《有難い 間合いの先に 我がいる》

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 人は衣食住の全てを自己完結できていません。誰かのお世話になっています。世間の中にいるお陰です。そのお世話の模様は人それぞれの事情によって千差万別です。幼児や老人は大人に比べて多様な世話を必要としていますが,その状況は誰もが通る過程として世間にはその世話は織り込み済みです。
 ところで,特別な事情を抱える人も実在します。例えば,障がいのある人です。社会の有り様が特別な事情に対応できていないために,生き辛い障がいを押しつけられているのです。そこで,障がいのある人に対しては合理的配慮をすることが,世間の義務とされるようになりました。
 義務になったことで,世間はワザワザ対応しなければならなくなりました。ワザワザというハードルを越えるには,相応の理由が必要になります。それが合理的という説得要素です。仕方がないという背中を押す理屈を見つける配慮をしなければなりません。どこまでできるか,それで間に合うのか,それならできそう,そういう問いに答えていくことになります。
 幼児に対する特別な世話は世間には既に織り込み済みということですが,それは全ての人が幼児を体験できているからです。自らの問題と自覚できているために,特別に配慮することなく,義務という後押しも必要がありません。幼児は自分でもあり,私の中にいる,私たちという意識が持たれているのです。もちろん,老人も未体験ではありながら,自分とのつながりは自然な認識ができます。そこで,それなりに対応する世話が日常の暮らしのついでに実践されていきます。ワザワザではなく,ツイデに,なのです。
 障がいのある人は,普通には自分とは違う他者です。自分とは違う世界の人,自分とのつながりがない人だから,ワザワザという段差が意識されてしまうのです。障がいのある人が家族の一員であったら,私たちの中にいることになり,合理的配慮は登場しません。私たちの暮らしのツイデに必要な世話は織り込まれているはずです。言われてする受け身ではなく,進んで世話をしたい能動的な状況なのです。
 人間がまとっている間には少なくとも2種類があります。一つは私とあなたという向き合っている間,もう一つは私たちという寄り添っている間です。前者の間はそれぞれが相手と距離を保ち間合いを思案しながら加減している間で,つながらなければならない間です。一方,後者の間はそれぞれが頼り合っている間で,つながっていたいと思っている間です。
 人の関係には,私とあなたという間柄と,私たちという間柄があると考えてきました。実はもう一つの間柄があります。それはつながっていない間柄です。英語の人称を思い起こしておきましょう。一人称のI,二人称のYou,三人称のHe,She,そして複数のWeがあります。私とある程度のつながりがあるあなた,行きずりの人のような彼や彼女,私と同じくらいつながっているつもりの私たち,それぞれに間の違いがあり,間合いの持ち方が異なっているのです。
 情報社会という世間では,それぞれが自由な立場であることを意識することから,私と彼,彼女という匿名のつながりが主になってしまっています。住みやすい世間とは私たちという世間であることを思い起こしています。

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(2024年06月16日:No.1264)