家庭の窓
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ご縁という言葉があります。たくさんの人がいる中で,ふとした出会いで知り合う人がいます。双方が意図したものではなく,出会いが偶然としか思われない時に神仏の導きであるご縁といった風に考えておこうということです。何かのご縁でつながりを持てるとき,私は「私たち」という意識を持てるようになります。いま,その境地が消えてしまっていると思われます。
私という意識が旺盛になっているせいか,人との関係が殺伐としてきました。いわゆるハラスメントが,あらゆる局面で噴出しています。
自治体や企業といった組織内での運営責任体制としての階層性が,人間関係に踏み込んでパワーハラスメントに及んでしまうのは,「私」が増長しているからです。強大な私にはご縁というつながりは儚く振り払われます。客である私は神様であると誤解した私は,理不尽な要求を店の人に突きつけるカスタマーハラスメントをもたらしています。私の感情を憚ることなく流出していると,思い通りにならない私の不快感から不機嫌な振る舞いに及んでしまい,フキハラという所業に至ります。昔はそれを八つ当たりで傍迷惑といっていました。
SNSで私を匿名という陰に隠しておいて,私を主張してみせる書き込みをするときに,そのメッセージが無数の他者から誘い出すであろう多様な理解,誤解,曲解を思い描くことはしていません。極めて一方的な言葉の押し付けには,私の世界の侵略でしかないのです。
私が集まる状況になると,皆という自分意識の拡大が起こります。人間社会は皆という構造を持っています。社会ではそれぞれが何らかの役割を担うことになります。例えば分担すべき仕事があるときに,私は「その仕事 皆でやろうと 人に投げ」という対応を取ろうとします。皆の中に私を組み込むことを避けていきます。地域社会で必要な役割は,誰も引き受けないことになります。つまり,地域は私とつながっていないのです。その結果,地域の自治会に加入しない選択をすることになります。
私という意識を持つ人が出会うと,そこではトラブルや事件が必至になります。いわゆる子どもじみた所業になってしまいます。戦争も私と私の衝突です。賢い人間はとっくにその解決をしてきたはずです。私は自由であると意識することは許されていますが,その自由が適うかどうかは場合に拠ります。いわゆる世間における自由は,他者との間では五分五分なのです。
自分が自由であることは他者も自由なのです。簡単化すれば,自由は平等に全ての私に与えられています。そこから一歩踏み込んだ意識が,私,人間,人の間,私たちというつながり合う意識への成長です。理由はともかく,何らかのご縁があってつながり合える私たち,それが世間であり,人間として生きていく社会の基盤としての意識なのです。日本社会で古くから大事にしてきた私のウインではなく,私たちのウインウインというゴールを信じ合うことです。
私の幸せを望むとき,結婚しない独身状況に向かうしかありません。私たちの意識を持てない状況では結婚はあり得ません。私の世界は私の代で終わるので,次世代は存在しなくなります。会社が私に何をしてくれるかという私心評価しかできないと,誰も相手にしてくれなくなります。会社は私たちの場だからです。旅の恥は掻き捨てとゴミを散らかしていく私は,そこに住む人を私たちと思うことができないのです。
私に幸せは訪れるのでしょうか。私たちであれば,仕合わせ=することを合わせていけるはずです。
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