家庭の窓
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ネットニュースを何気なく覗いていると,「五失人員」という言葉が目に飛び込んできました。それは,中国で起こった自動車の暴走による殺人事件の背景に触れた記事の中でした。類似の事件が頻発している社会背景を説明する概念を表す言葉でした。中国のこれまでの急速な経済発展により貧富の格差が拡大しましたが,その発展が最近鈍化してきたために,社会階層の上層への移動が停滞してきました。そこで,「投資の失敗」,「生活における失意」,「人間関係の調和の喪失」,「心理的バランスの喪失」,「精神失調」という5つのことを失った人たちが社会にかなりの数に現れ,その人たちの自暴自棄な社会への復讐が起こっているという状況認識です。
言葉について日頃からなんとなく気にしていることは,前述の五失のように数を指定している言葉について,何故その数であるのかという根拠が明示されてないことです。普段の対話の中でも,「その点については3つにまとめることができます」といった言い方がされますが,何故3つなのかということが説明されることはめったにありません。3つ以外はないのか?と問いただしたいのですが,その場ではぐっとこらえています。言われたことそれぞれを何らかの違いを見つけて区分けしようとすると,同じことを違って表現しているだけと思われる場合もよく経験します。
数の指定があるということは,それぞれが何かの指標・論点によって区分されているはずです。例えば,位置関係であれば「前後左右」の4方,上下を加えると6方になります。時間経過であれば「過去現在未来」の3時です。このような理系の認識では区分けの数はしっかりと固定されやすいようですが,対象が人文系になるとかなり曖昧さが紛れ込んできます。特に人間に関わる状況説明では,明示すべき内容の区分けが難しいという状況判断があるのかもしれません。そうは言っても,何事かを説明する際には,押さえておくべきポイントが共有されていなければ,正確には伝達できませんし,論をより正確に展開する立場も曖昧になってしまいます。
先ほどの五失人員ですが,この5つを区分けすることができるのか,試してみましょう。まず人間を見届ける背景について,経済社会における格差への挑戦に注目しています。その挑戦の不具合によって,人が追い込まれる状況には5つの面があると思い描いているのです。その5つとは何を見ているのでしょう。まず「投資の失敗」は互恵が基本である経済活動から排除されているために「社会参画」(私は何で生きる)を喪失しています。「生活における失意」は貧しい生活状況に追い込まれて差別されている状況から「安心」(私はどこに生きる)を取り上げられています。「人間関係の調和の喪失」は不遇なときに機能するはずの助け合いによる共生の関係を妨害されている状況から「成長機会」(私はどう生きる)を奪われています。「心理的バランスの喪失」は経済格差の解消という目標と現状との乖離による心理的なストレスにより「希望」(私はなぜ生きる)の消滅に見舞われています。そして「精神失調」は今の自分に確かなものと信じられるものがないために「自暴自棄」(私は誰)に陥っていきます。
以上が5失ですが,もう一つの視点を想定することができます。それは自分のことをどう表現できるかということです。事件を起こした人は,尋常ではない自分を表現する無謀な行動に走って行くしかないと追い詰められていました。しかし,追い込まれて苦しい自分の状況を素直に周りに表現(私はいつ生きる)し援助を求めることを選択すれば,状況は好転できたはずです。つまり,6つめの状況選択の機会も失っていたのです。五失人員は全て自棄になって事件を起こすのではありません。事件を起こす人は六失人員なのです。
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