家庭の窓
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地元紙の新聞記者のコラムに目がとまりました。
以前,先輩記者が亡くなった人を悼み,コラムで「天国への階段」「合掌」と書いたところ、仏教関係者に注意を受けた。「天国」はキリスト教,「合掌」は仏教に関する表現であり,宗教的に一致していないとの指摘で,それはその通りだった。
宗教にまつわる表現は難しく,悩ましい。読者投稿欄を担当していて,同じような壁によくぶつかる。例えばお盆の時期。亡くなった家族が「天国から帰ってくる」という表現は,キリスト教と日本古来の祖霊信仰,仏教が混在している。「黄泉の国に旅立った。合掌」という表現は神道と仏教か。宗教的に一致していない表現をそのまま掲載していいものか。
しかし,こうしたあらゆる考え方を受け入れる感覚こそが日本的な宗教観であるならば,本音ではそのまま掲載したいところだが…。
**************(西日本新聞:27年8月30日朝刊)
宗教に関連する言葉に,もしも色を付けるとすれば,文章が色とりどりになってしまい,統一性がなくなることでしょう。それを良しとすることが日本的であるのなら,豊かな色合いを楽しむことになります。特別の宗教に関わりを持つ人は、異教と混ざり合うことは耐えられないはずです。新聞のような公器が,ことさらに嫌な思いを招くような非礼を働くことはできないというのが常識のようです。
日本人は無宗教であると言われます。それは,固有の宗教に心を染めることはしないというだけで,宗教観を否定・非難していることではないはずです。宗教的概念を、既存の語句を部品として用いて、自分なりの宗教的イメージを構築しています。厳密な語義からずれることがあるかもしれませんが,それは新しい言葉として機能しています。同じ言葉ですが,もとの宗教とは別の言葉に様変わりしていると考える方がいいようです。
信仰をいい加減に考えるのは冒涜であるということもあるかもしれません。不謹慎は無知蒙昧の徒として承知しています。人はそれぞれが自分の宗教観を持っていいではないかと思っています。オリンピックの公式エンブレムの盗作,パクリが話題になっていますが,個人の使用については著作権が寛容さを示しています。宗教的言語も個人使用については,大目に見ていただけるとありがたいなと思っています。宗教の排他性が幾多の諍いを起こしてきたことを顧みると,厳密なこだわりにはつきあいたくないと感じています。
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