《しあわせは 身近な世界 知り尽くし》

Welcome to Bear's Home-Page
ホームページに戻ります

家庭の窓にリンクします! 家庭の窓

 出かけるときの足について振り返ってみます。歩いて行けるところは歩きます。少し遠くなると自転車に乗ります。ぐんと遠くなると車に乗ります。どの足を使うかによって,空間風景が違ってきます。視野については,足は近景,車は遠景になります。体感時間については,足は長時間,車は短時間になります。体感距離については,足は直接的,車は間接的になります。車生活に馴染んでくると,周囲の環境認識が特殊なものに限定されていることを忘れることがあります。
 最も顕著な認識のぶれは,歩行しているときの車の理不尽さを忘れ,歩行者のわがままに苛つく身勝手さに現れます。歩行者との距離感が間接的になり,肌で感じていたはずの車の怖さを感じなくなります。相手の身になるという思いやりが機能しなくなります。
 歩いている世界と車で通りすぎる世界とは,全く違います。歩くときは,なぞるように風景を感じますが,車窓の流れは飛び飛びの断片になります。道沿いに在るものが消えていることが,歩いてみると分かります。また,車が入らない路地は未知の世界になります。地域に馴染むというのは,歩くことで可能になります。人が生きている世界は,人が手足で暮らしている世界です。人とのつながりも,手足の世界がつながることです。車越しのお付き合いはあり得ません。せめて自転車の世界であれば,まだ付き合うことができます。
 この風景認識の距離感は,情報の処理についても起こります。何を知っているか?という情報の内容を思い起こすと,身の回りのこと以外のことが意外と多いようです。隣人のことはあまりよく知らないのに,有名人やタレントのことはよく知っているといったことがあります。テレビが伝える情報の大部分が,個人的には意味のないものです。知らなくてもどうということがありません。自分の目や耳で集めた情報世界と,テレビのようなネットワーク上にある情報世界は全く違います。情報通が自分のことを知らないということも起こります。
 天気を見るのに,天気予報をテレビ画面上に見るのか,それとも頭上の空を直接見上げるのか,生きているという感覚はどちらが濃いでしょうか? もちろん,どちらに信頼性があるかという選択尺度もありますが,ここで気にしていることは,二者択一ではなくて,テレビ一辺倒への反省です。両方を使うことの勧めです。自分の直接的な観測能力を眠らせてはいけないと思っています。
 ディスプレーを見つめ続けると目に負担となります。そこで,時々目を離して遠くの風景を見ることが進められます。遠近という調節機能を使いましょうということで,人が持っている機能を使わなかったり偏った使い方をしたりすると,退化したり限界疲労に至ります。使ってこそ機能・能力は洗練されていくものです。自分の手足や感覚でできることはするように心掛けていきたいものです。

ご意見・ご感想はこちらへ

(2010年12月12日号:No.559)