家庭の窓
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ネットワークが人々の手元につながっている現在,膨大な情報がネットワークの仕掛けによって分類されて,言葉の波となって端末に押し寄せてきます。タイトルもどきのフレーズが波頭になってネット配信者の思惑に沿った処理順にパラパラと目にとまります。波乗りならぬ指タッチすると言葉の波がざーっと目の前に立ち上がってきます。その波にどこまで付き合うかは,受診する者のその時の時間の持て余し状況に拠ります。
この情報の押し売り状況を何気なく受け入れてしまうと,聞き流すのではなく,見流すことに慣れてしまいます。無作為に届けられた情報は一時記憶にすらならずに,きれいさっぱり消え去っていきます。というより,次々に登場する情報に上書きされていくので,止まることはありません。人の情報処理能力や記憶容量を無視したシステムに翻弄されているだけです。
流れてくる情報は,誰かが発信したものであり,それが二次や三次に改訂されて,誰かによって選別されて,届けられます。情報発信の意図は,言葉の伝達に関わる者の思いも幾重にも注ぎ込まれていくので,まるで絵の具を重ね塗りするのと同じで真っ黒になるか,色の光を重ねるように真っ白になっています。
情報は私があなたに伝えたいという形でこそ伝わっていきます。ところが,ネットを使った情報は誰かに伝えたいという曖昧さがあるだけに,伝わり方が弱くなります。その上さらに,伝えたいという思いすら込めることなく,ただ言いたいだけという雑音でしかないものもあります。読み取る者にすれば,私ではない者への情報でありえます。こちらから検索をするという働きかけをした場合には,集まる情報はある程度伝わっていくかもしれませんが,提供者の想定と合致しているかどうかは不確定です。
また,情報世界にはサイレントマジョリティという言葉があるように,情報は少数の話したい人によって発信されるものという認識があります。そのことを忘れると,情報が多数の意見をまとめたモノという思い込みをします。声の大きな者に引きずられるという弊害が起こってきます。大多数の人は伝えなければならないというほどの情報は持っていないのです。大事な情報は溢れるほどもあるはずはないのです。
人が生きていく上で必要とする情報は処理能力の範囲に限定されます。そこで,選別する配慮が必要になります。その実践は自分が知りたいことを意識して探し求めていくことです。情報が人を結びつけるものであることを思い起こしておきます。
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