家庭の窓
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今世間ではさまざまなハラスメントが蔓延しています。セクハラから始まってパワハラ,マタハラ,カスハラと日進月歩です。その原動力は,正論らしき根拠に依拠して他者の変革を強いなければならないという驕りの発露です。
前号では,私を一方的に押しつけるハラスメントは八つ当たりであり,傍迷惑な行為であると書きました。ものも言い様で角が立つの言葉通り,私たちという間柄への配慮が,言い様には不可欠なのです。今号では,余計なお世話ということについて,考えておきます。
情けは人の為ならずという言葉があります。情けを掛けることは,相手の人を甘やかすことになり,為にならないから,してはいけないという教えであると理解されています。相手を見くびり,上から目線で未熟さを押しつけています。実際は逆で,情けを掛けると,その情けが順送りとなって自分に戻ってくるから,自分のためであるという意味であり,相手がいる世間を信じているのです。
バスの優先席に座っていた老婦人が,赤ん坊を抱いて幼児を連れた女性が乗ってきたのを見かけて,席を譲りました。その方が周りを見ると,二人の高校生が二人掛けの椅子をそれぞれ独り占めしているのに気がついて,「どちらか一人でも席を譲ってあげたら良いのに」と残念に思われています。席を譲るのは良いことだから,私は実践したけど,良いことを実践できない高校生を残念に思う私がいます。
高校生が席を譲るかどうかは,高校生が決めることであり,私がどのようにも関わることではありません。良いことはすべきではなくて,した方が良いのであり,しないからといって,とやかく言われることでもありません。人の振り見て我が振り直せという言葉の通り,高校生が老婦人の振りを見て,次には席を譲るかもしれません。それは高校生の判断に任せるべきことです。高校生にとっては,余計なお世話なのです。
席を譲られた女性は,ありがとうのお礼を述べられたはずです。親切は「有り難い」から嬉しいのです。その温もりが心地よいから,私も誰かに親切にしようと情けの順送りが始まっていくかもしれません。親切というご縁が私たちというつながりを作り出していきます。そうしなければならないのではなく,そうなればいいと信じることが,私たちへの信頼になります。
席にこだわると,今はした方が良いことが実現しやすいように優先席という仕掛けが採用されています。そのために,席が必要な人は優先席にという思い込みが生じてしまって,一般席は優先配慮をしなくてもかまないという雰囲気になっているのでしょうか。そうではなくて,私たちの中には優先配慮をした方が良い人がいるというメッセージを受け止めて,一般席でも配慮しようとなってほしいものです。
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