《楽しみは 明るい昼間 考えて》

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 弱り目に祟り目。好事魔多し。生きているというのは厄介なものです。浮き世の風邪は冷たいものと覚悟はしていますが,それにしてもどうして次から次と降り掛かってくるのでしょう。思い通りにことが運ばないのは世間の常としても,想定外のことが飛び込んでくるのはかないません。思いもしなかったことに直面させられるのは,思わなかった方の落ち度といえばそれまでですが,それが重なることになると嫌になってきます。
 愚痴を言って気が晴れることもありますが,状況の改善は進みません。何らかの対応を迫られれば応じなければ済みません。なるようにしかならないと放り投げてしまうこともありますが,気持ちの引っかかりは解消しません。時間の経過による忘却という処理にすがることになります。し残してきたことが多いという悔いが,人生にはつきものです。あのとききちんと処理していれば,こんな目に遭わずに済んだのに。そんなことがあると経験していながら,ついつい手を抜いてしまう愚かさに嘆息することになります。
 世間の人を眺めていると人生を楽しんでいるのに,どうして我が身はそうではないのか? そこから生まれる妬みの気持ちが,人の不幸は蜜の味という嫌な感覚を掘り起こします。想像力を働かせてみれば,人間万事塞翁が馬という一面に思い至ります。人は今を精一杯生きているのですが,昨日から明日へのつながりの中で今日を見るようにすれば,現在は過去の流れに従っており,将来は現在の流れにつながっていることになり,結論を急がないでよいという余裕を持つことができます。
 好事と悪事は判断の物差し次第で変わるということです。今日の悪事は明日には好事を産み出すことになります。そうなるように努力することが今日なすべきことになります。明日にどうつなげるか,それが生きるという基本の覚悟です。悪事に見えたのは,努力すべき課題が見えたということに過ぎません。このことを昔の人は試練が与えられたと考えるようにしてきたのです。そうでも思わなければ,生きていることがつらくなるだけです。
 幸せかどうか。それは就寝の時明日の朝起きるのが楽しみであるかどうかです。そう教えてくれた古人がいます。今日精一杯生きた,明日に希望を持つ,そのプロセスが幸せ感ということです。今が恵まれている,それは幸せとは言えないのかもしれません。まだ人生の途上にいる身では,確信するには至りません。ただ言えることは,そう考えていた方が生きるのに楽だと思えそうです。楽しみは,ものごとを明るく考えていくことから手にはいるような気がします。考え事をするのは明るい昼間の方が適しているのです。

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(2007年03月18日号:No.364)