《楽しみは 戦争と平和 違い見る》

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 スマホの画面に飛び込んできた記事に目がとまりました。「平和の反対語は?」と尋ねられたら,何という言葉を思いうかべますか?,という一文です。註には,塩瀬隆之 反対語から考えを深める[『図書』2024年8月号より]とありました。
 <以下転載>最初にうかぶ言葉の一つは,「戦争」ではないでしょうか。しかし,わたしたち戦争を直接に経験していない世代は,戦争についてちゃんと理解できているとは言い難い。それがよくないことだとは知っていますが,メディアで見聞きする以上のことは何も知らない。では,知らないその言葉を反対語にしたところで,当然ながら,想像する元の言葉の輪郭もあいまいにならざるをえない。そう考えると,実はわたしたちは平和というものを考える土台を,そもそもちゃんともってはいないのではないでしょうか。

 「平和」の反対語を考えるときに,よく知らない「戦争」という言葉だけで,果たして平和にちゃんと向き合うことができていたのか。「戦争はよくない」「戦争はなくすべきだ」。どんなに美辞麗句を並べても,やはりわたしたちは戦争を直接は知らないし,止める方法も起こさないやり方も,理解しているとは言い難い。まずはもっと身近な言葉から,自分たちの知っている言葉を尽くして「平和」の反対語を考えるべきではないでしょうか。<以上転載>

 このテーマに似た論考の例を以前に見たことがあります。地元紙の投稿の中でした。高校の生徒さん方が,平和を考える足がかりとして反対語として戦争を想定している投稿を読ませていただきました。戦争がない世界は平和であると単純には言えないという論考でした。戦争がない現状においても,人権侵害や環境問題があり,日常の安全安心な暮らしが当たり前ではない人もいる,それらの実情を平和とは思えないという状況分析の悩ましさが伝わってきました。

 戦争と平和が反対語,対義語として知られている中で,その単純な対比に何かしら落ち着きのなさを感じるのは,なぜなのでしょう。対比する軸が明確に共通化されて認識できていないという点が問題なのです。

 まずは言葉の本質から見ていきます。人が物事を見て認識する道具が言葉ですが,それは数学の座標軸の形をしています。0点を中心にプラスとマイナスの逆方向を意識的に見ていきます。金銭の損得勘定に似ています。見落としがちなのが,プラスでもマイナスでもない状態,いわゆる普通の状態です。暑くも寒くもないちょうどいいとしか表現しない「普通」の状態があります。背が高くもないし低くもない,中背の人がいるのです。
 戦争というマイナス,平和というプラスが共にない「普通の状態」が存在します。それが私たちの日常です。そうすると,戦争が無いのは「普通」であり,平和とはならないのです。他方,平和でないのは「普通」であり,戦争であるとはならないのです。損してないことは得ではなく,得してないから損しているのではないのです。
 ところで,損得は金銭,寒暑は気温といった共通の尺度(軸)が想定されています。戦争と平和には,このような共通軸が想定できないのでしょうか。戦争がある,平和があるということを,共に表すことができる指標はないか探してみます。戦争は争いであり,争いはお互いが違いを認め合えずに排除しよう,従わせようとすることです。一方,平和は和むことであり,和むはお互いが違いを認め合い,協働し,共生しようとすることです。違いを積極的に拒否する方向が戦争,違いを積極的に受容する方向が平和,違いに無頓着で静観しているのは普通ということになります。
 もちろん,お互いの違いを認めるとか認めないとかは,戦争や平和に限ることではなく,様々な振る舞いに現れます。高校生が見えていたように,人権侵害や不適切な行動などが起こり,一方で思いやりのない状況も実際には起こっています。ただそれは,戦争や平和という言葉とは別の表層事象であると考えておくべきでしょう。
 戦争と平和,それは私だけが生きようとすること,私たちが生き様とすることであり,その中間にそれぞれ勝手に生きているという状況を認めておかなければなりません。

 違いを差別し排除するのではなく,違いを超えて同じを意識できるときに和が生まれてくる,そのためには戦争がないことと平和があることとは表裏ではなく,私たち皆が和を願って努力する営みが平和には不可欠であると見えてくるのではないでしょうか。

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(2025年04月06日:No.1306)