《仕合わせは 優しく見つめ 見つめられ》

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 街に大きな目の描かれた看板が張り出されています。「見られています,あなたのマナー」(犬の糞の持ち帰り),「ゴミ捨てダメ,通報します」(ポイ捨て禁止)の警告文とセットになっています。新聞記者さんが見つめられた感想を書いています。

 「近所付き合いが盛んな田舎で育ち,周囲の目を疎ましく感じることもあった。一方で,誰かに見られている感覚の隅っこには,見られている安心感もあったように思う」「地域のつながりが薄れがちな都市圏はどうだろう。人の目の代わりに設置された防犯カメラでは,見守られているというぬくもりは感じられない」「冷たい視線が張り巡らされた社会はどうも息苦しい」。

 この記事を読んでいて,我が身に振り返ってみると,思い出されることがありました。車を運転しているとき,パトカーが視界に入ると心なしか緊張することがあります。見守られていると感じるか,見張られていると思うか,それはこちらの状況や気持次第です。緊張するときは,なにか些細な違反をしている自覚,あるいは気付いていないミスをしているかもしれないという危惧があるときです。車は自信を持って安全運転しなければいけません。夜道を歩いているときは,パトロールをしているお巡りさんの姿には,見守られているという安心感を感じます。勝手なものです。
 見られているということは,もう一人の自分が自分を見ることと同じ配置になります。したがって,目を描いた看板はもう一人の自分を目覚めさせる意図を持つことは明らかです。世の中を批判的に見ている目に慣れていると,見られる目も同じと感じてしまうのでしょう。人を疑ってばかりいて不幸になるのは,自分が人から疑られていると思うようになるからです。自分の影を投影しているはずです。完全な無心ではなく,おおよそは人を温かい目で見ることに慣れておきたいものです。

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(2015年09月13日号:No.807)