《有難い 迷惑少し お互いに》

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 幼い頃に叱られた際の言葉は「いい加減にしなさい」でした。そのほかに「ふざけるのも程ほどにしなさい」という言葉も聞こえてきました。いい加減とか,程ほどとか,よく分かりませんでしたが,越えてはいけない一線があることは伝わってきました。その言い方は,いきなり止めなさいという禁止命令ではなく,注意喚起であって自分で考えて判断しなさいという指導でした。自分がしでかした行為を振り返り,それがどのような作用を周りに引き起こしたかを反省する経験を経て,今後の行動に対する学びができました。
 成長してくると,つい気を許して甘えてしまうときなどに「仏の顔も三度まで」という言葉を聞かされます。一度や二度までは受け入れてやることができるが,三度は無理であるという許容限度があることの教えです。甘えであることを自覚しているなら受け入れる余裕は示してやれるが,無自覚に抑制できないままであることは拒否されるという温かなしつけです。
 個人的な立ち居振る舞いが他者に影響を及ぼす場合,相手の個人的な領分に踏み込むことは許されません。黄色信号を意識して自制し,確実に赤信号の前で抑制することが必要です。逆に考えると,黄色信号を意識できないと,赤信号で急には止まれずに一線を踏み越してしまいます。もしも交通信号で黄色信号を廃止して赤信号だけにしたら,交差点は混乱することでしょう。世間にはさまざまなしてはいけないことがありますが,その抑制には二段階が必要です。車で言えば徐行して止まるということ,生活上の振る舞いでは迷惑を互いに意識して控えつつ確実に抑止することです。迷惑であるという信号を出し合えることが円滑な抑制につながっています。
 いい加減にするという意識はアナログ的ですが,人間の能力に沿っています。今の情報社会では意識が0か1のディジタルであるためにいい加減さが無くて,人の制動能力との相性はよくありません。カスハラやセクハラをはじめ,ネット上での炎上など,してはいけないこと,あってはならないことへの糾弾が少し度を超している部分があるように思われます。ちょっとした迷惑や行き違いを意識し合える手立てや対話の余裕を持つようにした方が,皆お互いに生きやすいのではないでしょうか。

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(2024年05月05日:No.1258)