*** 子育ち12章 ***
 

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「第 16-02 章」


『育ちとは 自分信じる もう一人』


 ■徒然子育て想■
『寄り添うために?』

 「いいんだよ」。親は滅多にそんな言葉をわが子に向けることはできません。そう言ってやれるのは,おそらく肉親ではない一歩離れた距離にいるよその人です。親が勉強を見てやっているとき,子どもが間違えそうになると,「どうしてそんな答になるの? やり直し!」と頭ごなしに叱りつけます。親は勉強の教え方を学んでいないので仕方がありませんが,そのことを自覚していないままに生兵法をするので困ります。勉強嫌いをしつけているのに!

 子どもは覚え立てでなけなしの知識を動員して考えています。一方で,答を間違えることは問題として予定通りなのです。間違えることを想定して作成されています。とにかく,自分で正しいと判断する通りにやってみることが大事です。間違えていいんだよ,それが教える側の基本的なスタンスです。間違えたときに遡っていくと,思い違いや見落としなどの分かれ道に戻ってきます。何故間違えたか,何処で間違えたかが分かります。間違えたわけを見つけて間違えなくなること,それが本当の学力なのです。

 最初は間違えてもいいと思っていると,子どもはノビノビと考えることができます。もしも,間違えてはいけないと強いられたら,オドオドしてしまって力を発揮することはできません。育ちとは,自分のありったけを思った通りに表に向かって出し続けることです。「思った通り」ということが大事です。誰が思うかといえば,もう一人の子どもです。やりたくないなとブレ−キを掛けるのも,やってみようと意欲を発揮するのももう一人の自分です。

 親の方はどうすればいいのでしょう。例えば,試合で勝つように祈りながらも,負けてきたら「いいんだよ」という言葉掛けが激励です。激励といえば,ガンバレと後押しをすることだと思われていますが,気にしなくていいんだよというフォローがあってこそ,激励が完成します。大人であればミスは明確に自覚しているので,自覚が足りないという意味での叱責も効果がありますが,子どもの場合はもう一人の子どもの自覚が未成熟ですから,猶予を最大限に活用しなければなりません。

 できなくてもいいんだよ。そんなことを言っていたら,子どもは何もやろうとしなくなるという心配も出てきます。できないままでいいんだと思われたら困りますね。育ちを止めることになります。もちろん,ここで取り上げているのは,やってみたいという挑戦の気持ちがあるという前提の上のことです。そのことに向けた親の関わり方は,楽しくしてみせることです。楽しそうだなと思わせられたら,子どもは自分もやってみようとします。これが親子で一緒にやるという意味です。

 ここまでできたね。それでいいんだよ。できたことをきちんと見つけてお墨付きを与えることが,子どもの意欲を後押しします。その確認の仕方をもう一人の子どもが覚えるからです。自分は全くダメなのではない,ここまではできたと思うことで自信が育っていきます。もう一人の自分が自分を信頼できるようになるということです。人が育たないようにするには,周りがダメだダメだと言い続ければ済みます。大人だって落ち込むはずです。いいんだよ。それがゆとりある子育てです。



【質問16-02:子どもは,自分を認めようとしているんですよ】


 ○第2条:自認権!

 人にどう思われるだろうか? 人がどう思おうと自分には関係ない! 他人との関係では,その両極端の間を揺れ動くものです。褒められれば自分が認められたという喜びがあり,貶されれば自分が認められていないと悲しくなります。そんな他人の思惑など意に介せずに,自分さえよければそれでいいという強がりもあり得ます。もちろん,相手に応じて変幻自在でもあります。一概に両断できるものではありません。

 人はわがままで自分勝手で自己保身を優先するものです。そのことを認めた上で,お互いに関わり合わなければなりません。きれい事では社会の中で生きていけないからです。人は内に火山を抱えながら,それを上手に制御してお互いに火傷をしないように,装いを整えて生きています。自分に嫌なことは人にしない,自分に好きなことを人にする。この二つが暮らしの原則です。自分に嫌なことや好きなことをメモリーして客観的に見極めることができるのは,もう一人の自分です。わがままとは,もう一人の自分が育っていないために,TPOに適った装いを纏うことができないことです。

 人はこちらが気にするほど見てはいませんし,かといって全く見ていないわけでもありません。人の目が気になるのは,実はこだまのようなもので,自分が人をあれこれ見ているからです。例えば,人から疑いの目で見られていると感じるのは,実は自分が人を見る目が疑いの目になっているからです。人の目や人の思いというのは,もう一人の自分が自分を見る目であり思いなのです。

 人の目を気にするのもしないのも,もう一人の自分が自分をどう見ているかということです。もう一人の自分がしっかりしていれば,ふらついたり迷うことは少なくなります。人は十人十色でそれぞれいろんな感性や価値観を持っています。育ちの中でどの価値観が普遍的であるかを見極めて,自分のスタンスを選ぶことができたら,取りあえず落ち着けます。毎日の人付き合いの中で幾分軌道修正をしていけばいいのです。

 朱に交われば赤くなると言われています。朱色とは悪い色という意味ではないのですが,朱色としかつきあっていないと,朱色が普遍と錯覚し,もう一人の自分が朱色になるということです。片寄った選択をしないために,いろんな色合いの人とつきあうことが大切です。狭い付き合いの人になんとなく違和感を感じるのは,染まるからです。人に土地柄があるのも染まるからです。子どもの時の友だちは,もう一人の子どもの育ちに影響するので,子ども集団が望まれるのです。

 児童期にはいると友だちと同じであることを望む傾向が出てきますが,それはもう一人の子どもが自分を認めようとしているからです。心配なのは,今の子どもたちは同じ年齢の友だちしか持っていないので,十人いても一色状態であり,とても狭い価値観に閉じこめられていることです。小さなことに過敏になって,もう一人の自分がピリピリしているので,人付き合いも苦手になっていきます。異年齢集団の付き合いがあれば,ゆったりとしたもう一人の子どもが育ち,自分を余裕を持って認められるはずです。

・・・生きる心として豊かにすべきものは,第一に自尊心です。・・・


 ○分別?

 子どもが場所柄を弁えないで,お利口にしていなくても,少々のことなら大目に見てもらえます。子どもには場の雰囲気を読めないというハンディを与えています。それは自分の行動をチェックするもう一人の子どもがまだ育っていないと考えられているからです。もう一人の自分には,他者と共通認識を持つことが期待されているのですが,体験不足であれば分からなくて当たり前という猶予が与えられています。

 世間の常識から外れたとんでもないことをしでかした人に対して,精神鑑定がなされることがあります。責任を問えるかどうかという資格検査ですが,それは言い換えればもう一人の人がちゃんと存在しているかどうかという調べです。昔は狐憑きなどと言われ,正気を失っていると考えられていましたが,もう一人の自分が得体の知れない物の怪に取って代わられているように見えたのでしょう。責任のある行動とか判断能力とは,もう一人の自分がきちんと目覚めていてこそ,とれるものです。

 成人式というのは人に成ると書きますが,もう一人の自分の育ちの卒業であり,社会的に認められた人になるという意味です。気分次第で騒ぐ成人には,まだもう一人の自分が未成熟という評価が下されます。20年掛かけて育たなければならない,人というのはとてつもない精妙な生き物なのです。20年とは7305日です。一日に一つの育ちのネジを組み込んでいけば,7305点のネジです。それが多いと感じられるか少ないと感じられるか,子育て作業の手順を考えてみてください。

 しつけをし常識を植え付けちゃんとした社会性を身につけさせる,それはもう一人の子どもの育ちになります。自制するとは,自分の本能的な行動をもう一人の自分がコントロールできる状態です。我を忘れるというとき,自分が何をしたか思い出せないはずですが,もう一人の自分がフリーズしているからです。冷静にとか沈着にということは,もう一人の自分が考えて決める分別を円滑に進める条件なのです。もしもきれたら,もう一人の自分は幽閉されて,人は正常ではなくなります。

 相手の身になって考えるという思いやりも,もう一人の自分が相手の立場に立てるから,実行することができます。身ずまいを正すときには,人の目になって自分を見ていますが,それができるのはもう一人の自分です。時と場合によっては,本音と建て前という対立が起こりますが,自分ともう一人の自分との葛藤と見ることもできます。物語を読んでいるとき,主人公になったつもりで本の世界に入り込んで疑似体験をしているのは,もう一人の自分なのです。本を読まなくなった子どもたちは,もう一人の自分を眠らせたままにしていると言うことができます。

 人は自分を環境の中に適合させようとします。適応性が人の最も大切な能力です。五感によって情報を集め,最も相応しい行動を経験の中から選びます。理に適った判断ができれば,分別のある人として生きていけます。このとき,自分の能力を弁え能力を発揮させているのは,もう一人の自分です。逆に,能力を発揮させないのは,ダメな自分ともう一人の自分が切り捨て諦めているからです。子どもの可能性を伸ばしているのは,親や先生ではなく,もう一人の子どもなのです。

・・・分別を備えたもう一人の子どもの育ちが子育ての本質です。・・・



《子どもの育ちはもう一人の子どもの育ちであると心掛けて下さい。》

 ○わがままな赤ちゃんが,やがて自分の中に生まれてくるもう一人の赤ちゃんと二人三脚をはじめると,聞き分けのできる子どもに育っていきます。子育ては目の前にいる子どもだけではなく,子どもの中に生まれたもう一人の子どもを育てることです。それが産みの親が育ての親になるということです。お兄ちゃんやお姉ちゃんになるとしっかりするのは,もう一人の子どもが自分はお兄ちゃんだと自覚するからです。

 自分を見ることのできるもう一人の子ども,そう考えて頂くと子育ても違って見えてくるはずです。ママが細かく直に指図してしつけるのではなくて,考えて決めさせるという機会を与えることがもう一人の子どもを呼び覚ますことになります。言われてするのが嫌だと言うようになったら,もう一人の子どもに徐々にバトンタッチをしてやってください。

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