家庭の窓  
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 2025年のノーベル生理学・医学賞は,大阪大学の坂口志文特任教授に授与され,彼の過剰な免疫反応を抑える「制御性T細胞」の発見が評価されました。この発見は,がんやアレルギーの治療において重要な役割を果たすと期待されているそうです。ところで,免疫とはウイルスや細菌などの異物から身体を守る仕組みのことであり,先天的に生まれつき持っている防御機能としての「自然免疫」と,一度異物に感染した後に記憶され再度感染した際に反応する後天的に獲得される「獲得免疫」の2種類があるということです。  
 細胞を自他として区別し他を排除する自己保存のための「免疫」という機能は,社会組織にもあるのでしょうか? 最近の○○ファーストの動きを違いを排除しようとする形と考えると,機能としては似ているように思われます。このような違いを忌避して差別することは,免疫として社会維持に不可欠な機能と見なすべきなのか,それとも差別を免疫に結びつけることが不適切なのでしょうか。 
 制御系T細胞という存在を有効であるとするなら,免疫反応を抑制することで,違いを違いのままに受け入れることの可能性を認めることになります。免疫は状況によっては多少緩められることも有効となります。一方で,社会における差別は多少でも行うことは無効であると考えられています。原則として差別は無用,免疫は有用であり,それぞれを同じ機能と誤解してはいけません。このことは,人体に関する知見と,社会に関する知見とは対応できないということです。細胞が集まって生きている人体と,人が集まって生きている社会,その形の類似性に惑わされないように留意すべきです。 
 人の感覚は同じであることには鈍く,違っていることには鋭く働きます。違いは危険という観測の主目的が機能しています。例えば,男性は女性の存在に敏感で,距離を置こうとします。何かしら分からないことのある存在と感じてしまうからです。ところが,その違いによる距離感を埋めようとする状況が発生することがあります。恋愛感情による接近です。もちろん合意という条件が付加されることが原則です。このように違いを受け入れる状況が起きるときは,種の保存という目的の達成のためという,それぞれ特別な要件が追加されています。 
 人は他と比較しての自己の存在価値を求めることがあります。ある価値観に基づく競争が起こります。上下,優劣,先後といった評価軸が持ち込まれます。社会には選抜試験という分別機能が存在しているので,その後遺症が残っているのです。人を見る物差しは無数にあります。しかし,それぞれがお気に入りの物差しにこだわるので,差別感が生まれてきます。ルッキズムによる順位付けのような単純なものから,社会的な表彰付けなどややこしいものまで,人によってさまざまです。 
 SNSという社会面では,勝手に他人事に言いがかりを付ける風潮が蔓延しています。例えば,有線イヤホンをサブカルと貶めるといった表現がなされます。人それぞれでいいのであり,他人の選択を兎や角言うことは越権となります。自分の好き嫌いを他に当てはめることは,自己免疫でしかなく,社会差別になります。 
 人に備わる免疫機能が社会に持ち込まれてしまうと,排除作用が発動することがあり,その先に戦争という不幸に至ることになります。人とはやっかいなものです。 
 
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