『子育ちは 触れ合う環境 表現し』
【心得 43-06:子育て第6心得】
■子育て12心得■
『子育て第6心得』
〜親は環境と交流させなさい〜
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○モンテッソーリ教育:No.3
子どもが環境との交流を持ち始めるまでは積極的に,交流が始まったら消極的になりなさい。
能動的な精神を持ちながらも,子どもが仕事に集中している時は受動的な立場で,温かく見守り観察する。
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○ひらがなやカタカナを読めるようになると,まちの看板に目が行くようになります。漢字は読めないので器用に外します。知っている言葉だけならいいのですが。7歳の男の子が母と車に乗っています。車のまどから,看板を読んで「コ・ン・テ・ナ…コンテナだって! アンテナと間違えてるよ〜」。コンテナって言葉は知らないけれど,アンテナは分かる1年生でした。知らない言葉があるということに気がつくのは,もう少し後のことです。焦らずに,穏やかに教えていきましょう。
路地から開けた道に出ると,風が出迎えてくれます。「風が冷たい」。そう思います。もう一人の自分が,自分に向けて,無言で語りかけます。言葉を知らないと,自問自答はできません。自分を理解するために,言葉が必要なのです。「冷たい」という言葉は,同じような経験をしたときに,そばにいたお母さんがそうつぶやいたのを聞いて覚えました。人と同じ経験をすることで,言葉の共通性によって,経験と結びついた言葉を獲得していくことができます。共感する環境が言葉の泉になります。
子どもの遊び場が整えられています。安心して遊ばせられるのですが,四六時中そのような場では飽きてくるでしょう。緊張感のない環境は居心地はいいのですが,自分の力を引き出すチャンスを与えてはくれません。ちょっと不便なことがあるときに,何とかしようと力を絞り出します。環境の中に自分の取り組む課題を見つけて,悪戦苦闘することが教育力です。ごく自然に集中していきます。平たく言えば,することがある,することが見付かる,そのような環境が子どもを育てる環境です。
小高いところに登ると,風景は違って見えてきます。お父さんに肩車をしてもらうと,視界が広く感じられます。同じ世界も,見る位置を変えると違ってきます。子どもは子どもの目線で世界を見ています。当然大人の目線とは違います。少し大きめのイヌは,子どもには大人がウシを目の前にしているような大きさに見えています。大人サイズにできている環境の中で,子どもは住みづらさを何とか乗り越えようとがんばっています。大人の読む本をのぞいてみたりしながら,見知らぬ言葉に出会って,広い世界を感じています。
環境と交流するということ,それは触れ合うことができるということです。いわゆるヴァーチャルな世界は環境とはいいがたいものです。テレビ,ネット,ゲームなど視聴覚の世界も身近にありますが,基本的な育ちに対しては適当な環境ではありません。それは交流が限定的だからです。子どもが全身で関わりあえる実世界が必要です。楽しいことばかりはない,悲しいこともあるし辛いことや痛いこともある中で,自分を見つけていく経験をしておく,それが生きる力の素材となって蓄えられていきます。
自然という環境があります。風,雨,空,雲,森,山,川,草,木,太陽,月,・・・。そのような言葉を覚えたときに,自然との交流が始まります。木に花が咲き実がなる,言葉で説明ができるようになると,木が生きている姿をイメージすることができます。台風,地震,津波など,自然には恐ろしい面が隠れていることも大切な知恵です。交流が成り立つためには,相手を理解しておくことが必要です。理解は表現によって可能になります。交流をして環境を理解すれば,生きていく世界が広がっていき,何より生きやすくなります。
環境との交流は情報の交流による理解に始まり,行動による関わりに進みます。例えば,花を見て感動をするという交流に止まらず,花を育てるという関わりに発展していきます。種を蒔けば花が咲くという単純な因果関係だけでは,花は咲きません。花を咲かせるにはそれなりの世話が必要です。環境との関わりは一筋縄ではいきません。ちょっとしたコツのような微妙な気配りを会得しなければなりません。自分自身と環境の,両方の取り扱い方を,子どもにしてみせることが親の役目です。
★落書き★
手塚治虫があるとき動物の絵本を頼まれ,いろいろな動物の絵を描いていました。ところが,電気の黄色い光の下で作業したために,白い絵の具を黄色と間違えてしまいました。朝になって描き上げた絵を見ると,黄色いはずのライオンが真っ白になっていました。もちろんこの絵はボツになりましたが,面白いと考えた手塚は,ジャングル大帝レオとして,マンガの世界に再生させました。マンガの神様でも失敗をすることがありますが,その失敗を失敗として終わらせない発想の転換が神様と呼ばれている所以なのでしょう。