*** 子育ち12章 ***
 

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「第 58-01 章」


『子育ちは 私を見つける 私いて』


■子育ち12考察■

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『子育ち第1考察』

【私】

《まえがき》
 この子育て羅針盤では,子どもの育ちを6つの視点と2つの領域から理解することを目指しています。6つの視点とは,誰が育つのか,どこで育つのか,いつ育つのか,何が育つのか,なぜ育つのか,どのように育つのかという問に沿うものです。また,2つの領域とは,自分自身の育ち(私の育ち)と他者と関わる自分の育ち(私たちの育ち)という育ちの領域を想定しています。6つの視点にそれぞれ2つの領域を重ねると,12の論点が生じます。これが羅針盤の針路構成となります。

《私とは?》
 私という言葉を使うのは誰でしょうか? 人差し指で自分を指して,「私!」と言っているのは,もう一人の私です。自己紹介をするとき,私は○○ですと名乗ります。名前は他人が呼びかけるときに使うものです。その名前を自分で言うのはルール違反です。自分のことを名前で呼んでいるのは,もう一人の自分なのです。幼児が自分のことを○○ちゃんと名前で呼べるようになったとき,もう一人の子どもが誕生したことになります。私には二人があって,私と呼ばれる私と,呼ぶもう一人の私がいるのです。

 自分のことを,ワタシと呼ぶか,ボクと呼ぶか,その違いによって,もう一人の私は,自分の性を意識するようになります。また,名前の一部である名字を同じくする人がいることを認識して,家族の一員である自分を意識します。住んでいるところ,通っている学校,年齢などの個人情報を身にまとっていき,もう一人の私は,自分を一人の人として区別できるようになっていきます。もう一人の私が自分を意識していくプロセスは,止まることなく追い求められていきます。

 親に愛されている自分,友達に好かれている自分,先生にかわいがられている自分,あるいは,親から邪魔にされている自分,友達から避けられている自分,先生ににらまれている自分,いろんな自分を見つけて,もう一人の私は「私とは?」というイメージを作り上げていきます。そのさまざまな自分の中で最も大切なもの,それは名前を持つ自分であり,親から愛されている自分です。この2つが確固としているともう一人の私が信じていれば,生きていく力が失われることはないでしょう。



 私のことを一番知っているのは私。誰でもそう思っているでしょう。でも,自分では知らない私を他人が知っています。もう一人の私が知っている自分と,他人が知っている自分は違っているのです。このような自分イメージについては,ジョハリの窓という考え方があります。
 私のことを分かっているだけでは,社会生活は成り行きません。自分とは違う他人を知らなければ,共同生活はうまく運びません。そこで見極めるべきところは,違っているところではなく,同じであるところです。その先に私たちという意識が生まれます。逆に違いばかり見ていると,仲違いする方に流されていきます。

★落書き★

 「目を閉じて片足で立て」といわれたら,どちらの足で立ちますか。おそらく左足でしょう。それでは,「ボールを蹴れ」といわれたら,ほとんどの人は右足で蹴ることでしょう。日本人の足は,足の裏の着地面積が左の方がやや大きく,歩行中に着地している時間も左の方がやや長くなっています。ということで,左足で体を支え,右足は自由に動かせるようになっています。左足を支持脚,右足を運動脚と呼び,役割が違っているのです。私のことが1つ明らかになりましたね。


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