*** 子育ち12章 ***
 

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「第 6-09 章」


『乳を噛み 鼻つままれた なぜだろう』


 ■はじめに

 子どもという大器を産み,人づくりに勤しむママは芸術家です。自然の大岩から美を彫り出す彫刻家,無垢な白布に美を描き出す美術家,その営みには自ずから共通の技があります。最初は大まかな形を創り,仕上げに向かって精緻さを込めていきます。

 人の顔を彫るとき,鼻は大きめに,口や目は小さめに彫り進みます。大きさの修正をするとき,大きな鼻は小さくできますし,小さな目や口は大きくすることができます。逆は不可能です。小さな鼻を大きく彫ることはできません。物事には逆戻りできないことがあるということです。

 最初からこぢんまりと整ったものを創ろうとすると,仕上げの行程が実行できなくなります。常に余地を残しながら進める余裕が創作活動の有り様です。工場で作られる製品ははじめからきちんと整えられていなければなりません。創ると作るは違います。人づくりを人作りや人造りと思うか,人創りと思うかで,その営みは全く異なります。

 子どもの育成は芸術活動に似ているのですが,大きな違いもあります。それは仕上げをするのはママではないということです。ママの関わりは育ちの途中の段階で終わり,社会の他の人が関わってくる中で,子ども自身が仕上げをすることになります。ママの思い通りに育てていると,子どもが自分を創ろうとするとき,逆戻りできない羽目になりかねません。そこに,子育ての難しさがあります。大まかに育ててやって頂けませんか?



【質問6-09:あなたのお子さんは,質問をしていますか?】

 《「質問をする」という意味について,説明が必要ですね!》


 〇なぜ人とおつき合いをするのでしょうか?

 気の置けない人と話すのは楽しいものです。気の置けないとは気が許せないことだと誤解されているようですが,気を遣わなくていいという意味です。利害関係が絡まないおつきあいは和やかな気持ちにさせてくれますが,果たしてそんなつきあいがどれほどできているのでしょうか?

 ボランティア活動が静かに浸透しています。ところで,ボランティアをしてあげているという気持ちは傲慢であると,誰しも思います。そこで,ボランティアをさせて頂いているという言い方が出てきました。これは相手である当事者に不愉快さを与えてしまいます。そんな大層なご身分だとは思っていないので,皮肉に聞こえます。

 人の手を借りなければならない情けなさを酌み取ってやることが,ボランティアの心です。情けなさの底にあるのは,助けて貰っても何のお返しもできないことです。せめて金銭的に片が付けば,よほどすっきりすることができます。そこに便乗するのが商売としての福祉でしょう。

 ボランティアを成り立たせているのは,その場で決済できるものとはせずに,順送りにするという構造です。かつて世話を受けたことがあるから,今お返しをしているとか,かつて親が世話して貰ったから,今子どもが助ける方に回っているといったことです。世代毎の順送りなのです。

 世話している方もやがて自分が世話を受ける身になります。世話をされている方もこれまでの付けを払って貰っていると思えばいいし,世話をさせてあげれば功徳になると考えればいいでしょう。人は一人では生きられない弱みを持っています。長いおつきあいの中に生きるための積み立てをしているのです。

・・・禍福は糾える糸の如しとなって,帳尻が合っているのです。・・・


 〇無からの発想?

 テレビが故障すると,子どもが尋ねます。「どうしてテレビが映らないの?」。おじいちゃんは暮らしの前提がすっかり逆転してしまったと感じます。自分たちは,「どうしてテレビが映るのか?」という疑問を持っていたのに,今の子どもは映るのが当たり前になっています。

 飛行機事故があったりすると,「なぜ飛行機は落ちたのか?」という事故原因の解明がされます。そもそも飛行機が飛ぶことの方が不思議であって,落ちて当たり前ではないかと思うのが普通でした。

 子どもの試験の点数を見て,「どうして百点が取れないの?」とママは思います。百点が取れて当たり前でしょうか? 本当は,「どうして百点が取れるのか?」と考えるべきなのです。できて当たり前と思うから,失敗をマイナスに評価します。評価にはどれだけできるようになったかというプラスの尺度を採用すべきです。

 子どもが「おもちゃが動かなくなったよ!」と言ってきます。はじめから動くおもちゃを与えていると,壊れたときに簡単に見捨ててしまいます。発想は有からではなく,無から生まれるものです。動かないのが当たり前であって,動くにはそれなりの仕掛けがあると知っていれば,何とか直せないかと考えるようになります。

 子どもの質問が無を前提として有を問う形であるならば,その発想は創造力を培います。甘いお菓子ばかり与えていると,「このお菓子はどうして甘いの?」とは気づきません。朝起こしてやっていると,「どうすれば起きられるようになるか?」とは考えませんよね。

・・・不自由さを何とかしようとするとき,人は考えます。・・・


 〇誰が何を?

 子どもの質問は,成長につれて変化していきます。ママは毎日接しているのでその変化が見づらくて,意識できないかもしれません。どうして子どもはいちいち細かいことを質問するのでしょう? 自分を取り巻いている環境を分かりたいからです。大人でも見知らぬ所に入ると不安になりますよね。何がどうなっているのか分かれば,自分の対処を考えることができるので安心できます。

 幼い頃は,名前を尋ねます。真っ先に覚えるのが「ママ」,次が食べ物を指す「まんま」,「パパ」はその次くらいでしょうか。動物を飼っていれば,その名前を口にしていきます。さらに,物の名前が続きます。自分が関心のある物に手を伸ばして取ろうとします。取れないと何か言います。取りたいという気持ちを表現したいからです。その物の呼び方を知って口にできれば,気持ちを外に出すことができます。

 自分の気持ちをうまく言葉にできないときは,イライラしますよね。気持ちの便秘状態になります。それがいつまでも続くとキレルことになります。外界への関心を表現する手段が言葉なのです。そして,その対象を名指しするために呼び名が不可欠になります。名前を尋ねるのは基本的な質問なのです。

 次の質問は,「何してるの?」といった形式で,他者の行動の意味を尋ねるようになります。自分には直接関係は無くても,人の動きには自然に関心が向くものです。街角で誰かが佇んで何かをのぞき込んでいたら,「何してるのかな?」とちょっと覗いてみたくなりますよね。好奇心と呼ばれている心の動きです。

 子どもはあらゆることが,好奇心の対象に見えています。ママが家事に忙しいとき,「ママ,何してるの?」。パパがパソコンの前に座っていると,「パパ,何してるの」。隣のおじちゃんが車を洗っていると,「おじちゃん,何してるの」。次々に尋ねて回ります。人はいろんなことをしている,いろんなことができる,人間そのものをじっくりと観察しているのです。もちろん,動物も絡んできます。「ママ,犬がネンネしてるよ」。

・・・子どもはまず名前という名詞,次に行動を表す動詞を尋ねます。・・・


 〇どうして?

 子どもの質問は,エスカレートしていきます。「どうして?」という訳を問う形になります。「どうして,犬は寝てるの?」。その背景には,自分は朝になったら起きて,夜が来てから寝ているという生活体験を持っているからです。起きている時間なのに寝ている犬,その違いに気づいたときに質問が生まれます。

 ママはどう答えればいいのでしょうか? 「暇だからよ」,「退屈してるんでしょ」,「そんなこと,犬に聞いてみなくちゃ分からないわよ」。犬が寝ている理由を真っ当に返事しようとすると,おそらくママでなくても立ち往生します。子どもの質問は,意外な発見を突きつけてくるので,難しい内容を秘めています。子どもには説明しても分からないという場合もあります。

 子どもは,正確な答えを求めているのではありません。「○○ちゃんはお昼寝をするでしょ。ワンちゃんも今お昼寝してるのよ」。「そうか」と子どもは納得します。理由そのものではなくて,子どもの持っている体験や知識に結びつけてやればいいのです。それが分かるということです。

 子どもは自分の体験から外界を見ています。自分には無い物,未経験なこと,普段と違うことに出会うと,「どうして?」と感じます。自分の世界観に合わないことが出てくると気になるのは,生きていくためにそれに対処する必要があるからです。知らないことがあると,どうすればいいのか考えることができずに落ち着かなくなります。

 ママがお化粧をしていると,「ママ,何してるの?」,「お化粧しているのよ」,「どうして,お化粧するの?」,「うるさいわね,そんなことは大きくなれば分かるの」,「ふ〜ん」。そこで,子どもはママのいないときに,口紅を塗ってみたくなります。「なにか,いいことがあるのかな」と思うからです。ちょっと塗っても,どうということはありません。「たくさん塗らないといけないのかな」。かくして,ベトベトになるまで・・。「どうしてママはこんなつまらない物を塗っているんだろう」。疑問は晴れませんが,自分には関係なさそうだと見極めがつけば,とりあえずは一件落着です。

・・・子どもは自分の体験にリンクすることで分かっていきます。・・・


 〇何処:その1?

 客観的に物事を考える力を子どもに持たせてやりたいと思いますね。その客観的な見方ができる素地を育ててやらなければなりません。自由な発想というものも同根です。それは地図を読む力としても確かめることができます。自分が何処にいるか,その理解と説明ができる力です。

 おとぎ話は,「昔々,あるところに,・・・」と始まります。時間と場所をはっきりとは語りません。そのことによって,いつでも,どこでも,その話が通用することを可能にしています。聞き手が勝手に想像する余地を醸し出しています。このような話の普遍性の他に,幼い子どもには時空の概念がまだ十分に育っていないことを暗に想定しているからです。

 子どもの世界は,自分を中心としたごく狭い範囲に限定されています。自分と対象の直接的な関係しか分かっていません。例えば,幼児の描いた絵を見ると,上下左右がでたらめです。自分が人や物を見ているだけで,対象同士の相対的な位置関係には頓着していないからです。花がある,犬がいる,家がある,お日様が出ている,ママがいる,それらが何の関係もなく紙の空いた場所に描き込まれていきます。

 ママがちゃんと描きなさいと言うとき,その「ちゃんと」とは一体何のことでしょうか? 絵を描くときは,一本の基準線を想定しなければなりません。花の根元,犬の足,家の土台,ママの足が一つの水平線上に並んでいる必要があります。その線上からずっと上に,お日様が輝いています。ママの顔を描くときには,まず基準線として卵形の輪郭を先に描けば,何とか格好が付きます。デッサンは空間的な基準線を描くことから始まっています。

 実のところこのような大切な基準線は,ほとんどの場合見えていません。自分で探して見つけて,頭の中で線引きしなければなりません。地図を読むというのも,頭の中で南北という見えない基準線を描くことです。この線引きは子どもにはとても難しいことなのです。

・・・幼い子どもは自分中心で,自分の上下前後左右しか認知していません。・・・


 〇何処:その2?

 幼いときは自分を中心にした「ここ」しか意識できていません。それが少しずつ広がっていきます。「ママ,どこに行くの?」。ママがちょっと出かけようとすると,子どもが即座に尋ねます。置いていかれると怖かったり,寂しかったりするからです。「そこのコンビニに買い物よ。すぐに帰ってくるからおとなしくお留守番しててね」。

 子どもは「そこのコンビニ」をよく知っているので,安心します。自分がいる「ここ」ではありませんが,「そこ」という別の場所も,自分の世界につながっていると思っているので,安心できます。こうして,いくつかのなじみの場所が「ここ」にくっついて,子どもの相対的な世界観が少しずつできあがっていきます。「そこ」からは「ここ」にすぐ帰って来れると考えることができたら,それが客観的な視座の始まりになります。自分を「そこ」に移して「ここ」を見ていることになるからです。

 読み聞かせや紙芝居をしてやると,子どもは驚くほど集中して楽しんでいます。若者も自分で読書をするより,話を聞いたり,マンガや映像の方を楽しんでいるようですが,言葉から自分のイメージを創作する力が弱いせいです。ここにある自分の世界は白黒で,そこにある話者の世界はカラーであるといった感じでしょうか。自分の思いもつかない世界がすぐ「そこ」に,目の前にいる話し手の周りから迫ってきます。その臨場感に包み込まれていきます。

 聞いて分かるということは,語られる言葉を知っていることです。自分の言葉でもあるわけです。「そこ」には新しいストーリーやイメージが生まれていきますが,「ここ」の世界の言葉と同じ言葉を使ってそれが可能になっています。別の世界のように見えて,実は言葉という共通の素材によって,自分の世界と直結しているという発見があります。「そこ」と思っていたが,本当は「ここ」なんだという気づきが喜びとなって現れていきます。

 子どもの前で暇つぶしに絵を描いてみせると,「今度はあれを描いて」と次々にせがまれます。ペン先から現れてくる線をじっと見つめている子どもの目は真剣です。書き進んで何となく形が見えてくるようになると,興奮は頂点に達します。「あっ,○○だ」。自分の中にあるイメージが,紙の上に再現された喜びを感じています。「ここ」にあるイメージが紙という「そこ」に具体的に見える形で表すことができるという実演は,子どもには最初は魔術に思えるでしょう。でも,同時に,「そこ」にも「ここ」があることを直感しているはずです。

・・・「そこ」に自分を入り込ませる体験が,客観的な思考を育てます。・・・



《質問をするとは,自分の世界を周りとつなぐことなのです。》

 ○子どもは妙なことを尋ねてきます。交通渋滞の車の列にいると,一番前の車は何してるの? 動物園の猿は後何年したら人間になるの? パパにはどうして尻尾があるの? どうして子どもは学校に行かなければならないの? 子どもなりにあれこれ考えているのですが,材料不足で解答が見つかりません。未熟なのですが,それでいいのです。疑問を持つことが大切な育ちだからです。

 ママは質問にいつも正確に答える必要はありません。大人の解答を示しても,子どもには無理です。分からなければ,一緒に不思議がって見せておけばいいでしょう。決して,「そんなバカなこと考える暇があったら,勉強でもしなさい」と言って,無碍に切り捨てないでくださいね。


 【質問6-09:あなたのお子さんは,質問をしていますか?:第1部】

   ●答は?・・・もちろん,「イエス」ですよね!?

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