*** 子育ち12章 ***
 

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「第 2-06 章」


『分からない 人の気持ちに 子は不安』


 ■はじめに

 自分を大切にする子どもに育てることがしつけの目標に定着してきました。
 もちろん,もう一人の自分が自分を大切に思うということです。
 では,どのように大切に思えばいいのでしょうか?

 子どもの育ちは自分の欲求を満たそうとして始まっています。
 親からのしつけという余計な導きがなければ,自分を大切にしています。
 でも,それは「わがまま」として矯正されなければなりません。

 自分を大切にするとは,自分だけを大切にすることとは違います。
 そのためには,いったん自分を離れてみるステップが必要です。
 その育ちを仕組んでいくことが,親によるしつけになります。

 パパやママが子どもと違った他者としての役割を果たします。
 もう一人の子どもが,他者を意識し,複眼を会得していきます。
 そのとき,ほんとうの意味で自分を大切にすることができるでしょう。



【質問2-06:あなたは,お子さんに気配りを教えていますか?】

 《「気配り」という内容について,説明が必要ですね!》


 〇人見知り?

 前章で,自分を見つめるもう一人の自分の育ちが子育ちであると述べておきました。一身同体であったママと自分は違っていることを,もう一人の自分が気付くようになります。その小さな不安の隙間にいるときに,家族以外の人に直面すると恐くなります。人見知りをします。

 ママがその人と楽しそうに話してみせれば,子どもは「この人は大丈夫」と感じて,興味をそそられながらなれていきます。子ども同士のつきあいでも,まずママが親しく相手の子と遊んでみせるといいでしょう。もう一人の子どもは経験不足でまだ判断できませんので,ママが保証書を発行してあげるのです。

 人見知りをするということは,自分と違った人間がいるということを意識することです。このことを裏返せば,もう一人の自分が他人とは違う自分を発見することにもなります。こうしていわゆる自意識が獲得されていきます。

・・・人見知りはもう一人の子どもの産声です。・・・


 〇パパの存在感?

 ママは身を分けた我が子とは動物的本能的自然意識として一体感を持っていると言われてきました。この母性本能があると信じたいのですが,最近そのことに逆らうような事例が現れてくると,確信が持てなくなります。それはともかく,子どもは母子一体感を引きずって産まれます。

 母子をつないでいる第二のへその緒を断ちきる役目がパパの出番です。イヤな役目ですが,パパにしかできないことです。社会化への脱皮を促すことで,もう一人の子どもを無事に誕生させる産婆役です。子どもにとってもママとの仲に割り込んでくる邪魔者です。ママが保証し取りなしてくれないと,第二の誕生はスムーズに進みませんし,パパは嫌われ者になります。

 ママがパパと仲良くしていれば,もう一人の子どもはパパをよいライバルとして見習おうとします。パパのイス,パパの座布団などをママが常日頃から大切にして言って聞かせていたら,パパが家にいなくても,子どもはパパを身近に感じることができます。男の子であればそこにちょこっと座って,パパになったような気分を味わいます。パパになってみる遊びを通して,もう一人の子どもはパパという他者に気配りできるようになります。ママゴトでパパ役をすればパパそっくりというわけです。

・・・パパの存在感はママが作り出すものです。・・・


 〇似合う?

 もう一人の自分が十分に育ってくると,「見られている自分」を意識するようになります。人前に立つと緊張したり,恥ずかしくなったりします。また,「皆がしているから」と人まねをしようとするのも,自分を皆と同じにしようとするか,逆に目立たせようとするか,状況で変わりますが,いずれにしてももう一人の自分が他者の目を持って自分を見ているからです。

 中高生の派手な格好へのあこがれも,異性という他者の目を気にし始める頃に加速されます。ただ異性の目が何を見ているかは想像するしかありません。人生経験の浅い子どもには無理なことでしょう。そこで流行している格好がいいという単純な思いこみに染まります。その幼稚にさえ見える頼りなさは,次への育ちに向けた準備段階です。

 親には服装の乱れとしか見えない格好をしている子どもに,「な〜に,その格好は!」と詰問するよりも,「あなたには似合わないよ」と言ってやる方がいいでしょう。子どもは見られる自分を意識し,とりあえず流行の借り衣装をまとっています。そこでもう一歩育つためには,自分に似合った衣装を探すということです。同世代のあやふやで狭い鑑賞眼や商業的なお仕着せの妄信に従うのではなく,子どもをよく知る親の的確な鑑識眼を聞かせてやってください。「自分に似合うか」と考えさせることができたら,本当の意味でもう一人の自分が自分を見つめるようになります。

 ママにとっても,自分に似合う衣装探しは難しいのかもしれません。でも,鏡の前で自分の姿をじっくりと眺めて考えるでしょう。鏡の中の自分を見ているのはもう一人の自分です。そのもう一人の自分はパパの目になったり,友人の目になったり,他人の目になったり,あるいは姑の目になったりしているはずです。そうして自分を見つけていませんか?

・・・自分探しは確かな他者の目を持つことからです。・・・


 〇カエルと一茶?

 「痩せがえる 負けるな一茶 これにあり」。ほほえましいのどかな田園風景ですね。相撲を取っているカエルたちを眺めながら,一茶はやせたカエルを応援しています。弱きを助けるのが正義なら,一茶は正義の味方です。子どもの頃に習った教訓的な俳句ですが……。

 俳句の作者は一茶ですが,句の中にはカエルと一茶が登場しています。もう一人の一茶がカエルと一茶自身を見ています。どうしてカエルと一茶が並んでいるのでしょうか。カエルは相撲で勝って強いカエルにならなければ,強い子孫を望む雌カエルに嫁に来てもらえないのです。一方で,当時の一茶は娘のような嫁をめとり,毎晩の大奮闘ぶりを日記に書いていました。嫁取りのカエルと嫁孝行の一茶はやせたもの同士以上の似たところがあったのです。だから一茶はやせガエルに肩入れしているのです。ちょっと子どもには話せない俳句の心です。

 カエルを写し鏡にしてもう一人の一茶は自分を見ています。カエルを応援する形を取りながら,その先は自分に向けたエールです。他者に優しい眼差しを持つためには,他者の後ろに自分を見ておくことが大切だということを教えてくれます。思いやりは相手の立場に立つことだと言われます。確かにそれは必要なことなのですが,もう一つ先に進んで,相手の姿に自分を見つけてこそ十分なものになります。弱きを助ける正義も,もう一人の自分に弱い自分が見えるからこそ発揮できるということです。

・・・生き物の健気さにも気配りして自分を見つけましょう。・・・


 〇人を見る目?

 電車やバスに乗り合わせて,隣の人を警戒することはあまりないでしょう。街の雑踏を歩いていても平気です。誰も自分が危害を受けるとは思っていません。それは自分が誰かに危害を及ぼそうとは夢にも思っていないからです。ところで,不幸な通り魔事件が起こります。その加害者は自分が誰かに危害を加えられそうだと錯覚しているようですが,実のところ自分が他人に危害を加えたい気持ちを秘めているから,人もそのように思っていると信じ込んでいます。

 大人が他人を見るときのメガネは自分なのです。何となく自分と同じだと思っています。人の目が意地悪く思えるときは,もう一人の自分の目が意地悪くなって自分を見ていることがあります。自分を肯定的に見ることができないと,人の目もそう見ていると信じてしまいます。いったんその迷路にはまりこむと,人が信用できるかどうかではなくて自分自身が信用できなくなっているので,自らによる脱出は相当に難しくなります。

 社会生活上,人間の本質を性善説か性悪説のいずれに分別するかという困難な課題が未だに残されています。しかし一般論は別として,子育ちでは親は性善であることから,まず他者を信用することから始まります。親が子どもを見る温かな眼差しをならって,もう一人の子どもは自分を肯定的に見る癖を刷り込まれます。親が仲良くつきあっているよその人も信頼できると感じていきます。

 親がご近所や地域とのつきあいを避けていると,子どもはよその人がつきあいをしてはいけない人,自分たちとは違う人と思うようになります。親はせめて挨拶を交わすことができる気配りは子どもに見せておくべきでしょう。もう一人の子どもが周りにいるほとんどの人を肯定的に見られるようになれば,周りからも自分は肯定的に受け入れられているはずだと思うことができるでしょう。子どもは人を信頼することによって,自分を信頼できるように育っていきます。

・・・温かな気配りが自他の信頼への育ちになります。・・・


 〇私たちの中の私?

 エリクソンという先生がアイデンティティを持った人間について,次のように定義しています。

 1.自分が何者であるかを明確に定義し,価値観を持つ人
 2.内的道徳律と自己コントロールがあり,自我理想に従って行動する人
 3.複数の社会的役割としての自分を秩序づけており,自己と他者に対し
   て行動に責任を持っている人

 もう一人の自分が自分を知り,自分をコントロールし,社会的立場をわきまえた行動を自分にさせることができるということです。簡単に言ってしまえば,「私たち」という気持ちを持てるかどうかです。家族という人のつながりを種として,ご近所,友人や仲間,知人といった幾重にも輪を広げていけるつながりを大切に思うとき,そこに「私」が確立します。私たちという輪が無い「私」は単なるエゴイズムになります。

 ボクはパパとママの子である,お兄ちゃんである,男であるといった関係からの「私」と,私はママのお手伝いをしたい,妹は守ってあげる,友だちにはいつも優しくするといった前向きな信条を持つ「私」が子どもの中に育っていくように,親の導きが求められています。私の家族は〇〇することを大事にしているといった気配りの目標があれば,子どもには入りやすいでしょう。

 人の欠点を笑ったら相手がどう感じるかなど頓着しない子どもが増えています。形としては群れていますが,お互いに気配りを失った孤独な私たちです。でも,はじめから子どもに期待するのは無理です。ママが相手の気持ちに気配りし代弁して教えなければなりません。立場が違えば感じ方も逆になることを知らなければ,人の輪は作れません。

・・・気配りのないアイデンティティなんて!・・・



《気配りとは,もう一人の子どもが自他を同時に認識することです》

 ○イタズラをしてパパにきつく叱られました。「パパなんか,大嫌い」と思います。そんなとき,ママが可愛いから叱っているパパの思いをそっと伝えてください。決して一緒になって叱らないように。ケンカの仲裁役のような取りなしがないと,後に尾を引いてしまいます。

 【質問2-06:あなたは,お子さんに気配りを教えていますか?】

   ●答は?・・・もちろん「イエス」ですよね!?

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