寝込んだ原因は、例によってマルローネだった。
レアアイテムを採取するのを手伝ってほしいと泣きつかれ、一緒にストルデル滝まで出かけていったのは、10日前のことだ。採取は順調だったが、ちょっとした油断からウォルフの群れに囲まれてしまった。
もちろん、マルローネの爆弾の威力をもってすれば、ウォルフの群れなど物の数ではない。
「いっけえええぇ〜!!」
マルローネはメガフラムを次々に投げつけ、ウォルフの群れを一掃した。
ただ、いささかコントロールが悪く、投げそこなった爆弾のひとつが、逃げ遅れたクライスの近くで炸裂した。しかも、爆風で吹き飛ばされたクライスは、もんどりうってストルデルの滝つぼへ落ちてしまったのだ。
こういう事故には慣れているマルローネは、すぐにクライスを助け上げ、けがの治療をするために『空飛ぶホウキ』で一直線にザールブルグへ戻った。
それがいけなかった。ずぶぬれのまま風を切って運ばれたクライスは体温を奪われ、ひどい風邪をひいてしまったのだ。顔や腕の切り傷と火傷、足の打撲もあったが、それよりも風邪による高熱の方がダメージが大きく、ずっとベッドを離れることができなかった。
マルローネも見舞いに訪れたが、これも例によってクライスが素直でない態度をとったため、腹を立てて寄り付かなくなってしまった。でも、彼女なりのやり方で反省したマルローネは「クライスの分まで発表会でがんばるわ!」と、研究発表の準備を精力的に進めていた。
同じく見舞いに来てくれたエリーやノルディスからそのことを聞かされ、クライスは自分が発表会に参加できない悔しさを味わいながらも、内心ではマルローネを応援したい気持ちになっていたのだった。
ところが――。
姉の看病のおかげで熱もだいぶ下がり、うつらうつらまどろんでいた昨日の夕方、真っ青な顔をして取り乱したマルローネが、あわてふためいて飛び込んで来たのだった。
「助けて、クライス!!」
大きく見開いた空色の瞳をうるませ、金髪を振り乱したマルローネは、ベッドから弱々しく身を起こそうとしたクライスにすがりつかんばかりにして叫んだ。
「このままじゃ、あたし、ヘルミーナ先生に殺されちゃう!」
アウラが水を飲ませて落ち着かせようとしたが、あまり効果はない。
「ヘルミーナ先生の大切なアイテムが盗まれて、あたしが犯人にされちゃってるの! あたし、何もしてないのに!」
「それで・・・? 私に、どうしろと?」
熱のために気力も体力も消耗しつくしていたクライスは、弱々しくぼんやりと応えた。
だが、マルローネの次の一言で、クライスは超人的な回復を遂げたのだった。
「お願い、クライス・・・。あたしには、あなたしか頼れる人がいないのよぉ!」


あれから、ほぼ一昼夜が経過していた。
『リペアミン』を大量に服用したクライスは、アウラが止めるのも聞かず、無理やりベッドを抜け出ると、ふらつく足でアカデミーに向かい、現場検証と関係者の事情聴取に時間を費やした。
そして、この日の午後、クライスは関係者全員を招待して、お茶会の開催を宣言したのだった。

あらためて全員の顔をひとりひとり順番に見渡し、クライスは口を開く。
「このお茶会の目的はただひとつ・・・真実を明らかにすることです。そのために、関係者の全員にお集まりいただくとともに、立会人として、お忙しい中、校長先生にもご同席いただきました」
テーブルの向こう側、ちょうどクライスの正面に座っているドルニエに頭を下げる。
「あ、ああ・・・。いや・・・」
ザールブルグ・アカデミーの創立者であり初代校長でもあるドルニエは、とまどったような表情を浮かべながらも礼を返す。そんな校長を横目でじろりと見たヘルミーナは、真正面に座ったイングリドと目を合わせた。ヘルミーナと同様、左右の色が異なるイングリドの目に、苦笑めいた表情がちらりと走る。
(ドルニエ先生ときたら、相変わらず、こういう非常事態になると頼りにならないわね・・・)
(ふふふ、まあ仕方ないさ。校長としての役割には、こういう危機管理も含まれるはずなんだけどね)
(ほほほほ、あなたが校長になったりしたら、アカデミーは危機だらけになってしまうんじゃないかしら)
(心配は無用さ、ふふふふ。あんたが校長をやるよりは、よほどマシだろうね・・・)
お互いを知り尽くしているイングリドとヘルミーナは、無言のうちに視線だけでこれだけの会話を交わしていた。
それを知ってか知らずか、クライスは続ける。
「最初に申し上げておきますが、今回の事件はあくまでアカデミー内部の問題であり、この場で明らかにされたことは、特別の事情がない限り、外部に漏らすことがないようお願いしておきます。これはヘルミーナ先生、イングリド先生のご意向でもあり、そのためにアカデミーの最高責任者であるドルニエ先生にもご同席いただいたわけです」
「ふふふふふ、その通り。この大事な時期に、スキャンダルはご法度だからね。それに、犯人が挙がっても、騎士隊に引き渡すだけでは甘い。あたしの大切な研究成果を盗んだ報いを、たっぷりと思い知らせてやらないと気が済まないからね、ふふふ」
「そういう問題ではないでしょう、ヘルミーナ」
イングリドが目を吊り上げ、厳しい口調で言う。
「たしかに、アカデミーの名誉は守らなければなりません。ですから、わたくしも騎士隊への通報は控え、内々に事件を解決するという方針に同意したのです。しかし、犯人が明らかになったからといって、勝手に私的な制裁を加えることは許しません。それに、ことがアカデミーのみにとどまらず、ザールブルグ全体に影響が及ぶような事態だと判明した場合には、ただちに王室へ通報しますからね」
「ふん、いい子ぶるんじゃないよ」
「何ですって!?」
イングリドが椅子から腰を浮かせた。
アカデミーの“竜虎”は、一触即発の状態でにらみあう。ぴんと張り詰めた緊張感に、それぞれ師の隣に座っていたアイゼルとエリーが身をすくませる。
クライスがなにか言おうとする前に、場の雰囲気に不似合いな、ほんわかとした声が響いた。
「あの・・・。マシュマロをいただいてもよろしいでしょうか?」
ヘルミーナの手前に座ったルイーゼが、いつも通りの罪のない夢見がちな表情で、マシュマロの載った皿に手を伸ばす。ひと口大のマシュマロを上品に口に運ぶと、お茶をすすり、幸せそうな笑みを浮かべた。
「美味しいですわね・・・」
ヘルミーナは毒気を抜かれたようにルイーゼを横目でにらむと、肩をすくめて椅子にもたれ、力を抜いた。イングリドもそれにならう。
せき払いして、クライスは話を進めた。
「それでは、これから事件を順番に整理していきましょう。私は現場にはいませんでしたので、昨夜から皆さんにお聞きした内容に基づいて進めていきます。その際、もう一度、同じ内容を話していただくことになるかも知れませんが、面倒がらずにご協力をお願いします」
「ちょっとお待ち。もったいぶってないで、そこにいるマルローネが犯人だっていう決定的な証拠を挙げれば、それで済むんじゃないのかい?」
毒を含んだヘルミーナの声に、マルローネの肩がひくりと震える。マルローネはテーブルの手前側、クライスには背を向けた席にいるため、表情は見えない。元気者のマルローネには似つかわしくない、情けない声が漏れる。
「違います。あたし、やってないですよぉ・・・」
「それじゃ、なぜ、『デア・ヒメル装備』なんかを身につけて、用もないのに現場をうろついていたんだい? それに、騒ぎを聞いて、こそこそ逃げようとしたじゃないか」
「ですから、それは――」
「待ってください」
クライスが冷静にさえぎる。
「私は、あらゆる予断を排して事件に取り組んでいます。恐れ入りますが、ここは私のやり方でやらせてくださるようお願いします」
「ふうん・・・。予断を排してねえ・・・」
ヘルミーナの口元にかすかに意味ありげな笑みが浮かぶ。ティーカップを口に運び、イングリドも心の中でつぶやいていた。
(マルローネが第一の容疑者にされていなかったら、クライスはこんなに一生懸命になっていたかしら?)
「ここには、事件が発生したと思われる一刻の間に、現場に出入りする機会のあった全員をご招待しています。即ち、今回の事件が誰かの故意による盗難であった場合、盗みを実行できる可能性があったのは、こちらにいる皆さんだけなのです」
クライスは一同を見回す。
この言葉に、ヘルミーナがじろりとにらんだ。
「ちょっと待ちな。あたしは被害者だよ」
「ええ、もちろんそれは承知しています」
クライスは軽くかわした。
「私が言いたいのは、客観的に事件を眺めることができるかどうかということです。皆さんは現場にいたわけで、いわば事件の当事者です。状況を分析しようとしても、多かれ少なかれ、先入観を持ってしまうのは避けられません。しかし、まさしくケガの功名といいますか、幸いなことに、私は今回の特別研究発表会の関係者でありながら、病で伏せっていたために、事件当日の完璧なアリバイがある唯一の人間です」
複雑な表情で、マルローネの金髪の後姿を見つめる。クライスが『病に伏せった』事情を知っているイングリドは、ふたりの表情を見比べて、笑みがこぼれるのを抑えられなかった。
「ですから、この中で私だけが、第三者的立場で事件の全体像を見渡すことができるのです」
クライスは、自分に言い聞かせるように口調を強めた。


「では、あらためて事実関係を整理していきましょう。まず、事件の舞台となった『特別研究発表会』についてです。この発表会はザールブルグ・アカデミーの創立25周年を記念して開催されるもので、限られた優秀な研究者が自分の研究成果を披露する場です。さらに言えば、ルイーゼさんと校長先生を除いて、ここにいる全員に参加資格がありました。あいにく、思わぬアクシデントで、私は準備が整わず、参加することはできませんでしたが・・・」
クライスは軽く肩をすくめる。
「試験休みの最中で、一般の生徒たちも不在のため、研究発表はアカデミーのロビーを会場として行われることになっていました。数日前から、ロビーには個別に仕切られたブースが作られ、発表者は思い思いに準備を進めていました。そして、昨日にはほとんどの出品物が出揃い、皆さん、最後の仕上げにかかっていたわけです。ヘルミーナ先生も、お昼過ぎには地下の実験室からロビーに上がって来られたのですね」
ヘルミーナに目をやり、うながすように軽くうなずく。それを受けてヘルミーナはカップを置き、口を開いた。
「ああ、午前中はずっと実験室にこもって、最後の仕上げをしていたよ。そして、アイテムが満足のいくできになったので、それを持って会場へ向かったのさ」
「ちょっと待ってください。そのアイテムの形と大きさは、どんなものだったのですか?」
「片手でも持てる、ごく普通のガラス瓶さ。ただ、瓶は黒いから、中身は見えないけどね、ふふふ」
「『暗黒水』の瓶と似たようなものですか」
「まあ、そうだね」
「それが、先生がおっしゃっていた『究極の錬金術アイテム』だったのですね」
「そうさ、正確に言えば、その瓶の中身だね。無から有を創り出すという錬金術の本質から導き出された逆説的帰結――あたし以外には絶対に調合不可能な究極物質さ、ふふふふ」
挑戦的にイングリドをにらむ。
「さあ、どうだか。口ではいくらでも言えるものね、ほほほ」
「ふふふ、減らず口を叩いていられるのも、今のうちさ」
再び空気がぴんと張り詰め、エリーとアイゼルは、勘弁してほしいというように眉をひそめて顔を見合わせる。
「このチーズケーキも、美味しいですね・・・」
絶妙のタイミングで、ルイーゼがつぶやく。ルイーゼのほんわかとした声に、またも場の緊張が解きほぐされた。
クライスが尋ねる。
「ヘルミーナ先生がアイテムを持ち込まれた時、会場にはどなたがいましたか」
「カウンターにルイーゼがいたね。だけれど、下を向いてなにかに夢中になっていたみたいだから、あたしには気付かなかったかも知れない。隣のブースでは、アイゼルが待っていた。準備の手伝いを頼んでいたものだからね」
横目でアイゼルを見やる。アイゼルは黙ってうなずいた。
「向かいのイングリドのブースは空だった。どうせ、準備が遅れてあたふた駆け回っていたんだろうけどね。それから、エリーとノルディスが、その隣のブースで顔をつき合わせて、なにか話をしていたよ。こっちを見て挨拶をしたから、あたしに気付いていたことは間違いないね」
クライスが目を向けると、イングリドの両隣に座っているノルディスとエリーがうなずいた。
「それから、どうされました?」
「アイゼルに手伝わせて、展示の準備を進めた。ある程度、形が整ったところで、アイゼルは自分のブースへ戻ったよ。あたしの隣がアイゼルのブースなんだけれどね。その後、説明用のグラフを実験室に忘れてきたのを思い出して、取りに戻った。アイテムはテーブルの上に置いたままでね。実験室では、いろいろとこまごました用事を片付けていたものだから、一刻近く手間取ってしまった。それからブースに戻ってみたら、アイテムはきれいさっぱり消えてしまっていたのさ」
「ただ、テーブルの上に置き放しにしていたのですか」
「もちろんだよ。まさか、アカデミーに盗人がいるとは思ってもいなかったからねえ、ふふふ」
「アイテムがなくなっていたことに気付いて、どうされましたか」
「さて、どうだったかねえ・・・」
「そこからは、わたくしがお話ししましょう」
イングリドが冷ややかな声で割り込む。
「ひとことで言えば、ヘルミーナは逆上してしまったのよ」
ヘルミーナはじろりとにらんだが、何も言わない。
「ものすごい声でわめきたててね。自分のブースを片付けていたわたくしが目を向けると、ヘルミーナが鬼みたいな形相でアイゼルに詰め寄っていたわ」
その時の様子を思い出したのか、アイゼルがひくりと身を震わせた。
「ふん・・・。ちょっと言葉がきつくなっただけよ。ねえ、アイゼル」
「え、ええと・・・。あの・・・」
困ったように目を伏せるアイゼル。勇気を奮い起こしたように、エリーが口を開く。
「ええと、あの時のヘルミーナ先生は、これまで見た中で、いちばん怖かったです」
同意を求めるようにノルディスを見やると、ノルディスもぎこちなくうなずいた。
「ヘルミーナ先生は、どのようなことをおっしゃっていたのですか」
クライスの問いに、おずおずとアイゼルが答える。
「はい・・・。まず、わたしを振り向いて、普通の口調で『あたしの展示アイテムを知らないかい?』とおっしゃいました。わたしは『知りません』と答えました。その後、先生と一緒にブースを探しましたが、それらしいものは見つからなかったんです。そのうちに、先生が『盗まれたに違いない』とおっしゃって、急にわたしに向かって、『あんたがちゃんと見ていないからだ!』って怒鳴りはじめて――」
アイゼルのエメラルド色の瞳がうるみ、声がかすかに震えた。
イングリドが引き取って、とがめるような口調で言う。
「『あたしの研究が盗まれた。盗んだやつは生かしちゃおかない』――。そうも言っていたわね」
「わたしとノルディスも、何があったのかはわかりませんでしたけど、アイゼルを助けなきゃと思って、ヘルミーナ先生のブースへ向かいました」
エリーが言葉を継ぐ。
クライスに目を向けられたルイーゼも、上目遣いにその時のことを思い出すようにしながら、ゆっくりと答えた。
「はい・・・。ヘルミーナ先生の大きな声がしたので、読んでいた本からあわてて顔を上げました。でも、目が悪いので、あたりの様子はぼんやりとしか見えません。それで、カウンターを出ようとしたら、騒ぎを聞きつけたのか、ドルニエ先生も校長室からあわてて下りていらっしゃいました」
「ヘルミーナは、講師にあるまじき言葉をわめき散らしていたわ。ですから、わたくしはひっぱたいてでもやめさせようと思って、近付いたの。そうしたら、ヘルミーナのブースの近くに何者かの気配を感じたのよ」
イングリドが、椅子に小さくなっているマルローネに流し目をくれる。その視線を追ったヘルミーナが言う。
「ああ、あたしも感じた。その気配はこそこそと逃げようとしているようだったからね。とっさに『影縫い針』を投げたのさ」
『影縫い針』とは、命中した相手を麻痺させて一時的に動けなくしてしまう錬金術アイテムだ。
「あなた、なぜそんな物騒なものをアカデミー内で持ち歩いているのよ? 危険じゃないの」
「ふん、こんなこともあろうかと思ってね。転ばぬ先の杖ってやつさ」
とがめるようなイングリドの言葉に、ヘルミーナは済まして答える。
「あ、わたしも持ち歩いてますよ、護身用に」
なにげなく答えたエリーは、イングリドににらまれて、あわてて首をすくめた。
「話を元に戻しましょう。ヘルミーナ先生が『影縫い針』を投げて、どうなったのですか」
「もちろん命中して、そいつは動かなくなった。そして、すぐに化けの皮がはがれたのさ」
「それが、マルローネさんだったのですね」
「そうさ、ごていねいに、『ルフトリング』と『逃げ足のくつ』、『デア・ヒメル手袋』を身につけていてね」
「なるほど、他人から見えなくなってしまう『ルフトリング』を身につけていたから、最初は姿が見えず、気配しかなかったわけですね」
『ルフトリング』、『逃げ足のくつ』、『デア・ヒメル手袋』は錬金術で調合できるアイテムだが、かつて伝説の怪盗デア・ヒメルが身につけて、盗賊稼業をやすやすと行っていたという魔法アイテムを模倣したものだと言われている。
「『影縫い針』の効果が薄れ、身体を動かせるようになると、マルローネはぺこぺこ頭を下げ、涙を流しながら『ごめんなさい、ごめんなさい』と謝り始めたわ。ですから、わたくしも彼女がまた悪さをしたに違いないと思い込んでしまったのよ」
イングリドが落ち着いた口調で言う。
「ヘルミーナはまだ怒り狂っていて、このままではマルローネが何をされるかわからないと思ったものですからね。ヘルミーナを止めるのはエルフィールたちに任せて、『盗んだものをすぐに返せば、許してもらえるようにしてあげます』と言い聞かせました。ところが――」
考え込むような表情になり、
「泣きながら謝っていたにもかかわらず、なくなったアイテムのことを問いただすと、マルローネはきょとんとして『盗みなんか、やっていません』と言い張るのよ。背後では、3人がかりで取り押さえられながら、ヘルミーナが、生皮をはいでやるだの一生忘れられない地獄の苦しみを味わわせてやるだの、大騒ぎしているでしょう。今から思えば、わたくしもやや自制を欠いてしまったようで、つい厳しい言葉を浴びせかけてしまったのよ」
イングリドはちらりとマルローネを見やる。
「すると、マルローネは突然、身をひるがえすと、止める間もなく、あっという間に逃げ出してしまったわ」
「なるほど。マルローネさんの逃げ足には定評がありますからね。そしてそのまま、マルローネさんは私の部屋へ駆け込んできたというわけですか」
クライスは考え深げにうなずいた。


「さて・・・」
クライスはピコにティーカップを渡し、お代わりを注いでもらうと、ゆっくりとすすった。
「まずここで、第一の容疑者とされているマルローネさんが、現場でなぜあのような怪しい行動をとったのか、その事情をはっきりさせておきたいと思います。何にせよ、状況証拠としては、いかにも怪しげですからね。天下の怪盗、デア・ヒメルの装備をつけて身を隠し、ヘルミーナ先生のブースの近くに潜んでいるところを見つかった。しかも、見つかったとたんに謝罪を始め、さらに問い詰められると脱兎のごとく逃げ出してしまったというわけですから。これでは、犯人と疑われても仕方ありません」
「ちょっと、クライス――」
抗議するように振り返ったマルローネを目で制すると、クライスは穏やかな口調で言った。
「『特別研究発表会』では、当日まで各自の発表テーマは伏せられています。もちろん、後で申し上げるように、前評判や憶測が乱れ飛んでいることは否定しませんが。ですが、マルローネさんの研究発表の内容は、どなたもご存じないことと思います」
イングリドが黙ってうなずいた。
「さて、マルローネさん・・・。今回の研究発表会での、あなたの発表テーマを皆さんに教えてあげていただけませんか」
「ええと、ブレンド調合で極限まで効力をアップした『デア・ヒメル装備』・・・」
一同があっと目を見張った。
「昨日、マルローネさんは、出品するアイテムの効果を試すために、自ら『デア・ヒメル装備』三点セットを身につけて、こっそり会場をうろついていた――。そういうことですね」
「うん、午後の鐘が鳴ったすぐ後に入り込んだよ。誰にも気付かれなければ、大成功だからね。エリーやアイゼルが作業をしている近くを何度も通ったけど、誰も気がつかなくて、うまくいったと思った」
「そういうことだったの」
イングリドがつぶやく。だが、ヘルミーナは険しい顔で、
「だけどね、それで疑いが晴れるわけじゃないよ。逃げ出そうとしたのは、どういうことなんだい? それに、見つかった時に泣きながら謝っていたじゃないか。納得できる理由を聞かせてもらいたいものだね」
「それについては、昨日、マルローネさんが私に話してくれました」
クライスはマルローネを見やる。
「マルローネさん、もう一度、あの話をしていただけますね」
「うん・・・。エリーの隣のブースは、その時は誰もいなかったんだけど――」
「わたくしのブースね」
はっとしたようにイングリドが言う。
「はい・・・。実は、このところ徹夜が続いていたもので、眠くなっちゃって、ついブースにもたれてうとうとしてたんです。で、はっと目が覚めて、立ち上がった時にちょっとよろけて、手を突いた拍子に、テーブルに置いてあったきれいなガラスの筒を倒しちゃって、見たらヒビが入っていて――」
イングリドが無言でマルローネに目を向ける。
「あ、あの・・・。後でちゃんと謝ろうと思ったんですよ! でも、どうしようかおろおろしているうちに――」
「ヘルミーナ先生が騒ぎ始めたのですね」
クライスが念を押す。
「うん・・・。それで、何が起こったのかはわからなかったけど、まずいと思って、こっそり抜け出そうとしたのよ。そうしたら、ヘルミーナ先生に『影縫い針』を投げつけられて、装備の魔力も消えて、見つかっちゃって・・・」
「その時、何を謝っていたのですか」
「もちろん、イングリド先生のガラスの筒を壊しちゃったことをだよ」
「それでは、なぜ急に逃げ出してしまったのですか?」
「ええと、イングリド先生に怒られたら、自然に身体が動いちゃって・・・」
「なるほど、長年の経験から染み付いた、反射行動というわけですね」
「まあ」
イングリドがあきれ顔になる。隣では、エリーがうんうんとうなずいていた。彼女もイングリドの逆鱗に触れて、いたたまれずにその場を逃げ出してしまったことが何回もある。
イングリドはくすっと笑って、肩をすくめた。
「あの筒は、最初からヒビが入っていたのよ。わたくしが運んできた時に、倒してしまってね。それで、代わりの筒を取りに行って、戻ってきて取り替えようとしていた時に、ヘルミーナがぎゃあぎゃあわめき始めて――」
「ええ!? そうだったんですか? 謝って損しちゃった」
「それは違います。元から壊れていたとしても、あなたが不注意で倒してしまったことには変わりありません。反省しなさい」
「ひえっ」
イングリドに厳しく言われて、マルローネは身をすくめる。
だが、すぐに明るい表情に戻り、
「でも、これであたしの疑いも晴れたってことですよね!」
「そんなことはありません」
冷水を浴びせかけるような、クライスの言葉。
「ここまでで明らかになったのは、現場でのマルローネさんの怪しげな行動に、納得のいく説明がついたというだけのことです。犯人でないと証明されたわけではありません」
「何よ! クライス、あたしを信じてくれてるんじゃなかったの!?」
席を立ち、クライスに詰め寄る。真剣極まりないマルローネの空色の瞳に吸い込まれそうな気がして、クライスはあわてて目をそらした。
「私は信じていますよ!」
そう言ってしまってから、口を押さえ、むせたふりをして窓の方を向く。イングリドをはじめ、みんなの視線を背中に痛いほど感じながら、かあっとなった頬と鼓動の高まりが収まるのを待つ。
ようやく、何事もなかったかのように装って振り返り、全員の視線を受け止めた。
「続けましょう」
落ち着いた声が出せたのでほっとする。
「マルローネさんも、可能性の上では、容疑者のひとりであることに変わりありません」
何か言おうとするマルローネを制し、静かに言う。
「皆さんのひとりひとりと同じように、ということです。犯人探しは、ようやくスタートラインに立ったに過ぎません」
しばらくの沈黙。
「お茶のお代わりをおくれ。どうやら、まだまだ時間はかかりそうだね、ふふふ」
面白がっているような、ヘルミーナの声が響いた。


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