Scene−4
カスターニェは、夏真っ盛りだった。
頭の上からは熱い太陽がじりじりと照りつけ、日向の砂地は裸足では歩けないほどの熱を持っている。
西の大洋に面した港町であるカスターニェは、数年前まではさびれていた。巨大で狂暴な海竜フラウ・シュトライトの出現によって、住民は沖合いに漁に出ることもできず、ケントニスとの定期航路も封鎖されてしまっていた。町を訪れる旅人も減り、活気はなくなっていた。
しかし、フラウ・シュトライトが退治されてから、町は活気を取り戻していた。
海竜が出没していた時期には中止されていた夏祭りも再開され、ここ数年、祭りの規模も次第に大きくなっていた。
今、カスターニェの街は、数日後に控えた夏祭りの準備のため、熱気にあふれていた。
街の中央を走るメインストリートでは、夜に灯される提灯が街路樹に吊るされ、露店を出す商人や大道芸人たちは、場所取りやら仕込みやら、準備に余念がない。
海岸では、祭りのフィナーレを飾る花火コンテストを観覧するための会場が、丸木を組上げて作られようとしている。
街でいちばん大きな宿屋『船首像』も、祭りで一儲けしようという商人や祭りを楽しもうとして訪れた旅人たちで、早くもにぎわいを見せていた。
しかし、『船首像』の店主ボルトは、客あしらいを使用人に任せて、店を空けていた。
町外れの停車場で、そわそわと足を組み替えながら、東の街道の方を何度も見やる。そこは、東へ伸びるカスターニェ街道の外れで、この港町と王都ザールブルグと結ぶ馬車路線の終点でもある。
もうそろそろ、何事もなければ、ザールブルグからはるばる荒野を踏破してきた馬車が到着する頃合だ。
ボルトは、年甲斐もなく、胸が高鳴っているのを意識していた。
もうすぐ、“彼女”がやって来る。
「よぉ、ボルトの兄貴」
不意に声をかけられ、ボルトはぎくりとして振り向いた。
「なんだ、オットーに、ユーリカか」
漁師兼雑貨屋店主のオットーと、女ながら町で五本の指に入る腕利きの漁師のユーリカが、にやにや笑いながら立っている。ふたりとも、ボルトにとっては弟分、妹分とも言うべき、昔からのなじみだ。
「どうしたのさ、こんなところで。店の方を放っといていいのかい。かき入れ時じゃないか」
釣り竿とびくをかついだユーリカが、笑いながら言う。
「余計なお世話だ。おまえら子供と違って、こっちには大事な用事があるんだ」
ボルトは言い返す。
「ふうん、大事な用事ねえ。ボルト兄貴にとって、仕事よりも大事な用事って、何だろうな。気になるなあ」
何食わぬ顔で、オットーがとぼける。
「おい、もういいだろ。用がないなら、あっちへ行っててくれ。おまえらも祭りの準備があるんだろうが」
ボルトはわざと声を荒げたが、ユーリカもオットーも、立ち去ろうとする気配がない。
そうこうしているうちに、遠くから馬のいななきが聞こえてきた。先触れの鈴の音に混じって、金具のきしみ、車輪のごろごろいう音が、地面を伝わってくる。
もうボルトは、オットーやユーリカには構わなかった。首を伸ばし、近付いてくる乗り合い馬車を待ち受ける。
停車場に到着した馬車は、乗客でごったがえしていた。
馬車が止まる前から、商人の徒弟や身軽な冒険者は馬車を飛び降り、思い思いの方向へ散っていく。
止まった馬車からは次々と荷物が運び出される。人が降りてくるのは、いちばん最後だ。
でっぷりした商人とその郎党ががやがやと騒ぎながら馬車を降りると、先に下ろされていた荷物に群がり、我先に自分の荷物を確保しようとする。
ボルトはそんな騒ぎには目もくれず、心配そうに、その後に馬車から出てくる乗客に、ひとりひとり確かめるように視線を向ける。
そして、水色の服に身を包んだ金髪の女性がいささか頼りない足取りで出口に現われると、ボルトは弾かれたように人波をかきわけて女性の元に向かった。
相手もボルトを認め、にこやかに微笑む。海を思わせる深みのある青い瞳は、大きく見開かれ、ボルトを正面から見つめる。
「こんにちは、ボルトさん。ご招待にあまえて、来てしまいましたわ」
ボルトに手を取られた馬車から降り立ったルイーゼは、おっとりした口調で語り、優雅に一礼して見せた。
「いえ、ルイーゼさん。こんな田舎町までわざわざ来ていただいて、ありがとうございます。すぐ、宿へご案内しますから・・・」
緊張で、ボルトの声は上ずっている。
それを、背後から面白そうに見ていたオットーとユーリカは、顔を見合わせて笑った。
「待ち人来れり・・・ってところね」
「そうか・・・。あれが、噂のボルト兄貴の“水の女神”か・・・」
何年か前、アカデミーの仕事でカスターニェへやって来たアカデミーショップ店員のルイーゼに、海の男ボルトがひとめぼれしたという噂は、オットーもユーリカも知っている。今回、ボルトが並々ならぬ決意をもって、カスターニェの夏祭りにルイーゼを招待したであろうことも、想像できた。
「ま、うまくいってほしいもんだよな」
海竜フラウ・シュトライトに大けがを負わされ、その傷が元で海に出られなくなってしまってから、ボルトが歩んできた苦難の道のりは、オットーもユーリカもよくわかっている。ボルトに幸あれと願うふたりだった。
だが、その時ボルトは既に、ルイーゼの後から馬車を降りて来たヘルミーナにつかまっていた。
「なんだい、この町は。宿まで荷物を運んでほしいのだけれど、人夫もいないのかねえ。ふふふふふ」
この妖しげな雰囲気を持った女性がルイーゼの連れということもあって、結局ボルトは、不気味な模様が施された大きな木箱を『船首像』までかついでいく羽目になってしまった。もっとも、編み込まれた『グラビ結晶』のせいで、その木箱は見かけによらず軽がると持ち運べたのだが。
「やれやれ、やっぱり前途多難みたいだな、ボルトの兄貴は」
複雑な思いで見送ったオットーとユーリカは、海岸通りの方へ向かって歩き出した。
「ところでオットー、あんた、今年も『うに料理』の屋台を出すんだろ」
「ああ、もちろんさ、オットー直伝、『元祖うに料理』の真髄を味わわせてやるぜ。もう中央通りの一等級の場所取りも済ませてあるしな」
「それなんだけどさ」
ユーリカは言葉を切ると、オットーを振り返った。
「さっき、夏祭り実行委員会の寄り合い所でちょっと小耳に挟んだんだけど、今年は、なんか、『本家うに料理』を食べさせる店が出店されるみたいだよ。ヴァイ・・・なんとかいう村からの出店なんだってさ。しかも出店の場所はあんたの店の真正面だって」
「なんだとぉ!!」
オットーはいきり立った。
「どこの馬の骨だか知らねえが、『うに料理』で、このオットーに戦いを挑んでくるたあ、いい度胸じゃねえか。見てろよ、『元祖うに料理』の美味さを思い知らせてやるぜ」
オットーは、ユーリカを振り返って言った。
「こうしちゃいられねえ。もう一度、穴場を一回りして、仕込みのやり直しだ。ユーリカ、手伝ってくれ」
「あ、ごめん、あたしパス」
「なんでだよ」
「あたしの方も、そろそろ待ち人が着く頃なんだよ。ケントニスからの定期船が、もうすぐ波止場へ着く時間なんでね」
オットーは、ちょっと考えて、うなずいた。
「そうか、エリーが来るんだったな」
「そう、だから、今日これからの手伝いは、ちょいと勘弁してほしいんだよね。明日の朝からは、目いっぱいあんたに付き合うからさ」
「そうか・・・。まあ歓迎してやるんだな。なんせ、海竜フラウ・シュトライトを倒したこの町の英雄なんだからよ」
言い残すと、オットーは海辺の岩場の方へ消えていった。
「さて、と」
ユーリカは釣り竿を担ぎ直すと、久しぶりに会う錬金術師の友人をどんな顔をして迎えようかと考えながら、埠頭へと向かった。
Scene−5
その翌朝。
カスターニェの北側に広がる広大な砂浜、『千年亀砂丘』に、エリーはいた。
海から吹いてくる潮風は涼しく、日差しもまだ暑いというほどではない。間断なく寄せては返す潮騒のざわめきが、耳に心地よく響く。
エリーは、小高い砂丘のてっぺんに腰を下ろし、打ち寄せる波のうねりをぼんやりと眺めながら、右手で砂をすくってはさらさらとこぼしていた。
昨夜は、あまりよく眠れていない。
夕方、ケントニスからの船旅を終えて到着したエリーは、ユーリカに出迎えられ、熱烈な歓迎を受けた。その後、いつも定宿にしている『船首像』に落ち着いたエリーは、先に到着していたルイーゼやヘルミーナと旧交を暖め、寝室に戻ったのは、とうに夜中を過ぎた頃だった。
寝床に入っても、エリーはなかなか寝つけなかった。それが、懐かしい友人たちに会えた興奮のせいなのか、それとも翌朝のことを考えていたためなのかはわからなかった。
ともあれ、エリーは夜明けとほぼ同時に起き出して、『千年亀砂丘』までの道のりを歩き通して来たのだった。
カスターニェ全体に充満している祭りの熱気と興奮も、この静かな砂丘までは届いてこないようだった。人影は、どこにも見えない。
エリーは、じっと待った。
手紙に書かれていた場所は、ここだ。間違いはない。
潮騒の単調なリズムが身体全体を包み込み、寝不足だったエリーは、ふっと眠りに沈みこみそうになる。自分でそうと気付かないうちに、まぶたが落ちる。
いつのまにかうとうととし始めていたエリーは、波とは別のリズムが響いてくるのを感じ、はっと目覚めた。
それは、砂丘の後方、潮騒とは反対の方向から近付いてくる。
ざくり、ざくり、と砂を踏む、重くしっかりとした足音。
エリーは、目を大きく見開き、じっとまっすぐに海を見据えたままだ。
足音は、着実に近付き、やがてエリーのすぐ背後で止まった。
ぽん、とエリーの頭に手が乗せられる。
「よお」
昔と変わらない、ぶっきらぼうな挨拶だ。
振り向いたエリーは、にっこりとダグラスに微笑みかける。
「ダグラス! 久しぶりだね、元気だった?」
「ああ。・・・おまえも、元気そうだな」
青い聖騎士の鎧をつけたままのダグラスは、鎧と同じ色の瞳を輝かせて、にやりと笑って見せた。
久しぶりに会った聖騎士の姿を、にこにこと見やっていたエリーだが、その瞳がくもる。
「あれ・・・? ねえ、ダグラス、そこ、どうしたの? ・・・あ、ここにも、そっちにも!」
よく見れば、ダグラスが身に着けている鎧は、胸当ても肩当ても、あちこちがへこみ、白い傷が無数に走っている。黒っぽい肌着には、目立たないが何ヶ所にも染みがついている。
「ああ? こんなの大したことねえよ」
「だめよ! 血が出てるんじゃないの? ちょっと見せて!」
エリーは有無を言わさず、ダグラスの鎧を脱がせ、肌着をまくりあげる。
「まあ!」
引き締まったわき腹や、厚い胸板には、血のにじんだみみず腫れがいくつも走っている。左腕の長い傷は治りかけてはいるが、乱暴に傷口を縫い合わせた跡が残っている。
「だめじゃないの、ちゃんと治療しなきゃ! 化膿したらどうするのよ」
エリーはいつも携帯している薬箱を取り出すと、蒸留水で傷口を洗い、『アルテナの傷薬』をたっぷりとすり込んだ。
「おいおい、痛えよ。もう少し優しくやってくれよ」
「だ〜め! 放っておいて、ばい菌が入ったら大変なんだから。こんな痛さじゃ済まないわよ」
エリーはてきぱきと手当てを終えると、まくり上げていた肌着を元に戻す。
「さ、これでおしまい。でも、ダグラスがこんなにやられるなんて、何があったの」
ダグラスは、胸当てを再び身に着けながら、つとめて平静な口調で答える。
「ああ、アーベント山脈の中で、アポステルの群れを深追いした騎士がいたんだよ」
アポステルというのは、山岳地帯に棲む狂暴な魔物で、コウモリの翼を持った巨大なトカゲといったような姿をしている。鋭い鉤爪とくちばしが武器で、まともに一撃を受けたら大の男でも大けがをしかねない。
「で、いちばん近くにいた俺が助けに向かったんだが、俺も取り囲まれちまってな。ひとりで5匹を相手にしなけりゃならなかった。その脱出の時に、やられたのさ」
「もう! ダグラスったら、本当に無茶ばかりするんだから!」
エリーの目に、ふといぶかしげな色が浮かぶ。
「ねえ、それで・・・ダグラスが助けに行った騎士さんは、どうなったの?」
ダグラスは目を伏せ、くちびるをかんだ。
「どうでもいいだろ、そんなことは」
ダグラスの表情を見て、エリーはすべてを察した。
魔物討伐の遠征は、遊びごとではない。ダグラスは、死と隣り合わせの旅を、2ヶ月も続けてきたのだ。
エリーは気を取り直したように明るい口調で言った。
「さ、行こうよ、カスターニェの夏祭りへ。ルーウェンさんやロマージュさんや、懐かしい人たちもたくさん来るって言ってたよ。思いっきり楽しまなくちゃ!」
Scene−6
カスターニェの夏祭りは、今やたけなわだった。
浜辺に作られた急ごしらえの舞台では、地元の人々が手に手に思い思いの楽器を持って集まり、即興の演奏会が開かれていた。大漁を祝う歌や、海の女神に捧げられる荘厳な楽曲、旅回りの吟遊詩人がつむぎ出す異国の冒険譚などが次々に奏でられ、人々の耳を楽しませている。
砂浜のあちこちでは爆竹が打ち鳴らされ、子供たちが歓声をあげて走り回る。普段は仕事に精を出している漁師やおかみさんたちも、思い思いの格好に着飾って、街中をそぞろ歩く。
カスターニェ街道の終点から港の埠頭まで続く、町のメインストリートには、色鮮やかに飾り立てられた無数の屋台が立ち並び、客寄せの音楽や呼びこみの声が、けたたましく響き渡る。あちこちに幟が立ち、地元名産の珍味や磯料理、遠く南国からキャラバンによって運び込まれた珍しい果物や珍奇な装飾品が売られている。タロット占いの館や、奇抜な踊りを披露する踊り子や軽業師のことも忘れてはならない。
そんな中を、人ごみにもまれながらも、お互いに離れ離れにならないようにしながら、エリーとダグラスはゆっくりと見て歩いていた。
今はダグラスも鎧を脱いで、軽装になっている。もっとも、この人ごみの中であちこちに硬い出っ張りのある鎧を身に着けていたら、それだけで歩く凶器、町の大迷惑になっていただろう。
露店で売っている奇抜なお面をかぶっておどけたり、ヨーヨー釣りや金魚すくいを楽しんだりしながら、ふたりはゆっくりと、メインストリートを縦断しようとしていた。
その時、道端から声がかかった。
「エリー! さあ、寄ってってくれよ! カスターニェ名物、オットー雑貨店提供の『元祖うに料理』だ!」
見れば、『元祖』と大きく飾り文字で書かれた看板の下、オットーが汗びっしょりになりながら、炭火で魚をあぶっている。また、炭火で熱せられた金網の上で、トゲの生えた殻を割られたうにがあぶられ、香ばしい煙と脂の焦げる匂いが、道の真ん中まで漂ってくる。
店の前では、鉢巻を締めたユーリカが、大ぶりな貝殻を皿代わりにして、焼けたばかりの熱々の魚とうにの盛り合わせを、客に振舞っている。
香ばしい香りに食欲をそそられ、食いしん坊のダグラスは思わずつばをごくりと飲みこんだ。
オットーの露店の方に寄っていこうとすると、背後から別の声がかかる。
「おいおい、こっちも見ていってくれよ! こっちこそ、うにの本場ヴァイツェン村仕込みの『本家うに料理』だ! うまいぞ〜!」
聞き覚えのある声に、振り返ったエリーは、懐かしい顔を見つけて思わず笑顔になる。
「わあ、ルーウェンさん、久しぶり! 何やってるんですか」
トレードマークの緑色のバンダナを額に巻き、昔ながらの人なつっこい笑顔を浮かべたルーウェンは、『本家うに料理』と鮮やかに染め抜かれた幟を立て、こちらは白い湯気の立ち昇る蒸し器を前にしている。
「あたしもいるわよ」
色っぽい声とともに、湯気の向こうから現われたのは、褐色の肌をした銀髪の女性で、肌もあらわな踊り子の服を身に着けている。こちらも、エリーにとっては懐かしい顔だ。
「ロマージュさん!」
ロマージュは、蒸し器を開けると、蒸しあがったうにからトゲのある殻を外し、ほくほくと湯気を立てる黄色い中身を手際よくヤシの葉の皿に盛り付け、新鮮な果物を添えると、香辛料を効かせたソースを一振りし、客に手渡す。流れるような手さばきだ。
オットーの『元祖うに料理』と格闘しているダグラスから離れ、エリーはロマージュに近付くと、その手を取った。
「ロマージュさん、夏祭りにいらっしゃるとは聞いていたんですけど、ルーウェンさんと一緒だとは思いませんでした」
エリーが意外そうに言う。
ロマージュは微笑んで、
「わたし、ここのところしばらく、ヴァイツェン村に住んでいるのよ」
ヴァイツェン村というのは、ルーウェンの故郷の村の名だ。昔、シグザール王国と隣国のドムハイト王国との戦争が起こった際に、ヴァイツェン村は焼き討ちに遭い、村は焼き払われ村人たちは四散した。その時、幼かったルーウェンは両親と離れ離れになってしまった。成長したルーウェンは、冒険者をしながら全国を旅して回り、両親の行方を捜し求めた。その途上で、ルーウェンはエリーやマルローネとも知り合ったのだ。そして、5年ほど前、ルーウェンは両親の消息を突き止め、ついに再会することができた。今、ルーウェンは滅んでしまった故郷と同じ名をつけられた新しいヴァイツェン村で、両親と共に暮している。
そういったルーウェンの消息は耳にしていたエリーだったが、ロマージュがヴァイツェン村に住んでいるとは初耳だった。
「静かで、とてもいい村だし。村の人たちも、根無し草のあたしに、とってもよくしてくれるしね。そろそろ腰を落ち着けてもいいかな、って思い始めているのよ」
ちょっと舌足らずな、色っぽい口調でロマージュは話す。エリーは目を丸くして聞き入っている。
「それじゃあ・・・、ロマージュさんは、ルーウェンさんと・・・?」
「うふふ、それはヒ・ミ・ツ」
ロマージュは人差し指を口に当てて微笑んだ。
「そうだわ、エリーちゃん。こんなところで立ち話もなんだから、後でゆっくりと話しましょうよ。今夜は、なにか予定はある?」
「あ、いえ、花火大会を見た後は、別に、何もありませんけれど・・・」
「あら、本当? あの聖騎士のお兄さんと一緒じゃないの?」
「え? やだなあ、ロマージュさん、ダグラスとは、そんなんじゃありませんってばぁ」
「うふふ、まあいいわ。それじゃ、月が昇った頃に、会いましょう。場所は・・・」
ロマージュから待ち合わせ場所を耳打ちされると、エリーは目を丸くしたが、黙ってうなずいた。
「それじゃ、また後でね」
ロマージュは店へ戻ると、再び流れるような手さばきで料理をさばき始めた。
一方、オットーの『うに料理』を食べ終わったダグラスは、今度はルーウェンにつかまっていた。
「おう、久しぶりだな、ダグラス。うちの『うに料理』も食っていってくれよ」
と、大きなヤシの葉に盛った食べ物を持たされる。
「あっちの海の料理もいいかも知れないが、こっちはヴァイツェン村で取れた新鮮な山の幸だ。どうだ、うまいだろう」
ちなみに、オットーが使っている食材は海に生息する『うに』で、ルーウェンの料理のネタは森で採取できる木の実の『うに』である。
食べ終わると、ルーウェンはダグラスの首に腕を巻きつけ、強引に露店の中へ引き込んだ。
「な、何すんだよ!?」
憤然とするダグラスに、ルーウェンは落ち着いた口調で話しかける。
「なあ、せっかくこうして久しぶりに会ったんだ。ゆっくりと、積もる話でもしようぜ。今は、店がこんな状態だから、今夜はどうだ? それとも、エリーとのデートで忙しくて、それどころじゃないか?」
「ば・・・ばっかやろう、あいつとは、そんなんじゃねえよ」
立ち昇る湯気にあおられたせいか、ほのかに赤みが差した頬のダグラスが、ぶっきらぼうに答える。
ルーウェンは、そんなダグラスに流し目をくれ、
「ふうん・・・。それじゃ、決まりだな」
と、場所と時間を言う。ダグラスは、少し驚いた表情をしたが、ルーウェンは澄まして言った。
「ま、いいじゃないか。男同士、裸の付き合いってやつさ」
ようやく解放されたダグラスは、エリーと落ち合い、再び縁日を冷やかしながらそぞろ歩いた。
そして、停車場から埠頭まで中央通りをひととおり歩き終えると、夜の花火大会に備えて、いったん宿へ帰ることにした。
中央通りほどは人通りが激しくない海岸沿いの裏道を歩くふたりの会話は、途切れがちだった。
ふとりとも、それぞれに、エリーはロマージュと、ダグラスはルーウェンと、夜に会う約束をしている。だが、どうという理由があるわけではないが、なんとはなしに、そのことを言い出しにくい気持ちになっていた。
「な、なあ」
ダグラスが話しかける。
「結構、疲れたよな、今日は」
「うん。でも、まだ夜の花火大会があるんだから、しっかり見なくちゃ! マルローネさんがどんなすごい花火を作ってくるのか、興味しんしんだもんね。それに、ヘルミーナ先生も、絶対負けないって言ってるし」
「あ、ああ。楽しみだよな」
なんとなくかみあわない会話に、エリーは心配そうにダグラスを見上げる。
「どうしたの、ダグラス? なんか変だよ。疲れてるんじゃない?」
「ああ、長旅が続いたからな。でも、花火大会は、しっかり見ないとな」
「そう? 無理しないでね。花火大会が終わったら、早く寝た方がいいよ」
これを聞いて、ダグラスは急に元気になったようだった。
「お、おう、そうだな。今日は早めに休ませてもらうことにするか」
「そうだよ。あたしも夕べはあんまり寝てないもん。すぐにバタンキューだよ」
エリーも、明るい口調になって言う。
(これで、相手を心配させることなく、さっきの約束を守ることができる・・・)
ふたりの思いは同じだった。
ただ、『船首像』に向かって足を速めるふたりの心の片隅に、いささか後ろめたい気持ちがわだかまっていたことも確かである。
『船首像』に戻ると、1階の酒場のカウンターの中で、店主のボルトが夕食の準備を進めているところだった。
ダグラスとエリーに気付くと、ボルトは魚をさばく包丁の手を休めて、にっと笑って見せた。
「よぉ、お帰り。どうだった、祭りは楽しかったかい」
「ええ、最高でした」
「そうか、そいつはよかった。だが、カスターニェの夏祭りは、まだこれからだ。花火大会に備えて、たんと食ってくれよ」
ふと、エリーは、見なれた金髪の姿がカウンターの奥にいるのに気付いた。
「あれ、ルイーゼさん・・・? 何やってるんですか」
ルイーゼは、エリーの声にも気付かず、一心不乱に作業に没頭している。どうやら、木桶に入った小魚をより分けているようだ。
「さっきから、ずうっと、あれなんだよ」
ボルトが、頭をかきながら、傍から言う。
「いやな、ルイーゼさんが、夕食の仕込みを手伝ってくれるっていうんだ。俺はいいって断ったんだけれど、どうしてもって、きかなくてな。で、包丁を握らせたら、これが危なっかしくて、見ちゃあいられない」
これを聞いて、エリーはくすっと笑った。ルイーゼは、知識は一級品だが実技が苦手で、アカデミーを2年留年したほどなのだ。包丁捌きが頼りないのも、無理ないところである。
ボルトは続ける。
「それで、包丁は勘弁してもらって、料理ネタには使えない雑魚や小魚を捨ててきてもらおうと思ったら、ああなっちまった」
好奇心にかられたエリーは、ボルトの脇を抜けてルイーゼに近付いた。
ルイーゼは、桶の中から小魚を拾い上げては、ためつすがめつし、口の中でなにかつぶやいて、嬉しそうにうなずいては、別の桶に移していく。
「あの・・・ルイーゼさん?」
エリーがつつくと、ようやくルイーゼは顔を上げた。夢見るような表情はいつものことだが、いつも以上にうっとりしているように見える。
「あ、こんにちは」
「何してるんですか、ルイーゼさん?」
「あ、見てよ、これ。このお魚さんたち」
と、ルイーゼは嬉しそうにたくさんの小魚が入った桶を指差す。
「これがオピスソプロクツスでしょ、こっちがキオノドラコ、それから、この細長いのがキクロソネ・アルバよ」
「はあ?」
エリーはぽかんとして見つめる。
後ろからボルトが言う。
「俺も知らない深海魚の名前とかが、すらすらと出てきちまう。大したもんだぜ」
ルイーゼは、うっとりした口調で言う。
「今まで図鑑でしか見たことがなかった魚を、こんなにたくさん実際に見ることができたんですもの。本当に、来て良かったわ」
そして再び、ルイーゼは自分だけの世界へと沈降していった。
(ルイーゼさんらしいわね・・・)
ダグラスが待つ酒場の方へ戻るエリーの背後で、ボルトがため息をついてつぶやくのが聞こえた。
「やれやれ、やっぱり港町の宿屋のおかみさんにっていうのは、無理があるのかな・・・」