*****《ある町の人権擁護委員のメモ》*****

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【信言権?】


 前6世紀頃のアマシス王の時代に,サモス人イアドモンが,町で友人と酒を飲んでいて,酒の弱い友人に大ボラを吹いていました。「これぽっちの酒に酔うなんてだらしがないぞ。俺は海の水だって飲み干せるぜ」。しつこい男であった友人は「そいつは面白い。やってもらおう」と,イアドモンが飲めなかったら,屋敷を明け渡す約束までさせてしまいました。翌朝海辺で待っているという旨の使いが来て,困り果てていたイアドモンは,日頃目を掛けていた機知に富んでいる奴隷の知恵を借りることにしました。
 友人はイアドモンを笑いものにしようと,町中の人を海辺に集めていました。友人は「さあ,約束通り海の水を残らず飲んでくれ」とニヤニヤしながら言いました。イアドモンは少しも慌てず「いいとも。だがその前に河口をせき止めて川の水が流れ込まないようにしてくれ。俺は海の水を飲むとは言ったが,川の水まで飲むとは言った覚えはないからな」と答えました。友人は言葉に詰まって何も言えませんでした。屋敷に戻ったイアドモンは「お前のお陰で助かった」と言って,奴隷であるイソップを自由の身にしてやりました。
 調子に乗ってつい口にした言葉を逆手に取られて追い詰められることがあります。最近の失言の騒ぎに似たようなことは,人が言葉を使い始めて以来起こってきたことでしょう。言葉は使い手によって意味が限定されます。それを拡大解釈すると,話が違ってきます。海の水という言葉を,現実の海に当てはめようとすると,川の水と区別する必要が出てきます。そこで現実のつながりが言語の別の実現を不可能にします。話し手の言葉は常に聞き手にとって違った言葉になります。
 信頼感という共通の基盤がなければ,話は通じません。相談に寄り添うというのは,お互いの言葉を信じ合うために不可欠のことなのです。
(2018年12月05日)