《有難い 在るもの探し ひたすらに》

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 イマヌエル・カントは,貧しい馬の蹄鉄打ちの家に生まれて,病弱で17歳のころまで苦しいとわめきちらし,やっと生きているという状態でした。ある時医者が村にやってきた折,持病が治るわけでもなかろうがせめて苦しさを軽くできないかと,相談しました。
 医者はカントの顔を見た後で,言いました。「気の毒だな君は。しかし,それは身体だけのことだよ。心はどうもなっていないよ。確かに苦しいだろう。だが,辛い,苦しいと言ったところで,それが治るわけでもない。どうだい,その辛い,苦しいというその口で,心の丈夫なことを感謝し喜ぶことができないかね。心が丈夫なお陰でこれまで生きてこられたのだからね。心を感謝と喜びで満たしてごらん。これが君に与えられる私の診断だ」。
 カントは考えました。「医者の言ったことを実行してみよう。僕は今まで辛い,苦しいと言うばかりであった。感謝や喜びなど思ってみたこともなかった。今日からは,辛い,苦しいなどとは言うまい」。喜びと感謝の日を過ごしていると,不思議に今までの苦しさに変わって,生きていくことの喜びが感じられるようになりました。それは,持病持ちの身体と丈夫な心の関係,すなわち体と心とはどちらが自分なのかという,哲学することの始まりになったのです。
 何かが無いとどうしても悩むようになりますが,無くても今までなんとかやってこられたということにも気付くべきです。無いものを悔やんで悩んでいる人がいたら,共に悩むという形の寄り添いだけではなく,今在るものを見い出して、それに気づくような形の励ましを届けることができたらと思います。このように他人事として思っているうちは,自分事にはなりません。
 人には言えても自分ではできない,言うは易く行うは難しです。その壁を乗り越えるにはどうすればいいのでしょう。周りの近しい人に向けて、本気になって言い続けることです。近くに居る人なら,励ましの効果が直に見えるはずです。その素晴らしい姿が,自分に励ましとして跳ね返ってきます。人の在るもの探しに耽ることで,いつしか自分の在るもの探しをしてしまうようになります。何となく言うのではなく,しっかりと言い続けようとすることで,自分にできるようになります。

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(2022年07月31日:No.1166)